10月1日
僕は昔から字が下手で、自分のとったノートやメモって読み難いんですよね。もちろん自分では読めますが基本的にとったということを憶えているからで人に伝えるのはほぼ無理。
そんなわけで、メモってあまりとりません。頭で憶えておく方です。もっとも、限界はあるのでメモとの併用はしますが。
ネットを初めて思ったのは、書いたメールって後々まで残るので見返したときにいつごろ何があったのかわかるってことです。一年前、二年間、三年前と残り続けるのってすごいことですよね。毎日3、4通出して受け取っていれば3年で3000〜4000通のメールが残るわけです。
手紙だったら絶対にこうはいきません。いや、まめに整理する人は残せるかもしませんが、ふっと読み返したりはしないし前の話題を探そうと思うと大変なはずです。
例えばケーキ屋の話題が出たとして、半年くらい後にそこへ行ってみようと思ったとき、メールソフトで相手のメールアドレスとケーキという単語をキーに検索すればすぐに出てきます。また、誰とその話題をしたのかわからないときも同じように検索できますよね。これがデジタルデータの強みでしょう。
手紙は手紙で出すこともありますが、それは完全に趣味の領域です。旅先で絵はがきを買ったり、なにか荷物を送るときに一緒に入れたりというような場合にしか出しません。前述したように非常に字が下手なのでそれなりに書こうと思うと非常に時間がかかります。
余談ですが、書道の時間に毛筆で書く字はそんなに下手でもありませんでした。これは大変不思議です。硬筆では筆圧や手を動かすスピードのバランスが悪いのかも知れません。
ここ1、2年はいろいろと予定がつまることも多いので紙のスケジュール帳を愛用しているのですが、それもごちゃごちゃとあちこちに書き込みがしてあり、大変読みにくいです。どこにどのように書けば見やすくなるのかはもちろんわかっていますがそれが咄嗟にできないらしいです。好きこそものの上手なれと言いますが、僕は字を書くのが嫌いなのかも知れません。
前に作文の話題を書きましたが、作文が嫌いだった事の一端は文字を書くという作業によるものだったかも。清書しても元の下書きとあまり変わらないんですよね。
だから、字がうまい人って尊敬してしまいます。字には人間の品格が出ると言いますが、確かに丁寧な字を書く人は正確も几帳面で穏やかな気がしてしまいます。それだけに自分の下手な字は人に見られたくなかったり……。
字が下手と言うより汚いと表現される事の多い僕ですが、ネットではそれが目立たないのでメールもマメなんです。そういう人ってけっこういるのではないでしょうか?
口ベタっていうのと同じで書きベタっていう表現がぴったり来るかも知れません。
10月2日
書感です。
「ファイブスター物語
IX」
作者:永野護
出版:角川ニュータイプ100%コミックス
定価:1000円
初版:2000年10月1日
ボォス、デルタ・ベルン、カラミティ・ゴーダーズ、ジュノーの5つの星に人類が住むジョーカー太陽星団。
そこでは人間をはるかに越える運動能力を持った「騎士」と巨大な人型戦闘機械「モーターヘッド」そしてモーターヘッドで戦う騎士をサポートする人工生命「ファティマ」が戦いを繰り広げていた。発展に飽いた人類が繰り返す王侯貴族のゲームの中で繰り広げられる様々な騎士とファティマの物語、それが「ファイブスター物語」です。
マニアックかメジャーかはけっこう微妙な作品です。
少なくともマイナーではないですね。
作者の永野護は「重戦機エルガイム」でメカ、キャラクターをはじめ、世界観や小物に至るまでデザインしたという経歴の持ち主。デザイナーが本職だったと思うのですが、完全に自分の世界を持っていて作品に登場するメカやキャラクターの服に至るまで作者の思想がにじみ出ています。
このファイブスター物語は連載開始から10年近くが経過していますが月刊誌にわずか数ページずつ、しかも休載も多いという作品でいつも忘れた頃に新しい巻が出ます。
今回もまるで意識していなくて、書店に行ってみたら平積みという状況。ずっと読んでないからいいかなと思ったのですが良く見ると前の巻まで持っているので購入しました。
さて、それだけのインターバルがあって前の話を憶えているのかという疑問はあるのでしょうが、このファイブスター物語は一貫した物語というのに全く無縁。まず壮大な歴史の年表があり、作者はその好きな部分を描いているという感じです。
一応、最初の方から順を追ってはいるのですが物語はあちこちに飛ぶし、時々未来の話や過去の話が挿入されたりするので混乱します。作者による解説本もかなり出ていて、その辺がまたマニア心をくすぐるのかも知れません。
僕自身はコミックの部分しか読んでおらず、はっきり言ってわからない部分も多いです。登場人物もそれこそ百数十人に及び、忘れているキャラクターも多いのですが、それでもこの物語を楽しめるのは、場面作りがうまいからですね。
これまで出てきてもいないキャラクターたちがいきなりわけのわからない話をはじめ、唐突に物語が展開したら、小説では先を読む気力を失わせるだけかも知れません。
しかし、この作品には絵があります。長々と文章で説明される世界観も、描いてしまえば一発なんですね。慣れてくると効果音に過ぎなかった会話も段々と理解できるようになり、それまでの断片的な場面が物語として再構成されてきます。
おそらく、このファイブスター物語は完結しないですね。
年表という形で先が知らせれていても、その間には無限のドラマが存在します。永野護はライフワークとしてこの作品を描いていくのでしょう。
10月3日
先日、字が下手だという事を書きましたよね。
常々思っていたのが、外でメモをとるために小型のノートパソコンが欲しいと言うことです。しかし、キーボードってどこかに固定しないと打てませんよね。少なくとも歩きながらでは難しいです。一時期はメモ代わりに携帯を使っていたこともあります。
家のパソコンから携帯メールにその日の予定や外出先の生き方を送るんです。携帯は常に身に付けているのでどこでもさっと見られます。なかなか便利ではありましたが、逆って難しいんですよね。携帯でメールを打つのにはかなり時間がかかります。電子手帳などもかなり便利になっているので常々欲しいと思っていましたが、最近は携帯情報端末、略してPDAの発展が著しいのでやはりそちらに眼が行きます。
PDAの代表格はやはりSHARPのザウルスでしょう。
店頭に並んでいるのを見て高いなあとずっと思っていたのですが、その値段だけあって昨日は充実。日本人が日本人向けに開発しただけあって、手書きで日本語が認識できるというのが何よりの強みです。そのスピード、認識精度共にかなりのレベルで書き殴っても大丈夫。もっとも、漢字は複雑なので多少の誤認がありますけどね。ただ、僕はMacなのでザウルスとの連携が難しいのがけっこう問題です。ザウルスはそれだけで完結した機械ですが、やはりパソコンで編集したいものです。
そこで眼をつけたのが最近話題のPalm互換機です。
米国PalmComputing社が開発したPDAで、外見も画面もそんなに派手ではないのですが、高いカスタマイズ性とパソコンとのリンク機能の充実によって確実に普及しています。ボタンを押せば一瞬で使え、自分に必要なソフトをインストールしてパソコンとデータを共有でき、しかも価格も2万〜5万円台の様々な機種がそろっているとくれば売れるのは当然とも言えます。
もっとも、Palmは基本機能がそれほどでもないので自分で積極的にカスタマイズしなければ普通の電子手帳とさほど変わりません。そういう意味ではザウルスの方が簡単に使えます。
と、言うわけで最近Palm互換機で米Handspring社のVisorという機種を購入しました。定価29800円と安価なのですが十分な性能を持っており、iMacを思わせる5色カラーが出ています。僕が買ったのはブルーで、NintendoのGAMEBOYになんとなく似ているかも。機械そのものの性能は、それこそGAMEBOYとそんなに変わらないどころか負けているかも知れません。しかし使い始めて数日で、このPDAがどれだけの力を秘めているか実感しました。電車の中や、歩きながらなどちょっとした時にもメモをとれるし、それをスケジュールの中に組み込んだりも出来ます。直感的なインターフェイスや使うことそのものの楽しさはMacに通じるものがありますね。本当に実用的な製品はシンプルで面白いものです。Palm互換機にはそれを感じます。
10月4日
書感です。
「願い事」
著者:月森聖巳
出版:アスキーA-NOVELS
定価:1500円
初版:2000年4月14日
少女趣味的な連想をさせるペンネームにタイトル。友人から薦められた作品なのですが、手にとって初めてホラーだと知りました。「パラサイト・イブ」や「リング」「らせん」をホラーと一言で片づけてしまうのがためらわれるように、この作品もまた様々な要素を持ち合わせています。
精神科医、神名木透哉が受け持った患者、戸来美音子は鏡の中から妖精が現れ、願い事を叶えてくれるという話をする。分裂病患者として診察を始めた透哉はやがて様々な交代人格を目撃し、彼女が解離性同一性障害、いわゆる多重人格である事を知る。交代人格である「妖精」エレーヌを美音子と統合し、治療をしようと試みる透哉の周囲で様々な不幸が渦巻く。エレーヌは本当に交代人格なのか、それとも……?
この作者が新人だというのはなかなか驚きです。経歴を見ると小説家志望で長くやってきたようですが、デビュー作のクオリティは文句なし。
宮部みゆきの「龍は眠る」や小野不由美の「東亰異聞」などもそうでしたが、オカルトかリアリティかという展開でうまく読者を引っ張ります。しかし、この小説が優れているのはその二面が混然としているところなのです。
人の心というのは大変奥深いものです。その内部は表面に現れる様々な部分を観察することでしか伺い知ることは出来ません。様々なアプローチが存在してはいますが、すべて内部のものを表面に浮かび上がらせるというもので「見る」ことは出来ないんですよね。だからこそ、美音子の中に何が潜んでいるのかが怖い。現象は科学的、医学的に説明がついてもぬぐいきれない不安が残るのです。
科学は本来、何も否定できません。何かが存在するという証明より存在しないという証明をする方が遙かに難しいからです。そもそも、証明するためには対象を定義しなければなりませんが、その定義そのものが間違っていたり定義不可能であったりします。
実際、科学は神を否定できるでしょうか?
熱心なキリスト教徒の科学者だって大勢いるわけです。不思議なようでいて、本人は何も矛盾なくそれを受け入れているのでしょう。
妖怪も精霊も、神も悪魔も、古くから存在し、人々はそれを受け入れてきました。様々な解釈が存在しても、それを否定することは無意味だったのです。ところが、科学という新しい価値観があるべきものを否定し、すべてを目の届かないところへ追いやってしまいました。
人が必要としたから生まれたのに、それをないものとして無視するのは大いなる裏切りであり償いがたい罪なのではないでしょうか?
この本が伝えるのは人の怨念や、科学ではかり知れない現象の怖さではなく、もっとずっと大きなものなのです。
「願い事」はきっと男性には書けない小説です。存在するものをあるがままに受け止めるキャパシティは男性にはないものですからね。
月森聖巳のこれからの作品にも大いに期待したいです。
10月5日
僕は甘いものが好きで、たいていのお菓子は喜んで食べます。苦手なのは砂糖をまぶした煎餅くらいなのですが、これもあれば食べるので嫌いというわけではありません。
と、言っても、自分で買って食べるって事はないんです。そもそも間食の習慣がありません。来るものは拒まず。しかし自分からは探さず、という感じでしょうか。
しかし、前に実家で両親が誰からかおみやげでフランスのマキシム・ド・パリのチョコレートをもらってきたのですが甘すぎて食べられず、全部こちらに回ってきたころがあったのですがこれは少しきつかったですね。1日1個くらいずつ細々と食べたものです。
一番好きなのは、北海道の親戚が送ってくれる六花亭のお菓子です。帯広に本社があるメーカーなのですが、和菓子とも洋菓子とも言える独特の製品が楽しめます。例をあげようと思ったら74いつも詰め合わせで来るので名前を覚えていないものが多くいのですが、鍋の形をして中に餅が入ったもなかが好物です。この六花亭の「大地」という生チョコレートが最高と昔は思っていたのですが最近では同じ北海道のロイズの生チョコレートが勝っています。他にもレーズンバターが入ったマルセイバターサンドなど、北海道はおいしいお菓子に恵まれています。札幌へ行くときは知人にロイズのチョコレートを送るのが習慣です。
まあ、親戚でもいないとなかなか地方名産のお菓子って食べませんよね。京都の八つ橋や名古屋のういろうなど有名どころは買うことがあっても地元に人が食べるお菓子ってまた別です。ちなみに僕は東京へ来た人には草加煎餅と舟和の芋ようかんを薦めます。得に舟和の芋ようかんはようかんというものに対するイメージをくつがえす程あっさりしていていくらでも食べられてしまいそうです。
話はずれましたが、最近、友人が金沢名産のお菓子を送ってくれたんです。前にも一度、浦田甘陽堂の栗天真というお菓子をもらった事があって、それがおいしかったのでリクエストしたんです。カステラ生地の中に柔らかく煮た栗の入った栗天真はこれまで食べたことのない種類のおいしさでした。今回送ってくれたのはそれに加えて森八という会社のもなかと柴舟小出の「野」というお菓子。もなかの方がスタンダードなのですが上品な味わいのこしあんと薄い皮の感触の調和が素晴らかったです。歯にくっつくというイメージ返上ですね(笑)
「野」の方は栗天真と同じくカステラ生地でもちっとした感触としつこくない甘さが心地よいお菓子。
1日1つずつ楽しんでいますが、食べるの惜しくなってしまいますね。家族に大半を持って行かれたのが少し残念ですがおいしさというものは他の人と共有したくなるものなのでまあ、良いかな。
10月6日
書感です。
「ジョジョの奇妙な冒険
ストーンオーシャン」3巻
作者;荒木飛呂彦
出版:集英社ジャンプコミックス
定価:390円
初版:2000年8月9日
無実の罪で投獄された空条徐倫。癖のある囚人たちがあふれる刑務所に面会に訪れたのは、待ち望んでいた母ではなく小さい頃から徐倫を放っておいた父、承太郎だった。
面会中、何者かの襲撃を受けた二人は協力して脱出を試みるのだが……。
跳ねっ返りのように見えて時折彼女が示す優しさや、強靱な精神力は、父親に見捨てられたというコンプレックスが育てたものとも言えます。父、空条承太郎は常に冷静沈着で人間味がないように見えますが、実は情に深く、常に最善を求め、先を読んで行動しているということを読者は知っています。
第三部の主人公として魅力的だった承太郎が、父親としてはまして年頃の娘には受け入れ難い人物であることはわかっているのですが、100年前か承太郎、徐倫に受け継がれてきたジョースター家の血は言葉でなく行動で呼び合うのです。
平時なら、家に寄りつかない冷たい父かも知れない承太郎。
しかし娘が危機、それも前代未聞の能力が次々襲って来るような事態に巻き込まれたとき、徐倫を守ることができるのは父親である承太郎だけなのです。
第一部のジョージとジョナサン、第二部のリサリサとジョセフ、第三部のジョセフと承太郎など、血のつながった者どうしの絆を様々な形で書いてきたこの「ジョジョの奇妙な冒険」ですが、娘と父親が共に戦うというのは初めて。得に承太郎はこれまでの登場人物の中でも伝説的な頭脳と能力を持つ人物だけに話の作り方は難しいでしょう。どんな世界でも、世代は交代していきます。ジョースター家の血を受け継ぐ中心人物が、承太郎から徐倫に変わったということを読者の誰もが納得できるほど徐倫は強くなれるのでしょうか?
さて、ジョジョの奇妙な冒険、今回もあいかわらずテンションが高いです。次々起こる奇妙な出来事の中で、一瞬のうちにあらゆる思考が巡り、相手の裏をかいたり意表をつかれたりとこの緊張感に病みつきです。僕は連載がじれったくて一気に読みたいがために近くにジャンプがあっても絶対に開かないようがまんしています。しかし考えてみるとこの絶え間ない緊張感は週間連載だからこそ描く事ができるのかも。
今回、囚人仲間のエルメェスも徐倫の味方に加わって新たな能力をどう活かすか見物。早くも4巻が待ち遠しいですね。
10月7日
皆さんは人から相談される方ですか、それともされる方?
もちろん両方ということもあるでしょうね。
相談という言葉について辞書を引くと「自分ではよくわからない事柄について他人に意見を求める」とあります。
僕が一番疑問に思うのは、テレビやラジオなどに相談を投稿する人です。自分のことを相談するわけですから、自分の状況と正確を理解していて冷静に判断を下せる人に相談するのが一番ですよね。少し相手の話を聞いただけで役に立つような事が言えるはずがありません。結局、一般論に終始して終わるわけです。でも、そんな話だったらたいてい聞いたことはありますよね?
実際は相談って話を聞いて欲しくてする事が多いのでしょうね。親しい人に話す「相談」は自分の不安などを相手に転嫁して自分の心理的負担を軽くするという効果もあります。
さて、転嫁される方はどうでしょう?
まあ、頼られて悪い気はしないわけですし、頼られるということは自分の自信にもつながるわけですね。ある種の共生関係と言えます。個人的には相談する方とされる方の立場は同等だと思っています。
相談される方は義務感などを感じるかも知れませんが、実際に義務が生じるのは相談する方ですよね。ただ話を聞いてもらいたいというのはあるかも知れませんが、相談しっぱなしというのは相手にとっても失礼です。友人からの相談では特に、後々まで気になったりしますからね。
僕はどちらかと言えば相談を受けるほうですが、
「こういう状況です」
「そういうときはAとBという方法がある」
「Aはできません」
「なら、Bしかない」
「Bはいやです」
「そればら今のままでがまんするかあきらめる」
「それができないので相談しています」
という会話のループに陥る事があって、これが一番不毛だと思っています。あ、上記の会話はあくまで要約なのでこんなに人間味のないやりとりをしているわけではありません、念のため(笑)
結局、上のループを終わらせるには「一緒に考えるふりをする」という方法しかないですね。第三者から見れば他に方法がないのはわかっているわけです。放っておけば時間が解決するかも知れませんが、それが嫌だから本人も相談しています。
相談されることがこちらの心的負担になるのはかまわないのですが、自分のしていることにはまるで、またはほとんど意味がないと感じる事には耐えられないです。最近は自分、または似たようなケースに遭遇した人がどうしたか話す、というのが最も多いです。
相手が言って欲しい事を言う場合、あえて言わないで忠告する場合とケース・バイ・ケースですが、相談をする方もされる方も中途半端ではいけませんよね。
自分は自分、人は人。わかっていなければ相談も不毛なコミュニケーションになってしまいます。
10月8日
書感です。
「幻獣遁走曲
猫丸先輩のアルバイト探偵ノート」
著者:倉知淳
出版:創元クライムクラブ
定価:1700円
初版:1999年10月20日
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「日曜の夜は出たくない」で登場した謎の人物、その名も猫丸先輩。小柄で子供のような童顔できょろきょろとよく動く目と人なつっこい笑顔を持った小男という容貌の彼は30過ぎているというのにふらふらとアルバイト人生を送っています。
人が良いのか悪いのか、好奇心を持っては様々なところに首を突っ込み、ちょっとした事件を解決してまわります。
さて「日曜の夜は出たくない」では悪口雑言を吐きまくり非常に口の悪い人物として出てきた猫丸先輩でしたが、今回は小友のように無邪気な人物として描かれ、少し違った様子。
周囲に親しい人物がいないため、裏の面が発揮されないのかも知れません。
倉知淳は「星降り山荘の殺人」でも見せたようにコミカルタッチの話作りが非常にうまいです。くどくないおかしさが抵抗なく物語を進め、最後にぽんと謎が明かされるパターンは短編推理小説の王道とも言えます。
人間がコミカルに描かれているというのは、馬鹿な人間ばかり出てくるという事ではありません。それぞれが持つコンプレックスや悪意、疑い、そういったものが誇張して描かれた結果、おかしさを醸し出しているんですね。他人から見ればおかしなことでも本人たちは真剣に困ったり悩んだりしているわけです。物語の登場人物の中では唯一、猫丸先輩だけがそれを見抜いて読者と同じ視点に立っているわけです。
そういったものをいちいち真剣に受け止めていては自分の身がもたないはず。無邪気に見える態度はそういうものから身をかわすための欺瞞なのかも知れません。
「面白くなければ何もしない」という猫丸先輩ですが、単にそれだけの人物ではないようです。
さて、この本は猫丸先輩が様々なアルバイト先で遭遇した事件を綴る短編集。語り手はみな別々で、初めて猫丸先輩と遭遇するか知り合って間もない人ばかりです。殺人事件ばかり起きる「日曜の夜は出たくない」と対称的にこちらは事件らしい事件もトリックもないのですが、名探偵というのは職業でなくその人の性質や思考に与えられる称号なのだということが実感できます。
収穫が大きかったのがあとがきで他の猫丸先輩出演作品の情報を得られたこと。長編「過ぎゆく風はみどり色」はなんとかして入手したいものです。
10月9日
書感です。
「ヒカルの碁
9巻」
原作:ほったゆみ
作画:小畑健
出版:集英社ジャンプコミックス
定価:390円
初版:2000年10月9日
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プロ試験に向けて日本棋院の仲間たちとともにあちこちに碁会所を回るヒカル。これまで遙かに上の実力を持つ佐為の指導を受けるか互角の力を持つライバルと真剣勝負をするしかなかった彼は、格下の相手とハンデをつけて対極を重ねるうちに新しい能力を開花させていく……。
ヒカルの碁の面白いところは、一見ありがちな少年漫画の設定ながら実は地味で着実な成長を描いているということ。
天才棋士の子として生まれ、環境にも恵まれたヒカルのライバル、塔矢アキラはエリートコースを一直線。一度はヒカルに取り憑いた霊、藤原佐為と対局し破れるのですがそれをバネにいっそう囲碁に集中していきます。最初の頃の展開を見ているとそのままずと佐為がプロ棋士たちと対局するのかと思い、どうするのか疑問でしたがあくまで主人公のヒカルを中心に佐為は教師と解説という役所になっています。
途中、佐為の力を目の当たりにした人々がヒカル本来の実力に落胆するという展開があり、そのあたりが読者として一番つらかったですね。元々囲碁というものに興味のなかったヒカルがのめりこんでいくきっかけでもありました。
技量の差が勝敗を分けるのはもちろんですが、実力がないとどちらが買っているか、負けているかということすらわからない囲碁では将棋よりもかかるプレッシャーが大きくなります。
「月下の棋士」のように将棋に命までかけた極限状態での駆け引きではなく、全勝でもギリギリでも通ってしまえば同じという院生試験の描写にはスポーツに似た緊張感があって実際の院生たちの様子を想像しながら読むことができ、緻密な下調べと取材をしているであろうことを伺わせます。
毎月、コミックは大量に出ていますが、この作品ほど絵も話も質が高く安定して読めるものはまずないですね。紹介している作品の中でも、多くの人に受け入れられるというところではトップクラスだと思います。囲碁を知らなくても十分に面白い漫画です。
10月10日
僕は読む本の多くを図書館で借りて済ませます。
出来れば買って読みたいのですが、書籍代ってけっこうかかりますからね。実際に本屋で買うのは新刊だけですね。それも好きな作家の作品で図書館で借りられるまで待っていられないっていう時だけです。
考えてみれば図書館で本を借りても作者には一銭も入らないんですよね。図書館にリクエストを出して買ってくれればそれで一冊にはなりますが。
作家ってもちろん本を書いてその収入で暮らしているわけですよね。だから、僕らが本を買った印税が収入になるわけです。もちろん原稿料なんかもあるでしょうが、本が売れるって事は重要ですよね。売れる作家ほど原稿料が上がりますし、次の本も出やすくなるでしょう。本を買うという事で、微小ではありますが作家に次の良い作品を書いてもらうため貢献することになるわけですね。
ヨーロッパでは貴族などが優秀な芸術家を召し抱え、その活動を援助していたわけですよね。一種のステータスだったわけですが、創作活動は必ずしも生活に必要なわけではないのでそれを愉しみ、出資する人がいなければ成り立ちません。
流通や通信の手段が未発達だったころは、創作活動への援助というのはそれを目にしたり耳にしたりするごく一部の人だけのが行うものだったわけですが、現在は本もCDも大量に売っているため、多くの人が少しずつそれを分担することになります。それだけに、実は自分が芸術の発展に寄与しているという意識は薄いですよね。
本でもゲームソフトでも、音楽CDでも買うことが一番の参加になります。音楽CDなどはレンタルでも著作権料が入りますが、古本の流通って入らないですよね?
ゲームソフトも中古の流通が野放し状態なので問題になったりします。特にゲームは単価が高いので最初から中古狙いっていう場合も多いです。しかし、コンシューマーゲームは5〜8万本売れなければ元すら取れない場合が多いので売れる売れないというのは切実です。それだけの売り上げが見込めないと言う場合は開発が終了しても発売されないというケースすらあります。
言ってしまえば、CDのレンタルや中古ソフト、図書館などは裏技なんですよね。ですがメジャーな歌手や作家はすでに十分売れているのでそれ以上貢献しなくてもいいのかも。マイナーだとレンタルCDとして出ていなかったりするので購入を即される結果になる事もあるでしょう。しかし、図書館って採算などは度外視でリクエストされた本を入れますよね。
もっとも、図書館でいろいろな本を借りて好きな作家が増えれば結果的に買う本も増えるのかも知れないし、その変は微妙かも。しかし、自分が本を買うときに作家への援助だと思えば少しは気分が違うかも。読者というのは作家から何かを与えられるだけではないのです、と言うことで。
10月11日
書感です。
「黒猫館の殺人」
著者:綾辻行人
出版:講談社文庫
定価:619円
初版:1996年6月
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前に読んだ「殺人方程式」がかなり不満だったのでくちなおしに館シリーズを借りてきました。このシリーズって各作品が独立したものかと思っていたのですが、微妙につながっているんですね。登場人物同士が知り合いだったり、他の作品にも顔を出したりしています。まあ、それは通読している人が少しだけ楽しめるエッセンスに過ぎません。
「館」シリーズというだけに今回の冒頭も不気味な「黒猫館」の描写から始まります。
十角館、時計館、迷路館……。建築家、中村青司が設計した建物で起こる殺人事件。黒猫館もまた、中村青司の建てたものだった。そこで管理人をしていたという老人が、なくした記憶を求めて雑誌編集者、江南の元を訪れる……。
館シリーズこそ、綾辻の方程式を見せてくれる作品です。ただし、どの部分がその方程式で、何をどこに代入するのかというところがなかなかわからない。騙され方がわかっていてもどこで騙されるかわからないのが綾辻トリックの醍醐味です。
「十角館の殺人」では恐ろしいまでの衝撃を与えた作品でしたが、少しは手の内がわかっている「黒猫館の殺人」ではもちろん読者も警戒しています。今作でその警戒心を緩めてしまうのは、この小説が「普通の推理小説」に見えるからです。
館は山奥にそびえ立ち、黒猫のように不気味なシルエットを見せているもののこれといって異常なところはありません。隠し扉やのぞき穴などは読者が予想済みです。前に「殺人方程式」を読んでいただけに、そのまま凡庸な推理小説で終わるのではないだろうかという怖さも少しありました。
しかし、綾辻行人はそのまま終わったりはしませんでした、ましてこれは館シリーズなのですから当然と言えば当然。最後にどんでん返しがあるのは当たり前ですが、きっちりと綾辻的結末をつけてくれます。
読者に予想させておいて少し裏切る。こうなるだろうと思わせておいて外す。この辺りのさじ加減が絶妙。
さて、最後のオチまで一気に読んだのですが、実を言うと少し淡泊な印象でした。少しだけ十角館を読み直したみたのですがあのエキセントリックな雰囲気にはなかなかかなわないようです。この黒猫館は館シリーズの中でも事件的な作品だからかも知れませんが。
実を言うと、島田荘司の「眩暈」と読み比べてみて欲しい作品です。どちらが面白かったかで、どちらの作家が好きか、確認できると思います。
10月12日
書感です。
「聖母の部隊」
著者:酒見賢一
出版:徳間文庫
定価:780円
初版:1996年3月31日
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「後宮小説」で新潮社ファンタジーのベル大賞を受賞した酒見賢一のSF作品集です。表題作「聖母の部隊」他、短編3編が収録されています。「後宮小説」は中国風の世界を舞台にした破天荒な歴史ものだったのでSFを書いているというのは意外でした。あとがきでは作品の来歴などについて触れていましたが、表題作以外はみなデビュー前に書いた作品のようです。
短編「地下街」
活躍のしすぎでヨーロッパを追い出されたエージェント、ペーター・ハウゼンとコンビを組む「私」は任務遂行のため、東京の地下街へと向かう。地下街に救う悪魔とは……?
のっけからとんでもないノリのこの作品。はちゃめちゃな話が展開するのは目に見えているのですが、その方向性がかなり予想外。設定を「活かす」のではなく、設定そのものがオチをさらにばかばかしくするために踏み台というのがかなりの一発ネタです。発想の素人くささが逆に新鮮とも言えます。
短編「ハルマゲドン・サマー」
一人称小説というのはあちこちにありますが、これは最初から最後まで台詞だけの小説。しかも会話ではなく、一人が一方的に喋り続けるだけというもの。これは舞台やラジオドラマなんかにしてみると面白いかも知れません。想像できる結末ではあってもそこにきれいに収めるのがプロというもの。これはさすがですね。
中編「聖母の部隊」
突然現れた侵略者に親を殺され、兄弟と離ればなれになった主人公、ケイと14人の少年を救ったのはマリアという女兵士だった。敵から生き延びるため、少年たちは過酷な訓練を繰り返し、肉体、精神ともに成長していく。敵が何者か、何のために戦うのかということもわからぬまま過ぎる日々。真実を知らされたとき、彼らは……。
強いカリスマを存在に統率され、あらゆる技術と知識をたたきこまれた少年たちは生き延びることに必死。しかし、やがてその意志は自分たちより「お母さん」に向けられていきます。
一発の銃弾が存在を消してしまう戦場。そこに立つのは本来死を覚悟した人間だけでなければならないはず。子供たちを戦争に駆り出してしまったマリアの苦悩。親も子もなくし、マリアが全てとなってしまった子供たち。賢い主人公の目を通して、そういう微妙な心理がよく描かれています。小説そのものはSFコンバットアクションとでも言うべきもので、一抹の古くささが漂うもののそれだけでは終わらない酒見賢一の奥深さを感じます。
短編「追跡した猫と家族の写真」
引っ越した家族を追って4000キロを旅したという猫を調べるため、研究生のカイルはロサンゼルスへ飛んだ……。
僕としてはこの一編が一番好きです。ハインラインの「夏への扉」を読んだ人間には猫とSFは切り離せません。60年代のアメリカを舞台に猫の飼い主であるロジャーソン一家との交流、娘のアニーとの恋を爽やかに描いています。少し悲しいようで幸せそうな結末が何より暖かい一作。
以上、どれも傑作と断言するのは難しいのですが、後宮小説などで酒見賢一に興味を持っている人なら一読をお勧めします。たぶん、このあたりが原点なのです。
10月13日
オリンピックが終わって、しばらくスポーツとは縁がないだろうと思っていたのですが、実は一つ、大きなものを忘れていました。
ボクシングWBAライト級タイトルマッチ、畑山隆則VS坂本博之です。数日間忙しくて新聞のスポーツ欄もスポーツニュースも見ていなかったため、試合が終わって結果を知ってからビデオ観戦ということになっていまいました。
結果がわかっていながらこれだけの見応えがある試合は初めてで、リアルタイムで見なかったことはあまりに悔しいです。
僕は元々畑山が好きで、復活して王座を取ったときにはかなり喜んだものです。だからこそボクシングファンの間で言われる「坂本の方が強い」という言葉がかなり不満でした。
しかし、今回のタイトルマッチを見て、少し納得。坂本は畑山に比べてガードが甘くスピードもそれほどではないと思っていたものですが、そのパンチの迫力はケタ違い。打たれても打たれても倒れないタフさと相まって、どこで一発逆転するかわからない恐ろしさがあります。
多少のパンチをものともせず、一撃で勝負を決めるというのは確かに魅力的なボクシングです。
一方の畑山はやはりスピードでしょうか。猫科の動物を思わせる姿勢から繰り出されるパンチの威力は強くないと言われているものの切れ味が鋭いですね。ゴングが鳴ってラウンドが始まる瞬間、椅子から立ち上がって軽快に中央へと向かう姿が印象的です。壮絶な殴り合いの中に出ていく人間の足取りには見えません。
ボクシングの魅力は単純明快な殴り合いだと言うこと。
どちらかの技がいかに優れていようと、相手が倒れなければ意味はないのです。判定に持ち込まれることは多々ありますがそれは結局第三者の比較に過ぎません。
リングに上がる人間はお互いに対等な条件で力を比べあうのです。ボクシングは他のスポーツよりも試合のスパンが長く、それだけに一試合に費やす労力も大きいです。試合の時間は数十分かも知れませんが、その短い間に何ヶ月もの努力や想いがかかっています。
それだけに、どちらかが倒れるまで、決定的な形で勝負がついて欲しいと思うわけです。
試合の終盤、坂本はぼろぼろでどう見ても勝ち目はなくなっていましたがそれでも戦い続けました。勝つ方も負けるときも、KOという形でなければ納得できない事ってあるんでしょうね。試合後の報道で、坂本が出た養護施設の子供たちが応援するさまが流れていました。それが倒れずに向かっていける理由のように言われていましたが、僕は逆だと思います。背負っているから強いのではなく、強いからこそ背負えるのだと。
本当に見事な試合でした。結果がわかっているのに見ていて目頭が熱くなりました。畑山が坂本と戦った経緯も、坂本の半生もボクシングにとってはおまけに過ぎません。
何も知らないで見て、人を感動させる力があの試合にはあったのではないでしょうか。
「ボクシングはすごいんだ」ってことを思い知らされる一銭でした。
10月14日
人間、第一印象って重要ですよね。最初の印象が悪いとなかなか友好的にはなれないものです。印象の大部分って外見と話し方で決まるのではないでしょうか?
もちろん、外見と話し方だけで内面的なものがわかるわけではないですが、例えばお店などで店員がだらしない格好をしていたら店そのものがいい加減に見えるし、話し方がたどたどしかったら頼りなく感じるわけです。
それだけ外見や話し方が感覚に訴えかけるものが大きいということですよね。さらに言えば、誰でもそういった印象が相手に影響を与えるという事を知っているわけですから、服装にだらしない人は相手に良い印象を与えようという努力をどこかで放棄しているという解釈も成り立ちます。
飲食店のアルバイトなんかでは髪の毛を染めてはいけないなどという規則があったりしますが、客商売なので当然と言えば当然ですよね。例え本人が髪の毛を染めている人に対して何の悪印象を抱かなかったりしたとしても、訪れるお客さんがみなそうとは限りません。僕は元々髪の毛を染めたり変わった服装をしたりしない方なのであまりそういうところで理不尽さを感じたことはないからかも知れませんが、友人が「髪を染めていたって関係ない」などと不平を言うのは筋違いだと思います。
自己主張というのはそれだけデメリットを伴うということですね。もちろん自己主張はあった方がいいと思いますが、場所を選ぶかそこで自己主張できるような努力が必要ということ。
話し方によって相手に与える印象を決定する人間の代表格はやはりアナウンサーでしょうか。他にも、電話のオペレーターや店員さんなど、そのフィールドの話し方をする人ってたくさんいますよね。特に職業的な場合は、一定の話し方を模倣することで相手にプロっぽさを印象づける事ができます。僕が一番嫌っているのは電話の勧誘で、フレンドリーな口調で話しかけてくるものです。あれって話始めた瞬間に勧誘だってわかりますよね。普通は知らない人から親しげに話しかけられたりしないからです。非常に不愉快。事務的に初めて相手の反応をみながら段々と親しげにしていったほうが良いのではないかとよく思いますが、そんなこと忠告しても仕方ないので言いません。
電話勧誘で不愉快なのは親しげな口調でありながら非常に断定的なもの言いをして有無を言わさずいろんな約束をとりつけようとすることですね。最初の印象と実は違う、という感覚は評価を大きく上下させます。フレンドリーだけど実は勧誘という印象よりはビジネスライクなのに実は親切という方がずっといいのではないでしょうか?
日常でも話し方によって受ける印象ってありますが、会話の積み重ねによって相手の本質ってだんだん見えてきますよね。
友達の一人で、知り合ったときにはのんびりした人という第一印象を受けた人がいます。しかし、知り合ってから時間が経つうちにそもそものんびり話していないということに気づきました。語尾も間延びしていないし、発言のペースが遅いわけでもないんですね。一つ一つ言葉を選んで話すからそう聞こえるようです。留学生なんかは日本語がたどたどしいので頼りない印象を受けますが、たいていはかなり頭の切れる人たちです。
当たり前と言えば当たり前の事ですよね。
僕自身は話し方にあまり特徴ありません。どこの出身かというのもほとんどわからないと思います。個人的には略語や隠語を使うのが好きじゃないので、アナウンサー口調と言われたりすることもありますけどね。このメルマガの口調が話し方そのままだと言われたりもします。文章に話し方って出るものなのでしょうか?
10月15日
書感です。
「時計館の殺人」
著者:綾辻行人
出版:講談社文庫
定価:835円
初版:1995年6月15日
関連書感はこちら
また、綾辻作品です。
前の紹介した「黒猫館の殺人」はこの「時計館の殺人」の後の話になります。実を言うと先に「黒猫館」を読むと「時計館」の結末がわかってしまうので順番には気をつけた方がいいですね。
鎌倉の森に立つ「時計館」
そこで少女が死に、その後、家族と関係者たちも事故や病死で次々と命を落とした。
10年後、オカルト誌の取材でそこを訪れた一行を無差別殺人が襲う。「時計館」に隠された真実とは……?
謎めいた館を舞台にするのが「館」シリーズの定番。
半地下構造で円形に並んだ部屋には大小さまざまな時計が時を刻むこの時計館はこれまでの中でも最も謎めいた建物です。
建物はもちろん、人間が利用するために建てられます。そこに何か変わった要素があるなら、それは設計者や所有者にとって何か意味があります。館というのは人が住むための建物であるわけですから、奇妙な館に住む人間はそこに何かを求めています。しかし、周囲の人々にそれが理解できるかどうかは全く別な話。家族や使用人は意味の分からない空間に留まり続ける事になります。そして、知らず知らずのうちに館の主人や設計者の影響を受けていくのではないでしょうか。
館シリーズの舞台となる建築物はみな、中村青司という建築家が設計したものです。どの建物でも次々と人が死に、その背景には様々な悲劇が隠されています。人の怨念は確かに存在するのです。それは超常現象ではなく、死後も何かを通じて伝わっていくのでしょう。人間が建てたものなのに、いつの間にか人のほうがそこに取り込まれてしまう、それが館シリーズの怖さです。
題名からわかるとおり、今回の最大のポイントは時計。
24時間365日、常に時を刻み続ける時計。現代の人間は常に時計を見ながら行動し、それによって他人と共に行動することができるわけです。
内部に置かれた108個もの時計のコレクションは、本当に人のために時計を刻むのでしょうか?
この時計館、これまで読んだ館シリーズの中で一番の傑作だと思います。十角館のインパクト、人形館の怖さ、黒猫館のスケール。どれも捨てがたくはあります。しかし、この時計館のでは綾辻行人の新しい一面を発見した気分です。上に挙げた三作とは全く異なるアプローチなんですね。この「時計館」では連続殺人事件すら謎をとくための手段に過ぎません。謎が解けたときの感動はナンバー1です。