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7月1日
数学の論証の分野には「逆」「裏」「対偶」という言葉があります。「pならばqである」というとき「逆」は「qならばpである」となり「裏」は「pでなければqでない」です。
対偶は「逆の裏」または「裏の逆」で「qでなければpではない」という状態を指します。
ちなみに「逆もまた真なり」という言葉がありますが、これを数学的に言うと「必要十分条件が成り立つ」となります。
前に出した「孔子は酒好きだが酒好きが孔子とは限らない」という言葉を再び使うと「孔子は酒好き」の逆は「酒好きなら孔子」であり、この条件は否定されていますね。そして裏は「孔子でないので酒好きでない」ですね。もちろん、孔子以外の酒好きはたくさんいるのでこれも否定できます。ちなみにこういうとき、「与えられた命題は偽である」と言います。
さて、このとき対偶は「酒好きでなけれな孔子でない」ということになります。これは真(偽の反対)です。つまり、その人が孔子かどうかを見分けるにはまず酒好きかどうかを調べればいいわけです。最も、酒好きが証明されてもそれは孔子である可能性の一つであるので確定はできません。まあ、ここでは孔子であることを証明するより孔子でないことを証明する方が簡単なわけですね。
これはミステリなどでもよくあります。
一般に警察の捜査と言うのは容疑者を絞り、その中から城強敵に犯罪を起こす事のできない人間を排除していきます。基本的に消去法です。割と確実でミスが少ない方法ではありますが探偵が活躍したりするようなミステリ小説では「偶発的または意図的に証拠が罪のない人間が犯人であると言うことを示している」という状況が多く出てきます。もちろんですがこのような自体は警察の見落としによって発生するわけです。
見落としの理由はいくつも考えられますが、ミステリ小説の場合、事実が隠蔽されていたりトリックによって事実が誤認させられた場合が多く存在します。
さて、当たり前の話ですが「不可能犯罪」というものは存在しないわけですよね。不可能なら成立しない。成立したならそれは不可能ではない。この不可能犯罪というのが実際に行われたという話は聞いたことないですが、もし行われたとしても警察の捜査方法は変わらないでしょう。つまり、証拠を集め、消去法で容疑者を絞り、犯人を確定するわけです。
先の個人を孔子と特定するのと同じでこれはなかなか大変な作業ですが、不可能犯罪(例えば密室殺人)などを起こしたことにより、犯人の特定が簡単になる可能性も高いですよね。
条件が多くなれば多くなるほど、対象を絞り込むのは簡単になります。孔子の話で言えば酒好きと言うことの他に、孔子の肉体的特徴などがわかっていればいいわけです。
さて、無実の罪に問われた人間が自分の無罪を証明するというシチュエーションはいろいろありますが「犯人ではない」と証明するのはなかなか難しいですね。特に警察の示した犯人の条件に全てあてはまってしまって否定できないときは。
もちろんこの時って、警察の主張には穴があるわけです。その穴を否定するというのも一つの方法ですが、最も確実なのは真犯人を見つける事ですよね。警察の主張「pであるからqである」に対し「qではないがpである」人間を示すことによって結果的には警察の主張が矛盾するということを証明できます。森博嗣の作品はよく「論理ミステリ」と評されますが、上記のような論法をよく使うためですね。もちろん、これはわざわざ数学的な言葉を使わなくても感覚的にわかっていることではあります。しかし、言葉の意味一つ一つを明確にすることによって、より誤解の少ないコミュニケーションをとることができるというメリットがあるわけです。数学という言語も一つのコミュニケーション手段となり得るわけですね。だから毛嫌いすることもないんです、僕は嫌いですが(笑)
7月2日
今日はアルバイトで遠出しました。
なんと場所は鴨宮。小田原の手前です。
東京駅から東海道線の快速アクティに乗って1時間以上というロケーションはこれまでで一番遠いです。数カ所を回るのでその後は平塚、藤沢、戸塚と東海道線を徐々に戻ってくるように計画を立てました。回る順番は自由なのですが、僕は遅くなるのが嫌なので最も遠いところから始めて戻るようにします。
もし一日で回りきれなくて次の日に持ち越しても残っているのは近いところなので合理的です。
さて、鴨宮までは家から1620円。往復3240円となるうえに乗車と下車を繰り返すので交通費がまた大変。バスやタクシーにも乗るので4000円とかは軽く越えます。
もちろん交通費は出るんですが、一時的にでも交通費でお金がなくなるのは厳しいですよね。そこで少しでもそれを減らそうとして目をつけたのがホリデーパスです。2040円のホリデーパスを買うと東京近郊のJR線は一日乗り放題。休日のみ発売ですが、ちょっと遠くまで遊びに行ったりするにはいいですよね。
ちなみにホリデーパスの有効範囲は平塚までなのでそこより先にある鴨宮へは切符を使います。
さて、今日のアルバイトはとにかく迷って迷って大変でした。駅から離れた場所に行くことが多かったのですが、バスが少なかったり道が混んでいたりして歩いていこうとか思うとおおざっぱな地図にしてやられたりして気がついたら全然違う方向。そう、道路は緩やかにカーブしているものなので歩き始めが北を向いていたからと言って、ずっと北に向かっているとは限らないわけです。
目印の道はきっちり歩こうという教訓ですね(笑)
藤沢から鎌倉方面に向かって歩くとなかなか由緒ありそうな家があったりマリンスポーツのお店が並んでいたりしてなかなか楽しいです。車も湘南ナンバーばかりですしね、まさに湘南って感じ。まあ、海までは行きませんでしたが。
僕は埼玉県の東京よりなので、主な活動範囲は来た東京なのですが西神奈川の方はやはり人口とか都市とかそれだけではなく全然違った雰囲気があります。その辺りって旅行には近く遊びに行くには遠いので実は始めて見た地域なんです。
照りつける日差しの中、汗を流しながら歩いた西神奈川。
と、いい感じにまとめようと思いつつ明日も小田原なので実はうんざりです(笑)
7月3日
書感です。
「星降り山荘の殺人」
倉知淳/講談社ノベルズ
定価:880円
初版:1996年9月5日
ISBN4-06-181929-1
雪に閉ざされた山荘で起きる殺人事件。
集まったメンバーはどれも癖のありそうな人間ばかり。
ミステリではおなじみのこのシチュエーション。ベタとも言える設定の作品に、この倉知淳は敢えて挑戦しています。
さて、定番の舞台に登場する探偵と助手役は少し変わりダネです。主人公は理不尽な上司に腹を立てて手を出し、左遷された熱血漢。探偵役は自称「スターウォッチャー」の二枚目、その名も星園詩郎。甘いマスクで星を語りで全国の女性をとりこにしたテレビタレントです。歯の浮くような台詞と芝居が買った動作にはうさんくささが漂っています。
さて、この星園詩郎、冒頭から推理を披露する場面がありますが作中人物は感心するものの、ミステリを読み慣れた読者なら少し疑問に感じるはず。
倉知淳は「日曜の夜は出たくない」などコミカルながらも読み応えのある作品を書く人だという確信はあっただけに、少し以外でした。
しかし、この作品を読み終わった後はそれも作為的なものだということがよくわかります。周到に張り巡らされた伏線、随所で与えられるヒント。章の最初には作者からのメッセージとして「語り手は犯人ではない」とか「ここに伏線が張られている」など「作者からのメッセージ」が入っているのですが、これも最初は多少わざとらしく感じました。作者の意気込みが空回りしているというのが感想。ですが、それも読み終わった後では読者に無駄な勘ぐりをさせないための配慮だと理解。作者が自信満々でそれを足したのが目に浮かぶようです。
物語としての盛り上がりや、意外性を出すための演出などを全てカットし、純然たる謎解きに読者を集中させるために書かれたのがこの作品なのです。その割に登場人物が妙にコミカルだったりしますが、そういう要素がないと退屈で最期まで読めない可能性は否定できないかも。
しかしながら、物語が集結に向かっていくプロセスが秀逸です。惰性でだらだら読んでいたのに最後で一気に目が覚めた思い。この小説、ミステリ初心者にはあまりお薦めしませんが、ミステリファンだと思う人は一度読んでみて欲しいです。
7月4日
メルマガ「晴読雨読」の瞬間最高購読者数が200人を突破しました。
当初、目標が100人だったのでなかなかのペースに驚きです。口コミや、ご自分のメルマガで宣伝してくださった方などによるものが大きく、感謝しています。
ちなみに「瞬間最高」とつけるのは、読者数が流動的であり単純に右上がりのグラフとなっているわけではないからです。
読者数を確認してガクンと下がっているときには「前回のメルマガはそんなにつまらなかったのだろうか?」などと思って反省することも。
それと、月に一度、不明アドレスの整理が行われるのでそれによる現象もあります。これを記念にエクセルを使って購読者数の上下を集計してみるつもりですが、まだ3日しかやってないので何も面白い結果は出ていません(笑)
とりあえず自分の主観で分析した結果としては、土日は増えやすいという程度でしょうか。サイトのヒット数もなんとなく気にしていますが、こちらは土日になると明らかに見に来る人が減ります。これは普段、サイト閲覧者は学校や会社から見ている人が多く、メルマガは家で読んでいる人が多いからなのだろうと分析しています。サイトの方も当初は1000ヒットが目標だったのですが今は10万が目標です。その前の1万ヒットはけっこう前に突破してしまったいますが、目標を一桁上げてしまうというのも考えてみれば大ざっぱですよね。
メルマガの方は読者数1000人が目標です。とりあえずこれから先、まぐまぐを利用する人はしばらく増え続けていくだろうと思っているので長く続ければ割と簡単に達成できるんじゃないかと楽観しています。
まあ、読者数を増やすのが目標かと言えばそうでもないのですけど、単純に数字が増えていくというのは楽しいものですよね。僕は欲張りなので自分の充実感と読者の増加などの数値化されるものの両方があればいいと思ってます。
どれだけ自分が満足できるものを書いても読んで下さる方がいなければ意味はないし、一生懸命あちこちで宣伝をして読者が増えても後で後悔するようなメルマガは残したくないですからね。
毎日出すということを重視しているため、たまに自分でも無理に書いているとかクオリティが低いとか思うこともありますが、そういう反省をバネにがんばろうと思いますのでこれからもよろしくお願いします。
7月5日
書感です。
「解体諸因」
西澤保彦/講談社ノベルズ
定価:854円
初版:1995年1月5日
ISBN4-06-181728-0
この本は「解体」つまり、バラバラ殺人事件を主に扱った全9編からなる短編集です。エレベーターが8階から1階まで降りるたった16秒の間に切り刻まれたOL。次々と首を切り取られた7人の女性など、不可解な謎が次々と現れます。
さて、死体をバラバラにするという行為に意味があるとすればそれは切り刻んだ死体を運搬し、どこかに捨てる、または保管する以外にありません。そういう理由、もしくは精神異常でないとすれば、いったい何故、犯人は死体をバラバラにしたのか?
すべての短編の謎はそこに尽きます。そして「何故?」が解決したとき、自ずから「誰が?」もはっきりするのです。
だから、この短編作品群は出てくる死体の種類やシチュエーションが違うとは言え、同じ様式の推理劇を追求したものと言えます。
それは断じてワンパターンなどではありません。「何故、死体を解体したのか」というたった一つの謎に対し、9つも答えを用意した西沢保彦のこだわりが作品ににじみ出ています。
さて、短編集ではありますが、この作品群は互いに世界を共有し、登場人物がクロスオーバーしています。その中心に来るのが素人探偵、匠千暁。大学を出ても就職せず、ぶらぶらとしている彼はあちこちで様々な人から事件の情報を聞き、その場で自分の解答を導き出しています。
彼の推理は安楽椅子探偵と言われるジャンルの典型で、新聞記事や人の話などから事件を組み立て直すというもので、足を使っての捜査などは一切ありません。つまり、探偵役が事件の現場に居合わせることなどほとんどないため、緻密な残酷描写などは一切ないのです。だから死体も「バラバラにされていた」という客観的な表現のみ。
しかし、真相が示されるに当たってその事件の猟奇的な様子と合理的な解体理由のギャップが恐ろしくなってきます。あまりに冷静に判断し、解体という作業に至った犯人の思考を匠千暁は大胆に追っていくのです。
謎が示され、探偵役がそれを考え、最後に謎を解いて終わる。探偵の最後の台詞によって事件の解決が示されると共に物語は唐突に幕を下ろします。余計なものなど一切ない、純粋にミステリを楽しむためのミステリ。
それがこの作品だと言えます。
7月6日
書感です。
「MONSTER 14巻」
浦沢直樹/小学館ビッグコミックス
定価:505円
初版:2000年8月1日
ISBN4-09-185274-2
かつての婚約者、エヴァ・ハイネマンの命が危ないと知ったテンマは囚人として護送される途中、脱走する。
テンマの無罪を信じ、集まった人々はそのニュースに愕然とするが、テンマを信じて独自に行動を開始。
一方、ニナとディーターはヨハンを産んだと思われる「赤い薔薇の屋敷」にたどり着くが……。
大人気の「MONSTER」はなんと1500万部を突破。
自ら「悪魔」を助けてしまったことを悔い、大いなる悪意を秘めたヨハンを殺すための旅を続けながらも医者として多くの人々を生かしていくドクター、テンマ・ケンゾーの苦悩は核心に迫るに従って大きなものへと変わっていきます。
ヨハンの妹、ニナ・リーベルトもまた別な方向からヨハンにせまります。ニナ自身がいったいなにものなのかという不安が絶えず彼女を襲い、過去の記憶に恐れおののく彼女に救いはあるのでしょうか?
「MASTERキートン」では人々の交流を描いたものが多かったのですが、この「MONSTER」ではとにかく人の悪意というものを前面に押し出しています。
テンマが目にした悪意と、テンマが触れる人々の善意。このギャップのためにどうしても非情になりきれない葛藤がまたテンマを苦しめるのです。
人の心の隙間を突き、心をつかんでしまう美青年ヨハンの目的は未だに不明。恐ろしいのは彼が人の情けや感傷を理解しないから冷徹なのではなく、理解してそれすらも利用してしまうということです。誰もが彼を恐れながらも魅了されてしまう。
ドクター・テンマはヨハンと出会ったとき、魅了されるにいられるのでしょうか?
物語が14巻に達してもマンネリ感の無い「MONSTER」は長編漫画として屈指の出来を誇っています。このクオリティを保ったまま最後まで続けて欲しいです。
7月7日
今日は7月7日、七夕ですね。
新婚でうかれて仕事をさぼっていたらそりゃ神様も怒るだろうと小学生のころ思ったものですが、それで一年に一度しか会えないというのもなかなか酷な話。
本人たちは若気の至りと悔やんでいることでしょうが、これでストライキを起こされたら神様の戦略やいかに?そもそも、織姫と彦星の仕事ってそんなに重要なんでしょうか?
もしかしたら神様のひがみ?
とか下らない事を考えつつ迎えた七夕の日。関東は台風接近で天候が崩れています。どうも毎年七夕の日は晴れ間が見られないような気がするのですが、関西方面では天気悪くないみたいですね。
今日は商店街の七夕祭りに行ってみたのですが、雨のせいか人の出はそこそこ。数年ぶりなのにまるで変わっていませんでした。手作りの飾りがなんとも言えませんが、川口駅商店街はこれでもかというほど長いので通り抜けるにはなかなか時間がかかります。確か出来た頃には「日本一のモール街」とか言っていたはずです。
行事やお祭りっていろいろありますが、うちの方では七夕って割と影が薄いかも。
これはかなり地域差があると思われます。毎年7月7日は降水確率が高い(と思う)のが原因の一環かも知れません。
地元の行事では他に8月の「たたら祭り」というものがありますね。川口オートレース場を中心にパレードや出店などのイベントをしますが、まだ十数回目の新しいお祭りでいかにもとってつけたような感じ。「たたら」というのは川口の主産業である鋳物の製造時に空気を送り込むために使う足踏みポンプの事です。映画「キューポラのある街」などでも出てきます。
なかなか伝統に根ざさない行事って興味を引かないものですが12月の酉の市だけは盛り上がっているかも。
これは商売繁盛のための熊手を打っている市で、家が自営業のため実家では毎年買いに出ます。景気のいいときは高いものがどんどん売れていくので圧巻ですが最近は小振りなものが多いようです。
僕の出身地札幌では「YOSAKOIソーラン祭り」というイベントを北大の学生が中心になってやっています。これはニュースなどでも取り上げられかなり盛り上がっていて楽しそう。
結局は企画力というのもありますが、若い人が中心になって盛り上げていくという要素が地元、川口には欠けているのかも知れません。面白くなかったら自分で面白くすればいいわけですね。でも、川の向こうは東京で都庁やサンシャインが見えるようなロケーションでは難しいのでしょうか。
7月8日
「生きるって何だろう」とか「愛ってなんだろう」とかそういう事は普段生活をしていく上であまり考えない事ですよね。
こういう疑問をよく「哲学的な疑問」とか言いますが、では哲学って何かと思って辞書を引いてみると「宇宙や人生の根本問題を理性的な思弁により突き止めようとする学問」と書いてありました。
思考のみを道具に宇宙のありかたまで追求しようというのはすごいことですよね。当然ですが思考の中身を伝達するには言葉が必要なので思考結果は言葉として出力されるわけです。
もしかすると優れた事を考えているのに文章や話術が不得意でうまく伝達できない人っているのではと思ってしまいます。
それはさておき「哲学的な疑問」を考えるときって、そのエネルギーの大部分は自分の思考や感覚に当てはまる言葉を探すために使われているのではないでしょうか。誰だって「愛」とか「生きる」ということに対するイメージはあるでしょうが、それを人に説明することって滅多にないですよね。
突然「犬ってどんな形?」と言われ、絵に描いて説明しようとしても普段から絵を描いていなかったり犬をよく観察していなかったりするとうまく描けないように、普段から言葉にしていないものや説明しようとしないものを言葉で表現するのは難しいですね。
人に説明するときに限らず、人間の思考は言葉によって支配されている部分が大きいので、漠然としたイメージを頭のなかに漂わせているよりは言葉としてしっかり表現し、安定させることによって初めて納得できるというのもあるでしょう。イメージとして漂っている物は流動的で、確実に同じ物を取り出すことはできませんからね。
文を書くというのは基本的に思考の延長だと思います。思考して言葉になったものを今度は文字として書き出すわけです。
ですが、思考の過程、文字にする過程で多くの情報が失われていくので目に出来るものは思考のごく一部でしかないわけです。さらに、書き出された瞬間にも新しいイメージは頭の中に浮かんでくるので書いたものというのは完成した瞬間からどんどんと古くなっていきます。
会話の楽しみというのは、読書の楽しみと全然別なものですよね。会話言葉は書き言葉よりも練られていないし、完成度も低いわけですがそれだけ生の思考に近く、時には相手の言葉の元となったイメージが垣間見られるわけです。
冒頭の「生きるとは何か?」なんていうテーマにもちろん結論は出ないし、文章として書くのも気が引けますが、会話のテーマとして提示されればそれは相手の頭の中を覗くために手段として楽しむことができますね。
7月9日
書感です。
「キドリントンから消えた娘」
作:コリン・デクスター
訳:大庭忠男
ハヤカワ文庫(HM)
定価:660円
初版:1989年12月31日
ISBN4-15-077552-4
2年前に家出し、行方の知れなくなっている娘、バレリー。
ところがある日、無事を知らせる手紙が両親の元へ届く。
その捜査に当たっていた刑事が事故死し、事件はモース主任警部の手に委ねられた。
「娘は間違いなく死んでいる」
警部の直感はそう告げるのだが……。
「ウッドストック行き最終バス」で四苦八苦しながらも自らの推理を二転、三転させて難事件を解決したモース主任警部が再び登場。今回もねばり強く事件に当たるのですが冒頭で「娘は死んでいる」と断言しながら物語の途中で「いや、娘は生きている」となり、再び「死んでいるだろう」などと言ったりして全く油断がなりません。他の推理小説などでは全く見られないデクスター独自の手法と言えるでしょう。これは考えてみれば当然のこと。材料が揃っていない状態では正しい結果など出ないわけです。しかし、モース警部の立場からすれば持っている材料を元に推理を働かせるしかないですよね。他の推理小説に出てくる探偵のように「材料が出そろっていないので推測でしか言えない」と格好良く述べるのではなくて、とにかくいろいろ考えて周囲に意見を求めてみるというスタイルがミステリファンには新鮮に映るでしょう。パートナーのルイス部長刑事もモースの想像力のたくましさにあきれつつ、結局はその仮説を受け入れる事になっていきます。
さて、モース警部の特長と言えば女性に対するだらしなさ。
彼の想像力は女性に対してもいろいろ働くのです。
そして、魅力的な人物に対して非常にほれっぽい。
しかし、全ては警部の頭の中だけで終わってしまいます。
警部という立場が邪魔をするのか、いつも踏み切ることができないのです。モース警部自身もなかなか魅力的な人物らしく相手の女性にも好意を持たれているし、明らかにチャンスをという場面もたくさんあります。
これはおそらくシリーズものの宿命で、これから先も惚れては勝手にあきらめるというパターンを繰り返すのだろうと思うと笑えます。
さて、このシリーズは大胆なトリックも格好良い探偵も出てきません。ほぼ全編が主人公モース警部の葛藤で埋まっています。警部の苦悩は確かに当然と思うものの、その理由がどうにも俗っぽくて可笑しいのです。その警部が結局は事件を解決してしまう。
「冴えない部長だが結局仕事はできる」って感じの主人公です、モース警部は。
7月10日
今、マクドナルドで何かを買うと380円でキティちゃんの人形が購入可能です。母がそれを欲しがっていたので頼まれて代わりに買ったのですが、はっきり言ってかなり恥ずかしいものがありました。
中国風の服を着たチャイニーズ・キティを買って帰ったらそれが気に入ったらしく、その後に出た宇宙服を着たタイプ、スペース・キティも買わされ。結局その男の子版のスペース・ダニエルまで買うことに。
さて、何故これって恥ずかしいんでしょうね?
この恥ずかしさというのはもちろんのこと、生理的なものではなく社会的なものでしょう。
例えば男同士でディズニーランドに行く気ってあまりしませんが、女の子同士だと割と行きます。少女漫画を読む男性もけっこういますが、少年漫画を読む女性ほどおおっぴらではないですよね。
くまのぬいぐるみと一緒に寝たりする女の子はいても、それをいい歳の男性がやったりしたら変態扱いでしょう(笑)
こういう現象って割と理不尽に感じます。男性同士の集団より女性同士の集団の方が明らかに広くいろんなことを楽しめます。最も、何も気にせずに男同士でも遊びに行けばいいんでしょうが、せいぜい映画に行くのが限界でしょうか。
これって元々、男女の世界が完全に別れていたからでしょうね。かつて、男性と女性の娯楽って言うのは別れていたわけです。女性の地位向上に従って、娯楽などでも女性が男性の社会に進出してきたわけですが、男性側から女性社会への進出って言うのはほとんど見られませんよね。
明らかに男性側の方が損をしています。
最も、男性同士、女性同士の行動の仕方の違いはそれだけではなく人付き合いの仕方による違いなどもあるのでしょうけどね。
従姉に子供が産まれたとき、女の子は人形で男の子は車のおもちゃなどを与えられて育つからそういう違いが後天的に出るのではと思って話したら「じゃあ、うちの男の子には人形を与えて育ててみよう!」と盛り上がったのですが、さすがに実行はしてくれませんでした。
実のところスペース・ダニエルは僕も少し欲しいと思ってしまいましたが、恥ずかしい思いをしてまでもう一つは買えません(笑)
7月11日
書感です。
「大いなる眠り」
作:レイモンド・チャンドラー
訳:双葉十三郎
定価:437円
初版:1959年8月14日
ISBN4-488-13101-8
私立探偵、フィリップ・マーロウ。
日給は25ドルと実費。
そのわずかな金もウィスキーを買えば消えてしまう。
スターンウッド将軍にゆすりの処理を依頼されたマーロウはさっそく調査を始めるが、行く先には死体が二つ……。
「名探偵」と紹介しないのは、むしろマーロウに対する賞賛なのです。彼はシャーロック・ホームズやファイロ・ヴァンスの様に現場へ行ってわずかな証拠から推理を組み立てはせず、怪しいと思う人間のところに身一つで飛び込み、持っている情報を交換して以来の解決に向かいます。余計な事は探らず、あくまで依頼人の意向に添って行動する彼こそプロの私立探偵と言えるでしょう。
人の弱みを掴んで脅迫する人間。法律をかいくぐって大金を得る人間。マーロウはそういった闇の世界に通じ、彼らの金や暴力にも決して屈しない。相手の事情を一つ一つ知っているからこそ、たった一人で彼らと対等に交渉を進めることも出来りわけです。もし彼が欲を出せば自信が脅迫者となったり、闇で商売をする者の交渉役を務めたりして大金を得ることもできるでしょう。
しかし、それをやらないのが職業倫理。
マーロウを突き動かしているのは金でも情でもなく、探偵という職業に対する誇りなのです。それがあるから依頼人の美しい娘たちの誘惑になど見向きもしない。つまらない正義感を発揮して多くの人を巻き添えにしたりもしません。
版が古いせいか、訳などには多少違和感があるのですが、軽妙な会話と迫力のある描写はまさにハードボイルドのお手本。
微妙な人間心理や様々な登場人物を生き生きと描写し、解かれるために組み立てられたのではないリアルな事件を作り上げています。
汚れた街の中で誇り高く生きる男、フィリップ・マーロウの活躍はこの作品から始まるのです。
7月12日
前々回の話題にはなかなか反響が大きくて楽しめました。
まあ、男性の立場として男性でいることのバカバカしさというかそういうものを述べてみたのですが、友達なんかに言わせれば当然逆の事もあるわけです。
これは僕も疑問に思うのですが、母親に料理を習う女の子はたくさんいても男の子に料理を教えようとする親ってなかなかいないですよね。
僕は個人的に料理に興味あるので、自分でもいろいろ作りたいと思ってはみるもののなかなか実行には移さないでいます。
せいぜい友達のところに行ったときに粉吹きいもやお好み焼きを作ったりする程度です。これじゃ料理とは言えません。
友達にも料理が下手だというのを気にしている女の子がいますが、料理ができない男性も恥じるべき。そもそも家事というのは身の回りの事ですからできなくてどうするという感じですよね。
僕は割とこういう主張をすることが多いので、すごく家事などができる人と思われる事が多いのですが、そんなことは全然ないです。マメだと言われるのですが実をいうとそれは対人関係とサイト作成においてのみの話(笑)
もちろん、自分の部屋でゴミが目に付いたりするのは嫌なので掃除機などはきちんとかけますし、日実用的なほど部屋が散らかったらもちろん片づけますが常に部屋がピカピカだったりきれいに整理整頓されているわけではありません。
基本的に使ったものは元のところに戻したりはするのですがそれでも部屋が散らかるのは寝際と出際にしていたことはそのまま放り出して寝てしまったり外出してしまったりするからなんですね。
話はそれましたが、料理も掃除も洗濯も、習慣化しないと身にはつかないと言うことなのでしょう。可能不可能で言えば料理も掃除も洗濯も出来ますが、しないのでは出来ないのと同じで、ついでに言えばやっても実用的なレベルに達していない事は間違いないです。
男女平等で男性も家事ができなければいけないという時代は当然のこと来ると思うのですが、スタートダッシュで遅れるとやはり厳しいですよね。受験などより男の子への早期家事教育を導入してはどうだろうかと思ったりします(笑)
7月13日
書感です。
「百鬼徒然袋 −雨」
京極夏彦/講談社
定価:1150円
初版:1999年11月10日
ISBN4-06-182100-8
東京、神田の榎木津ビルディングに事務所を構える薔薇十字探偵社。依頼人が部屋に通されるとそこには「探偵」と書かれたプレートと日本人離れした絶世の美男子。
彼こそが「名探偵」榎木津礼二郎。
京極堂シリーズでレギュラーを張っている彼がこの本では主役。ただでさえ荒唐無稽な活躍をする彼ですが主人公となった今、それに輪をかけて大暴れです。
恐るべき毒舌と不遜な態度で人を煙に巻き、騒ぎに巻き込む彼ですが、その探偵能力は本物。なにしろ彼は調査や推理などおよそ一般の探偵がするようなことはまるでせず、ただ相手の記憶やイメージが見えてしまうという超能力者なのです。
いかにしてこの探偵を活躍させないか、というのが作者にとって一番難しいところでしょう。
この短編集でも事件の犯人を捜すなどというものはなくて、依頼されるのはもめごとの解決。榎木津礼二郎と京極堂はどんな解決策を考えるのか毎回楽しみです。
榎木津礼二郎の助手、和寅や元警察官の益田など、京極堂シリーズでおなじみの面子も健在。榎木津に振り回されながらもそれぞれの範囲で活躍してくれます。
いつもはその能力を発揮して様々な事件を解体してみせる京極堂もここでは榎木津の悪友として事件解決のために協力する脇役に過ぎません。
京極夏彦という人はその古めかしい文体や重い話から想像するのと違い、かなりユーモアのある人らしく、様々な作品のパロディ集「どすこい」なども出しています。
京極堂シリーズでももっと榎木津を出したいのでしょうが、彼が出てくるだけで話がコメディになってしまうためなんとかしてその活躍を押さえているのだろうと言うことは想像に難くありません。京極堂シリーズでは特異点である榎木津がここでは世界の中心になっており、京極堂すらも榎木津ワールドの一員と化してコメディを演じているといったところです。
榎木津は周囲の人間を下僕扱いするのですが、何故か彼の周囲にはいじめられた異質の人が集まってくるのもまた不思議。
さて、収録作品は3辺なのですがいずれもバカバカしく笑わせてくれます。癖が強いのでこの作品から京極夏彦に入るのはお勧めしませんが、榎木津ファンなら間違いなく買いです。
7月14日
しばらく前から自転車の後輪ブレーキが効かなくなっていて自分でいろいろ調節したりもしていたのですが、効きが本当に微々たるものになってしまったので仕方なく自転車屋さんに持っていきました。
結局、ワイヤーの交換が必要という事で取り替えてもらったのですがまだ効かず。よくよく調べてみるとワイヤーを固定する金具がおかしくなっていて、そのためにワイヤーが緩んでブレーキが効かなくなっていたらしいです。
ブレーキの効きがよくなったら自転車の乗り心地は途端によくなりました。ブレーキが効かないと止まりにくいので十分なスピードを出すことが出来ませんからね。それまで前輪ブレーキだけでじわっと止まるような癖が付いていたので、後輪ブレーキが併用できるようになってしばらくは目標より手前で止まってしまうような事がしばしば。
ほとんどの場合、自転車のブレーキは左右同時にかけますが前輪だけが効くといきなり前輪がロックし、後輪が左右に振られるという大変危険な止まり方をします。まあ、当然の事ですけどね。
右ブレーキが前輪、左ブレーキが後輪となっていますがやはり思うに使うのは左の方ではないでしょうか?
前輪ブレーキは通常、タイヤを左右から挟み込んで止める方式、後輪はタイヤの回転軸をブレーキパッドで締め付ける方式になっているのが普通なのではないかと思います。僕が小学生の頃、自転車のブレーキは前後とも挟み込みだったと記憶していますが最近のは違いますよね、たぶん。
たぶん後輪ブレーキの方が効きが強いため左に配置され、前輪ブレーキは効きが弱いので聞き手の側にあるのだと思っていますが真相は謎です。
右だけ、または左だけで使うってことは滅多にないので自転車のブレーキは左右ともまとめてしまい、左右の力の合計が前後に配分されるようにできないものでしょうか?
考えてみれば、ブレーキっていうのも不安なシステムです。
加速するときというのは駆動系に力を伝達して速度を上げていくわけですが、止まるときはタイヤをロックして摩擦の力に任せるしかないのです。車なんかだとタイヤをロックせずに徐々に力を掛けるアンチロックブレーキシステムというものがついていたりしますが自転車にそれを望むのは無理ですよね。
ついでに言えば、一般の自転車のブレーキでは徐々に力を掛けて止まるというのもほとんど無理です。まあ、前後のブレーキをうまく使いこなせば後輪を滑らせて反転しながら止まるというテクニックも使えるかも知れませんが、それを試してみるほどのチャレンジ精神はありませんね、さすがに。
7月15日
書感です。
「QED」
高田崇史/講談社
定価:880円
初版:1998年12月5日
ISBN4-06-182044-3
QEDとはquod erat demonstrandum、つまり数学で言う「証明終わり」の意味です。タイトルを見て森博嗣のように数学的論理を想像したのですが、内容は百人一首にからめたもの。
かなり興味を惹いたので一日で読んでしまいました。
都心の一等地にそびえ立つ大邸宅。正月に一族が集まったとき、主人の貿易会社社長が殺された。
様々な恨みを勝っている彼の死体にはコレクションである百人一首の札が握られていた。
これはいったい何を意味するのか……?
ストーリーの概略では百人一首に絡めた推理の展開をするのだろうくらいにしか思っていなかったのですが、中身は想像以上。藤原定家が編集した百人一首と百人秀歌の謎を問いつつ、事件そのものにも見事な解決が示されています。
これは百人一首の謎解きだけでも事件だけでも十分に一作が書けそうなボリュームでたいへん贅沢な作品に仕上がっていると言えます。
事件の探偵となるのは薬剤師の桑原崇、通称「たたる」
大学時代には薬学部ながら文系の講義にも出没し、雑多な知識を身に付けた彼は現在、漢方薬局に勤務。
「科学」という言葉にとらわれずに広いものの考え方をする彼は、京極夏彦の京極堂シリーズに出てくる中禅寺秋彦を思わせます。
起こり得ないことを「それは間違いだ」と捉えるのではなく目撃した人間の立場で説明し、食い違う目撃証言を埋めたり、はるか過去の藤原定家の心理を想像したりと想像の翼は自由に広がります。その思考のピースが現実と合致したとき、すべての謎が解消され、美しい真実が現れます。
科学で説明できるものだけが論理的なわけではない。
この作品を読み終わったとき、それがよくわかりました。
科学は自然の現象を説明するものです。しかし、呪いや願いといったものをうまく表現することはできません。
人にとっては人そのものが最も大きな謎なのかも知れないですね。しかし、人の作りだしたものはまた、人によって解き明かされるのです。
「謎解き」という点でこの本ほどエキサイティングなものは久しぶりでした。
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