4月1日
今日から4月。年度も変わりましたね。
入学式や入社式などがあって、今日から新社会人や大学生になった方も多いでしょう。
突然なんですが、僕はしばらく日本を出てみようと思っています。 去年一年だけでもいろいろな事があって、ネット上でも実生活でもいろんな人と出会い、いろんな話をしました。
それだけでも様々な事を学ぶ事ができましたけど、やはり同じ環境に居座っているだけでは限界があります。今と異なる新しい環境に飛び込んで、そこからたくさんの事を吸収したいと思うし、逆に自分が持っているものを伝えることもできると思います。
僕は割と自分に自信を持っている方で、どんなところでもやっていけると思いましたし、事実それなりにやってきたとも思います。しかし、振り返ってみればいろいろと配慮が足りなかったり自分のマイナス要因に気づいていなかったり目を瞑っていただけだったりして、未熟さ故に自分の未熟に気づかないという点が多かったですね。ちょっと振り返るだけでも、ぼろぼろと出てきます。だから、これからもっともっとたくさん出てくるのでしょう。
そういったものを一つ一つクリアしてプラスに変えて行ければと思います、そのためにはやはり、きっかけが欲しいです。
ここ数年は、必死になにかするという姿勢に欠けていて、ぬるま湯の生活に浸ってた気がします。人間、やはり楽な方に流れてしまうので、嫌でもアグレッシブにならざるを得ない環境に自分を放り込んでがんばらせたいのです。
ですから、しばらくはネットも無理だし、ここの更新も止まると思います。環境に慣れるまでしばらくかかると思いますが必ず戻ってきますので、忘れずにいて下さいね。
そう言えば、どこへ行くか書くのを忘れていましたね。
僕の周囲はアメリカに行く人が非常に多く、行くなら面倒を見てくれると行って下さる方もいるのですが、それにはやはり甘えられないと思います。
ですから、滞在先は火星と決めました。
驚きました?
今日は、エイプリルフールですしね。
と、いうわけで今年度もよろしく。
4月2日
朝日新聞の投書に、興味深いものがありました。
投稿者は中学生か高校生だったと思います。確か「障害者いじめと言われて」というタイトルです。投稿者のクラスには障害を持つクラスメイトがいるそうですが、彼はそのクラスメイトに対して同級生たちが何から何まで世話を焼くと言うことに疑問を感じるそうです。障害者でもするべきことはするべきだと主張しているんですね。これは、僕も前々から感じていた事です。権利があれば義務が生じるのは当然です。養護学級ではなく、一般
学級で授業を受けているからには、それなりのことを自分でしなければならないでしょう。むしろ、周囲の甘やかしによってそういった環境に慣れきってしまったら教育としては大きなマイナスですよね。僕の身近にはそういった障害を持つ人はいませんから、実際に自分が選択を迫られたことはないのですが、投稿者の方の様な主張をするのは大変難しいことだとは思います。
個性というものを強く全面に押しだし始めた昨今ですが、全体の風潮というものには押し流されやすいですよね。外見だけではなく内面 にしっかりしたものを持っていなければ、それは個性と言えないでしょう。
「金八先生」でも、クラスメイトに対して圧力をかけつづけていた兼末健次郎を許すか許さないかで議論が白熱化した回があり、なかなかの迫力でしたが、確かにみんながみんな簡単に納得できるわけはないですよね。ドラマ的には最後、みんなが許すということで終わりましたが、そこに至る過程はしっかり描けていたと思います。おそらく、障害者の問題で投稿した方には、そうやって意見を戦わせる場がなかったのではないでしょうか。つまり、障害者=弱者なので保護しなければならないという意識が当たり前となり、それに疑問を持つ者を悪としてしまう単純な道徳観念が彼を追いつめているのだと思います。
障害者とは限りませんよね。世の中には病弱な人、精神的にタフじゃない人などたくさんいるわけです。そういった人に傷つけたりすることはもちろんいけないし、そういったものはもちろん罪悪感として自分に跳ね返ってくるのが普通
です。
が、それをただ避けてしまっては差別となんら変わらないですよね。しかし、むやみに踏み込めばただのおせっかいに過ぎないわけです。難しいですね。
4月3日
書感です。
「さらば、荒野」
北方兼三/角川文庫
人口十五万のどこにでもある地方都市。当たり前の人々が生活し、当たり前の社会がある。しかし、その裏ではやはり当たり前のように暴力が暴力を振るわれ、当たり前のように人が死んでいく。
東京で事件を起こし、流れてきた主人公。共に生死をかいくぐってきた親友。過去を隠して淡々と生きるバーテン。いわゆる「わけあり」の人々。自分の命は惜まない。もっと大事な何かがあるのか、それとも何も大事ではないのか。彼らは何者にも屈しない。
ハードボイルドというものを初めて読みました。
それまでにこのジャンルに持っていたイメージとまさに寸分違わぬのがこの作品。「かっこいい」という言葉で説明してしまうにはあまりに凄絶な世界がありました。
登場するのは、癖の強い人間ばかり。 そして、この物語は彼らの人生の、ほんの一部に過ぎないのです。それまでの長い物語の終着駅であったり、
これからも続く物語の通過点であったり、出発点であったりします。
誰もが重厚な存在でありながら、その生命はあまりにも軽いです。主人公すら、一歩間違えば死んでしまいかねないのに、いつも一歩の差で生き残っています。
そう、この話は「サバイバル」ですね。巻き込まれた者は他が脱落するまでゲームを続けなくてはならない。そして、生き残る基準なんてないのです。死にたくても生き残ってしまったり、誰よりも執念深くてもあっけなく死んでしまったり。
それこと、神の気まぐれとしかいいようのないほど、人は物語の中で翻弄され、ぼろぼろになってしまいます。
彼らは、誰に選ばれたわけでもない。場合によっては、自分で選んだわけでもないのにこうした道を歩んでいます。タフな人間のようにも見えて、みんなどこかにもろい部分を持っていてそれを表に出さず、堅い部分で相手を打ちすえるのです。
そのもろい部分が表に出るのは、殻が破れたとき、つまりは死ぬときですね。
誰もが何かに甘えて生きているのに、それをしない、あるいは出来ない。自分にさえも弱みをみせられない。誰よりもタフで、ある意味誰よりも女々しいかもしれない男たちの物語、それがハードボイルドなのかも。
次は「新宿鮫」
4月4日
大沢在昌の「新宿鮫」を読み始めました。
まだ前半部分なんですが、この作品からはここ1年に読んだ本の中で最も強いインパクトを受けています。
「さらば、荒野」 が想像していたハードボイルドそのままの作品なら、「新宿鮫」は想像以上の世界。
普段から歩いていて親しみのある新宿という街の別な姿が描かれています。描写 や文体に大きな特徴があるというわけではないのに、主人公、鮫島の動作の一つ一つが目に浮かび、小説というより一人の人間のドキュメンタリーを追っているよう。
「さらば、荒野」主人公の一人称だったのに対して、「新宿鮫」は三人称。必然的に心理描写 は少なくなりますが、鮫島という男はその目的に対してのアプローチがとにかく直線的なのでわかりやすい。
猪突猛進というのではなく、 目標を定めたらとにかくそこに食らいつき、離れないタイプです。それが淡々とした描写 で続き、引き込まれてしまいます。詳しい書感はまた読み終わった跡に。
さて、「ヒカルの碁」の6巻が出たので早速購入。
予想に反してプロ棋士への道を歩み始めたヒカルは日本棋院の試験を受ける。一報、名人の息子でありヒカルのライバルである塔矢アキラはプロ試験に合格し、王座にあるプロ棋士との試合に臨む。あまりに実力も環境も違う二人は周囲からライバルに見えないが、内面
的にはお互いを強く意識しています。
今になってみると大昔の碁の名人が取り憑いているという設定はあくまで少年漫画として読者をつかむためで、展開はリアルな囲碁漫画になっていると言えます。
作画の小畑健は「人形草紙あやつり左近」なども手がけていますが、その絵はすばらしくきれいです。また、出てくる登場人物もなかなかお洒落。プロ棋士などもかっこよく描かれています。
能條純一の「月下の棋士」の持つおどろおどろしい雰囲気とは正反対とも言えるシャープな世界を展開する「ヒカルの碁」
これからにもかなり期待です。
4月5日
ビデオに録ってあったドラマ「ブラックジャック」を見ました。 手塚治虫原作の同名作品をドラマ化したもので、今までにもいくつかドラマになっています。主演のブラックジャックはかつて加山雄三が手がけたこともありますが、今回は徳川慶喜なども演じた本木雅弘。
顔に大きな傷が走り、髪の毛は半分白髪という原作に比べ、本木のブラックジャックの外見はおとなしめ。顔の傷もアップになって初めてわかるという程度。しかし、彼の鋭い目はまさにブラックジャックそのものです。時々コミカルなシーンを交えながらも、細められた目にはどうとも言えない暗さが漂っていました。
原作のブラックジャックの助手、ピノコも映像化は難しいだろうと思われたのですが、全く同時に話す双子の少女として描かれ、雰囲気出ていました。
なんでもそうですが、ドラマ化される時に気になるのは原作に対する忠実度とオリジナリティとのバランスですね。
僕は割と忠実なのが好きなのですが、そのままドラマにできないような要素ってたくさなるわけです。それをどう表現するかがいつも興味深い。ブラックジャックはオリジナルのアニメにもなっていますが、そっちは手塚治虫の原作にあるコミカルな要素をすべて取り除き、シリアスなものとして構成していました。今回のドラマは、原作よりも少し若者らしく、ピノコを相手にコミカルな言動をしたり妙に生活感があったりと、少し違和感があったのですが、肝心な場面
では原作通りの雰囲気。
結局、原作のポイントをしっかり押さえていれば多少は変えてしまっても十分に満足できると言うことですね。
さて、今更だけどブラックジャックに対する解説を少し。
ブラックジャックは三流医大を出たものの、医師免許をもっていないもぐりの医師。しかし、その実力は世界最高とも言われ、治療不可能と言われる患者はみんな彼を捜し求めます。
一般的に聖人として医師を描きがちな他の作品に比べ、ブラックジャックは金でしか動かないと言う冷血漢。そして、彼が請求するのは治療費は時に億単位
にまで上ります。
請求する治療費その時々でまちまち。どうやら何と引き替えにしてでも治療をしたいという人間しか相手にしないのです。
全財産と言わず、それ以上の額を請求する事もあるし、治療費が出せれば犯罪者の治療でもします。
今回のドラマで安心したのはそれが忠実に描かれていたことですね。人間の命を握っているわけです。生命のやりとりを判断するのはあまりに難しい。
助けられるからと言って、情けだけで簡単に人を助けたりはしない。常に彼には彼のルールがあるのです。それを描いている限り、原作に忠実と言って良いでしょう。なかなか見応えのあるドラマでした。
4月6日
就職活動なんかをしていてよく見る言葉に「一流」というものがあります。一流って、あちこち使われますよね。
「一流」とはもちろん、何かの分野でそれと認められる実力を持った人の事を言いますが、たいていの場合、技術や業績だけでなくさらにプラスアルファの何かを求められます。
歴代のサッカー選手などではペレ、ジーコ、マラドーナあたりが「超一流」と言われますが、どこかで「ジーコは心技があっても体がなく、マラドーナには技体があっても心がない。心技体を兼ね備えたペレこそが真の超一流」というような記事も読んだことありますね。「心」の要素をどうこまで考えるかというのは人次第でしょうが、サッカーの場合あまりに自分勝手だと活躍することができない、または活躍が困難になりますよね。集団でするスポーツですから。政治家や実業家などは人とのつながりが求められるから人柄はもちろん重要でしょう。
まあ、地位の高い人=人望がある、と素直に感じられないの事は多いですけど(笑)
その分野における実力を持っていればとりあえず「一流」と言えるでしょう。しかしながら、一流と言われ出すとそこで別 なものまで求められ出すでしょうね、普通。単純な話、性格の悪い人間が高い実力を持っていたらなんとなく釈然としないですよね?(笑)
現代においてはそれぞれのジャンルにおける「一流」の人は一種の英雄となっています。プロのスポーツ選手なんかは、見ている人間に夢を与えるのが職業とも言えます。やっている本人たち、特に若い人なんかはとにかく自分の力を伸ばし、活躍するのに必死でそうそういろんな事にまで気がまわらないのが実状なんでしょうけど、夢は壊して欲しくないですね。
ある意味、テレビのワイドショーなんかは夢を壊して歩く番組とも言えるかも。
「一流」という事に関しては、それぞれの人がイメージを持っているのでしょうが、それを自分に向けるか他人に向けるかでずいぶん変わって来ますよね。
自分が一流であろうとする意識、自分が一流になろうという意識を持って生きたいものです。
4月7日
しげの秀一の「頭文字D」18巻が出たのでさっそく購入して読みました。考えてみればまだこの作品を紹介していないことに気がついたので書いておきましょう。
「頭文字D」
しげの秀一/講談社ヤングマガジンコミックス
群馬県秋名山、秋名峠を早朝だけ走るトヨタのAE86スプリンタートレノは秋名で最速と言われる伝説の車。しかし、それを運転するのはかつて伝説になったドライバーではなく、その高校生の息子だった。なんと中学生の頃から無免許で秋名峠を飛ばしていたというその少年、
藤原拓海が主人公。家の手伝いのために嫌々おぼえた運転だが、バイトの先輩池谷や親友のイツキ、群馬最速と言われる高橋兄弟と出会ううち、「走り」に取り憑かれていく。
数あるレースもののコミックの中でも、これは行動レースを取り扱った作品。僕としてはどうしても苦手な暴走族ものなどのイメージにつながるので敬遠していたのですが、これはあくまでモータースポーツとして走る人々の話。言ってしまえば道路交通
法違反なのですが、 彼らなりのルールとマナーがきっちりあって作品中でもしっかり描かれているので割と納得。
この話のもう一つの主人公とも言えるのが主人公、藤原拓海の愛車スプリンタートレノ。80年代半ばに発売され、車ファンに大きな人気を得た名車なのですが、物語中ではすでに旧型車です。伝説の走り屋、藤原文太がチューンナップを重ね、バランス良く仕上がったこの車はRX−7やスカイラインGT−Rなどのスポーツカーを次々負かせていきます。
作者、しげの秀一の絵にはかなり癖があるものの、レースシーンには緊迫感があり迫力満点。車もうまく特徴をとらえているし、それぞれの車の魅力が物語中で語られているので読んだだけでにわか車ファンになること間違いないです。
そして、切っても切れないのが車とドライバーの関係。
それぞれが信念を持って車を選び、改造し、そして生命にかかわるかも知れないぎりぎりの走りをするわけです。登場人物の性格、生き方が車やドライビングテクニックにも反映されています。
ただ速さを競うのではなく、どの相手とも人間関係があり、信念をかけて戦うので物語も盛り上がります。
17巻で第一部が終わり、第二部「プロジェクトD」編に突入。最初はただ目的地に行ってレースをするだけという展開を予想し、物足りなさを感じたのですが今度の18巻を読んでその不安も払拭。これからの話はそれだけで終わらない予感を感じさせます。
あっ、タイトルは「イニシャルD」と読みます。
「D」はドリフトの頭文字と言われていますが、18巻を読むとどうやらそれだけではない模様。
ちなみに、僕はこの漫画に影響されてPSのゲーム、グランツーリスモ2では86トレノで散々走りました(笑)
4月8日
今日は書感を。
「新宿鮫」
大沢在昌/光文社文庫
「新宿鮫」「毒猿」「屍蘭」とこのシリーズのタイトルを並べていくと、菊池秀幸のバイオレンス系小説みたいです。最初、それで敬遠していたというのもあるのですが、真田広之主演の映画「新宿鮫」を見て、本格刑事物と知ったのが数年前。
元々、刑事物は好きなので読んでみようと思いつつずいぶん時間が経ってしまいました。この本は知人に勧められた北方兼三の「ブラディドール」シリーズ第一弾「さらば、荒野」とセットで購入し、続けて読んだので二人のハードボイルド作家を比較できてなかなか良かったです。
「さらば、荒野」がアウトロー小説なのに対し、「新宿鮫」は長編刑事小説と書かれていますね。
刑事小説にもいろいろあるでしょうが、これほどまでに正義というものを全面 的に押し出したものはなかなかないです。
主人公、鮫島を突き動かすのは正義感と「悪」や「不正」に対する怒り。それが単純な勧善懲悪とならないのは、この作品の持つ圧倒的なリアリティのおかげでしょう。
元警視庁のキャリアで、出世街道を駆け上がるはずのエリートでありながら、警察の機構そのものに疑問を感じてその道を外れてしまった鮫島は、存在そのものが危険視され、警察内でも孤立する存在です。刑事は二人一組で行動するというのが刑事物の常識ですが、彼は完全な単独捜査官。警部の肩書きを持っていながらただ一人の部下もおらず、それでも署内では並ぶ者のいないほどの検挙率を発揮しています。
彼の上司、桃井課長はやはり将来を嘱望された刑事でしたが子供の死をきっかけに覇気のない人間に変わってしまい署内でも「マンジュウ(死体のこと)」と嘲笑される存在。鮫島に対しては何の感情も抱かずに接しているように見えながら、内心彼に刺激されるものを持っている。
そして鮫島の恋人、晶(しょう)はロックバンドのボーカルで、ライブハウスには彼女のおっかけが集い、小柄なボディからパワフルな歌声を発して新宿の夜をにぎわせている。捜査の鬼のように思える鮫島の、彼女に対しては様々な人間的感情を発しています。
作者、大沢在昌の筆力は連続警官殺人事件の捜査を通して鮫島という男の全てを書くために注がれています。桃井課長、晶の二人もまた、鮫島の側面
を写すための鏡のような存在。
精神的にも肉体的にも圧倒的に強いわけではない鮫島の魅力は、物語全編を通 して伝わってきます。
「音もなく近づき、ふいにパクる」それが新宿鮫。
日常を過ごしている新宿が、少し違って見えるかも。
4月9日
晴読雨読は一応、エッセイということになっています。
日本語で言うと「随筆」ですね。
「作者の体験や見聞を題材に、感想をも交えた文章」と国語辞典にも書かれていますが、要は主観によって書かれる文章です。言いたい放題と言うかも(笑)
「晴読雨読」は特に決まった切り口とかなくて、内容的にもかなりまちまちですが、中心に来るのは書籍の話題。これは特に意図があってそうしているのではなく、普通
に日常を過ごしていても本だけは読むからです。
「晴耕雨読」と言いますが、晴れでも雨でも本を読むので「晴読雨読」です。
読書家と認識される事が多いのですが、実をいうと落ち着きのない性格なのでじっくり本を読むことはあまりなく、主な読書時間は移動中の電車の中です。
従って、ずっと家にいると読書量が減ってしまいます。通学時間だと2日に1冊は読み終わるので、一ヶ月に10冊以上の本を購入することになります。紹介する本のジャンルや作者に脈絡がないのは、行きがけや帰りがけに本屋に寄って、目に付いた本を買ったりするからですね。
最近ではネット上で晴読雨読を読んで下さった方が好きな本を薦めてくださったりするので読む本の幅も広がります。
3〜4年前は海外のファンタジーやSF、ミステリ中心だったのですが最近は日本人の作品ばかり読んでいるかも。翻訳物ってどうしても癖があるので、一度遠ざかるとなかなか戻れませんね。
名作と言われるもので読んでいないものなどもたくさんあります。文学作品もいろいろ挑戦しているのですが、ドストエフスキーの「罪と罰」などは途中で挫折しました。
今、読んでみようと思っているのはエドガー・アラン・ポーです。あと、しばらくエッセイを読んでいないので面 白そうな作者を捜しています。
実は今、珍しく手持ちの本が尽きているので、次の書感をお届けするのにはちょっとかかるかも。
4月10日
晴読雨読でお送りするのは書評じゃなくて、書感です。
「書評」と「感想」の中間みたいなもの。書評って好き嫌いで書いてはいけない(と、思う)から難しいです。感想だけだとたまには偉そうなことを言ってみたくなります。
だから、中間を取って書感です。用語を作ったのは僕じゃなくて友達ですけどね。
本を読むというのは情報の入力、文章を書くのは出力で、一見すると全く反対の行為ではありますが、僕にとってはどちらも者を考えるためのプロセスです。
本を読むのは自分と異なる思考を取り込んで考えること、書くのは自分の中の思考を整理することと言えます。
誰だったか、小説は作家の排泄物だと言っていましたが、作家の頭の中にはもっとたくさんの思考が渦巻いているんでしょう。いや、それとも限界まで思考を絞り出せる人が作家なのかな?
これは一考の価値がありそうですが、作家の頭の中をのぞけないので結論を出すのが難しそうですね。
それはさておき、書評って作家の思考の断片を読み、それがきっかけで生まれた思考を絞って文章にしているわけです。
そこで作家が書評を読んで思考のきっかけにすれば見事な食物連鎖。
まあ、文章として出力されなくても、本から得た思考は少しずつその人から発散されて世の中に回って行くんでしょうね。
と、ちょっと無理に結論を出してみました(笑)
締めっていつも考えますね。
オチがつくと少し満足なんですけど、なかなか思いつかないです。
4月11日
今日は書感。
「あずみ」
小学館ビックコミックス/小山ゆう
幼い頃に拾われ、仲間たちと忍者として教育を受けてきた少女、あずみは徳川家康暗殺と言う使命を受け、何の疑問も持たずに戦いを続ける。その中で、一人、また一人と仲間を失い、育ての親も失って一人になってしまう。少女の身でありながら剣を持たせれば恐ろしいまでの強さを発揮する彼女は、自分の意図しないところで死を振りまいてしまう。親しくなった人たちまで巻き込んでしまう己の生命そのものに疑問を感じながらも、あずみは刺客たちと戦い続ける。
と、いうのが(かなり)おおざっぱなストーリー。最新刊は17巻です。この作品は人の死が印象的。敵、味方にかかわらずとにかく多くの人が死んでいくストーリー。
ですが、その一つ一つは非常に重いです。親しい人が死んでしまう怒り、切なさだけでなく、敵を斬り殺したときのむなしさもまたあずみと同時に感じる事ができます。
あずみは物語の最初から誰よりも強いです。だから、修行して強くなろうとすることもないし、どんなに強く描かれた敵が相手でも正面 から渡り合えばあっけなく倒してしまう。
命のやりとりというものに慣れきってしまった人間がいくらでも出てくる中、あずみの問いかける命の意味は、深い。
生きているということの意味を問いかけ、それが無意味だと結論しても身体に染みついた剣術の腕が簡単に死なせてはくれないのです。周囲の人々は皆、あずみという存在を守ろうとし、死んでいきます。
彼女にとって、生き残ることは必ずしも幸福ではありません。ささやかな幸せがあっても、それを失うことに怯えながら生きていかなければならない。
読者の誰もが、彼女の幸せを願わずにはいられません。
しかし、それが訪れるとは思えないのです、どうしても。
作者、小山ゆうはこの物語の先に何を見せてくれるのか、恐ろしくもあります。
4月12日
通学定期券を購入しようと思ったら、まだ学生証をもらって
いなかったので仕方なく行きの電車賃を払って学校へ。
帰りに京王線の調布駅で買っていこうと思ったわけです。
ところがいざ買おうとすると、調布駅の定期券購入窓口から長蛇の列が出来ているではありませんか。北口から地下道をくぐって反対側の南口まで。
なんと、並んでいる人間は132人!
別に数えたわけではありません。最後尾にいた駅員さんが手にカウンターを持っていたからわかったんですが、どうやら2時間待ちとの事です。窓口が一つしかないからですね。
ちなみに家側の最寄り駅、JRの西川口ではこんなに並んでいるのは見たことないです。ちなみに西川口の窓口は二つ。
西川口の方が人の行き来は激しいと思われますが、せいぜい待っても10分。これって大きな違いですよね。京王線にもいろいろ事情があるでしょう。まあ、電車賃(特に定期代)はJRよりも安いしダイヤもよく出来ているので普段は京王線に恩恵を感じないでもないですが、毎年春だけは勘弁してという感じ。さて、ここで窓口が二つだった場合をシミュレーション
してみましょう。
現在並んでいる人間が132人。1分に二人処理できると考えて、窓口が二つだったら66分で終わるわけです、当然のこと2時間もかかりません。しかし、窓口が二つの恩恵はこれだけではありませんよね。実際には定期券の購入処理をしている間にどんどん人が来るわけです。窓口が二つならば、そもそも132人などという長蛇の列にはなりません。
しかし、これだけの人間が同時に定期券を買おうとするってすごいですよね。さすが4月。最近は、一度買ってしまえば後は自動発券機で次の四月まで行けるから並ぶ必要があるのも年一度ですけど。
ひょっとすると、京王線では特定の駅でしか定期券を購入できなかったかも知れません。それなら、調布駅は4つの新宿から来た高尾山口、京王八王子、橋本行きの列車が全て通
りますからこれだけの人でも納得できるかも。
結局、僕は調布で「定期券購入乗車券」というのをもらって京王線の千歳烏山まで行き、そこで定期を買いました。それでも30分は待ちましたけどね。ひょっとしたら新宿で買った方が早かったかも。
何はともあれ、なかなか大変でした。
4月13日
今日は書感です。
「嗤う伊右衛門」
京極夏彦:中央公論新社 C・NOVELS
定価:1000円
初版1999年8月15日
ISBN:4-12-500603-2
妖怪小説家とも言える京極夏彦は京極堂シリーズで有名ですよね。それ以外の作品を読んだのは、これが初めてです。
さて、この本を一言で説明すると「京極流四谷怪談」
顔面が醜く晴れ上がった「お岩さん」ですね。
京極夏彦の小説は、一見関係ない話やどうでも良さそうな事件を並べてながら、最後まで読むと枝葉末節に至るまで関連がありなるほどと感心するような作りになっているのが基本。
作者の構成力にはいつも感心させられるのですが、これには欠点もあって、途中が飽きやすいんですよね。同作者の「魍魎の筺」などは今までの作品で最高だと思いますが、僕の周囲には途中で挫折した人も多いです。慣れてくると最初が多少辛くても後を楽しみに進めますし、後半、だんだんと事件の全体像がわかり、話が収束してくるに従って読むペースが上がるのが快感ですらありますけどね。
まあ、京極夏彦の小説は敷居が高いと言うこと。
しかし、この作品はとにかく読みやすいです。おそらく、最初に様々な事件を書いておきながらも読者の頭の中にはなんとなく、物語の収束点が見えているからでしょう。
四谷怪談では岩の夫、伊右衛門が岩を騙し、それで祟りを受けることになっていますが、この物語の伊右衛門にはそんな要素はまるでなく真面
目で朴訥な人物、岩も狂女どころか誇り高くまっすぐに生きる女性です。
この二人が何故、四谷怪談の様な悲劇を引き起こすのか?
読者の頭の中にはその疑問が渦巻いているはず。
京極作品には珍しく全くの悪人といえる伊右衛門の上司、伊藤喜平衛の存在もなかなか面 白く、ある意味、一般的な時代劇の形式を踏襲しているとも言えます。
この物語でポイントとなるのは、やはり人と人とのわずかな行き違い。それがたまりたまって軋轢となり、悲劇を引き起こします。
しかし、その悲劇も読み終わった後にはただ悲しいだけではなく、現れるような感動も残してくれました。それほどまでに純愛が書かれています、この小説には。
4月14日
今日の朝は予定より少し早く起き、家を出てすがすがしいとか思いながら自転車に乗ったのですが、なんとチェーンが外れていました。
まあ、こういうのって直すの割と得意なので自分でなんとかしようと思ったのですが、難航。
手は油まみれになるし、歯車に手をはさんで血は出るし。
おまけにやっとはまったと思ってペダルを踏むと空回り。
見ると、チェーンのペダル側ははまっていたのですが、後輪が外れていました。自転車のチェーンは後輪側から入れるのが常識ですが、最初は外れていなかったんですよ、本当。
そうやってなんとか直して家に入り、手を洗ってから出ようと思ったら今度は手の油がなかなか落ちなくて苦労。風呂のお湯を汲んで許容範囲まで落としたら今度は春コート(真っ白)の汚れに気がついてしまいました。ここまでいろいろあるともうどうでもいいですよね。と、言うわけでちょっと濡れ雑巾でこすって家を出ました。結局、10分遅刻です。
駅までは歩いても10分程度なのでチェーンが外れていると思った時点で自転車をあきらめて家に置いていけば余裕を持って学校に到着できたはずなんですが、僕は目の前にあることがうまくいかないと放っておけない質なんですよ。
中学受験の時も、学習塾の先生から解きやすい問題を先に解けと指導されたにも関わらず、ちょっとやってみて解けない問題を捨てられなくてそれに終始したりしたものです。
三つ子の魂百までというのはこのことでしょうか。
最近は時間のかかりそうなことは後回しにする習慣がついたはずなのですが、突発的に目の前に現れたものに対してはそれが働かないようです。
難しいクイズとか出されると何もかも放って考えてしまいます。ちらっとめくってみた本が面 白そうだったら見入ってしまったり……ってこれは本好きなら誰でもそうですね。
書感を書いている最中に読み返し始めるとちょっと危ないです。メルマガの発行が遅れるのは主にそういうとき(笑)
4月15日
今日は書感です。
「帰路」
北方謙三/講談社
定価1000円
昭和63年5月25日初版
ISBN:4-06-203865-X
ブラディドールシリーズなどの作品を書くハードボイルド作家、北方謙三の短編集。
これは純粋に小説なのか、それともエッセイに近いものなのかは予備知識なしに読んだので不明。
大学を出ても就職できず己の筆一本でのし上がって来た「私」は今やテレビなどのに出演する有名作家。先生と呼ばれ、イタリア車を乗り回し、銀座の倶楽部などを飲み歩く彼は、どこか冷めてしまっていて昔の事ばかり思い出している。
この「私」は果たして本人そもものなのか、それとも虚構の人物なのか?
僕は作家本人がどんな人間なのかってあんまり気にしない方です。新聞や雑誌などで見かけて「ああ、こういう人だったんだ」って初めて思う程度。そこで知っても、やはり本人と作品は切り離して考えますね。
そういう訳で、北方謙三本人がどんな人なのかって、全く考えたことがなかったので、これを読んだときは少し戸惑いました。ハードボイルド作家って本人はサラリーマン風だったりして「かっこよさ」へのあこがれからああいうものを書くのかなって昔、ちょっと考えたことはありましたが、この作品の主人公が作者だと考えるとあまりに出来すぎ。台詞もかなりキザです。実際、作品中でも周囲にキザと笑われたりしていますけどね(笑)
まあ、結局のところ作者本人がどうだかはあまり関係ないですね。哀愁と言ってしまえば簡単ですが、この主人公には歳を重ねて来た男からにじみ出る渋みがあります。昔を振り返るのは懐かしさからではなく、現在の自分を作ってきた過去を時関するため。「私」は名声や金を得ても決して幸福そうではありませんが、歳を取るということは若さを失うというだけではないという事を考えさせられます。
ハードボイルドには女々しさがあるとも言います。自分ではなかなか書けそうもないですね。「かっこよさ」はかっこいいと思う物だけでは表現できないです。最初から強いのでかっこいいのではなく、弱さを持っているのにそれを出さず、硬い殻で包んでいるからかっこいいんですね。