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10月16日
前々から使っていたプリンタの調子が悪くなっていたのでプリンタを買い換えようと考え、狙いをエプソンのPM-820Cに定めていました。縁なしでロール紙に印刷できるのが強みで、高画質なためはさみなどで切ってしまえば印刷したデジカメ写真も普通の写真と変わりません。
新宿や秋葉原などでの標準価格が39800円と少し値が張るのがネック。予算の関係で手が出なかったのですが、最近新機種が出たために29800円まで値下げされ、お金も貯まったのでそろそろ買いかと思ったのですが、実際にお店に行って新機種を見てみたらびっくり。なんと新製品のPM-780Cは24800円と安価なのにも関わらず画質はPM-820Cと同等、しかもA4とハガキサイズでは4辺縁なし印刷が可能です。
820Cの後継機でもある880Cは780Cと同様に4辺縁なし印刷が可能、印刷速度もアップしもちろん従来からのロール紙も使えます。さらに10月後半に発売されるPM-900ではインクが6色から7色になり、CDへの印刷もできるという高性能です。
プリンタ性能の発展ってなかなか目を見張るものがありますが、印刷速度や画質だけでなく4辺縁なしという新しい機能が一番目を引きます。これまでのものだと給紙のときに紙を押し込むためのギアの問題で紙の端まで印刷することができないでいました。紙を離してしまったら動かなくなってしまいますから当然の事なのですが、PM-780Cや880Cでは押し込むギアと引っ張るギアがあり、それによって紙を端から端まで使えるようになっているらしです。
買って帰って早速印刷を試してみました。モノクロならかなりのスピードで、ストレスはほとんどありません。速さで言えばヒューレットパッカードのプリンタが有名ですが、体感時間では変わらないですね。カラーだとさすがにそこそこ時間がかかりますが、ドライバの補正能力が高いようで640×480の画像を引き延ばして印刷しても十分に見られるものとなっています。画素数の多いデジカメを持っていない僕としてはこれがなかなか嬉しい。しかし、プリンタの能力を最大限に引き出してみたいので211万画素のデジカメとか買ってしまいそうで怖いです。
ちなみに僕が最初に使っていたプリンタはヒューレットパッカードのもので、実を言うともう名前も忘れてしまいました。
その後で買ったのがエプソンのMJ-830Cでこれも当時ではかなり高性能かつ安価でした。2万円弱だったのですが、ずいぶん長持ちしたものです。
プリンタって家に置いてある場合、使おうとしなければなかなか使わないものですが、いろいろと遊べる要素があると違いますね。今年は年賀状なんかも凝ってみようと思います。
10月17日
毎年、この季節になると大学のサークルが会誌の編集に入ります。僕はまあ、OBに近い方なので直接手は出さず、アドバイス程度に留めているのですが、どこまで言っていいのかって割と悩みます。
書店で言われている小説を読んでも不満があったりするのですから、素人の小説なんてもう言いたいことだらけです。下手なのは当たり前ですけどね。そんなにすばらしいものがかけるならプロになっているでしょう(笑)
サークルと言っても、一人一人目指すものは違います。そもそも何かを目指しているのかと問われるとなかなか辛い立場の人もいるでしょう。しかし、やる気があって本当にプロを目指している人だっています。それぞれに合わせてアドバイスしていけばいいのですが、そもそも書いている人間の事をよく知らないって事も多く、難しいです。
親しくなければ言えないこと、親しいと言いにくいこと、いろいろありますね。特に文章を書く人ってプライドが高いような気がします。文章が下手と言われるのは人格を否定されるのと同じくらいショックなのではないでしょうか?
文章だけとは限りませんよね。内容が良くなければどんな言葉の羅列も空虚です。最も、内容は面白いけど文章は読めないほど下手って例は見たことありません。下手過ぎると最後まで読めないという事もあるかも知れませんが。
いろいろと主義主張を持っている人もいますが、それは単なる好き嫌いであることも多いです。その主張が立派なものであっても書かれたものが面白くなければ誰も読まないし、感心することもないわけです。単に何かを伝えたいだけならそもそも小説である必要はないと思います。
言ってしまえば、内容が空疎でも、面白いものが書けるならそれでいいんじゃないでしょうか?
この場合、面白いっていうのはエンターテインメント的要素とは限りません。読むことによって考えさせられたり納得したりするのも読書の楽しみです。そういうものを一つでも与えられれば作者の勝ちではないでしょうか。あとはそこに技術を加えていけばいいんです。
アマチュアバンドの演奏を聴いてはじめてプロの力を実感したり、自分でサッカーをやることでサッカーが面白くなったりすることがあります。
同様に、下手な小説を読んで小説というものを問い直したり自分で書いてみて日本語の奥深さに触れたりすることもできます。文筆活動とは本来孤独なものですが、集団になることのメリットもあるんですね。
人の小説をいろいろと批判、批評していると血が騒ぐと言うか、自分でも書きたくなってきます。アイディアはあるのですが腰が重く、なかなか書き始められません。いつも偉そうな事を言っているだけに出すのが怖いというのもあります。
また、何十万文字も書いていくだけの根気が続くかどうかもわかりません。中途半端では始められませんね。
ちなみに、この晴読雨読はだいたい1200文字くらい。原稿用紙にすれば3枚強です。現在190号になっていますから、大ざっぱな文字数は23万字、原稿用紙600枚分ですね。3日くらい何もしなくていい時間があったら何か書いてみようと思う今日この頃でした。
10月18日
書感です。
「蒲生邸事件」
著者:宮部みゆき
出版:文春文庫
定価:829円
初版:2000年10月10日
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久々の宮部みゆきです。この作品は二・二六事件がテーマと言うことで、近代日本史があまり好きではない僕は敬遠していましたが、逆にそういう人間こそ読んでみるべきかも。
大学受験に失敗し、予備校に入るため上京した尾崎孝史は2月26日、ホテルの火災に巻き込まれる。謎の男に助けられた孝史が気づくと、そこは昭和十一年、まさに二・二六事件が起きようとしていた。未来人である孝史は、歴史に影響を与える事ができるのか……?
現代の子供は戦争を知らないと言われます。主人公、孝史もそんな高校生の一人。そのため二・二六事件に巻き込まれてもそれがどう歴史に影響を与えていくのか知りません。ほとんど予備知識がない状態で本来目撃するはずのない出来事をリアルタイムに体験していきます。
後生から見れば、歴史の流れを感じる事が出来るかもしれません。しかし、その時代を生きた人には流れを構成する一つ一つの要素しか見えません。人が予測できるのはわずか数手先の事です。そして、行動を起こそうとする人間は一人ではないのです。事実を変える事はできるかも知れません。しかし、それは本当に未来を変える事になるのでしょうか?
もちろん、時間旅行というものがどんなものなのか、本当にわかるわけではありません。この作品は日本SF大賞を受賞したものですが、厳密な意味でSF、つまり空想科学の要素が存在するわけではないと思います。どちらかと言えば、歴史というものに対する宮部みゆきの思想を表現するために時間旅行という手段を使ったというところでしょうか?
宮部みゆきの作品に共通する特徴として、主人公の思考を緻密に描写していくというものがあります。今回も二・二六事件について何も知らない孝史が少しずつ知識を得てそれをつなぎ合わせていき、洞察力を発揮して周囲を驚かせるという展開がありました。それによって、同時に読者の理解を即していくのです。ミステリ作品においても宮部みゆきは探偵を置かず、普通の人間である主人公が地道に思考を積み重ねて真相に到達するという過程を経るという手法を使っています。
歴史の流れという壮大なテーマを持ったこの物語ですが、大きな流れを体験することで主人公が得たのはもっと身近な事に対する結論でした。
現代を生きてきた孝史が目撃する昭和十一年は、どんな時代でどんな人々がいて、そこでどんな出来事が起こったのか。
宮部みゆきの筆はそれをリアルに体験させてくれます。きっと読者も孝史と同じような結論を得られるはずです。
10月19日
書感です。
「本格ミステリー宣言」
著者:島田荘司
出版:講談社文庫
定価:513円
初版:1993年7月
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島田荘司のエッセイ、対談集です。
文学史ってありますが、この本で島田荘司が語るのはまさにミステリの文学史。ジャンル分けは無意味と思うこともありますが、こうやって系統立てて説明されるとやはり流れがあるのだということがわかります。タイトルの通り、島田荘司は「本格推理小説」を書き続けると宣言していており、そもそも本格派とは何かという議論を綾辻行人、我孫子武丸など自らが発掘した作家たちと議論したりもしています。
島田荘司は、実に偉そうに意見を書く人です。こういうエッセイを読むと、シリーズものの主人公、御手洗潔がかぶります。しかし、この断定的な物言いがむしろ心地よいんです。作家は作品で勝負という人もいるでしょうが、島田荘司の場合は本人がカリスマを持っています。その意見は割と過激ですが本人は常に警鐘を鳴らす立場を自認しているのか歯に衣を着せません。自分の意見に対してどういう反応があるか、どういう反論があるかわかっていて、それを受ける覚悟があるからこそ発言に力があるのでしょう。
エッセイの面白さは著者そのものの面白さに通じると僕は思っています。物語を読むかわりに人を読むのですね。島田荘司の場合、言っていることにいちいち納得できるとは限りません。しかし、納得するばかりが目的ではないですよね。それは言い過ぎているとか、それは違うとか考えながら読むうちに、見えない著者との会話が成立しているのです。それこそが著者の本当の目的なのかも知れません。
さて、ジャンルについての話がこの本には多いのですが、ミステリそのものについての問いかけが印象的。乱歩賞受賞作品などに対するコメントとして「ミステリとしては……だが文学としては」というものが情けないと著者は言います。もちろん、ジャンルを越えて面白いものというのはありますが、ミステリの文学賞ではそれがどうミステリであるかということによって評価すべきですよね。ミステリ要素のある小説、というのではなく純粋にミステリとして楽しむ小説、それが本格推理小説です。
本の帯にあるジャンルって、読者に先入観を持たせますよね。例えばユーモアミステリと書いてあったらトリックなどにはあまり注目しなかったりします。また、密室殺人でもジャンルがホラーとなっていたら超常現象を疑います。サイコサスペンスだったら狂気を持った人物が犯人か、登場人物の誰かが実は正気でないと考えるわけです。結局のところ、そういった出版側の意図に左右されているわけですね。
ミステリとして面白いものを追求する島田荘司の姿勢は文章の隅々にまでにじみ出ています。本人がそういう作品を書き続けるだけでなく、こういったところに感化される作家が数多く出て欲しいものです。
10月20日
今日の夕食はさんまでした。
実を言うと僕は焼き魚、煮魚が嫌いです。特に和食では。
洋食だとソースの味などでなんとか食べられますが、和食は苦手なんですよ。魚のどこが苦手なのかと考えてみると、やはり骨による部分が大きいです。面倒と言うよりは、残った骨を口に入れてしまった感触が生理的に嫌なんですね。あと、やっぱり食感かな?
赤身の魚のもそっとした感触も、脂っぽい白身の魚も嫌いです。よく実家でマグロのステーキをしますがあれも食べている途中で嫌になります。白身魚はフライだと好きですね。
僕は骨を取るのが下手じゃないのでけっこうきれいに取れます。だからこそ残っていたときのショックは大きいのです。オムレツに卵の殻が入っていたり貝に砂が入っているのと似た感覚かも。
さて、冒頭の話に戻ります。何故か焼き魚でもさんまだけは好きです。大根おろしと醤油で食べるさんまは「嫌いじゃない」ではなくて「好き」の部類に入ります。冷静に考えてみても他の魚と大きな違いはないと思うのですが、食べ物の好き嫌いって微妙なんでしょうね。
けっこう嫌いな食べ物ってあるのですが、割と平気そうに食べてしまうので気づいてもらえない事が多いです。母親でさえ僕の嫌いな食べ物については無知と言っていいかも(笑)
まったく食べられないのは生姜とみょうがだけで、生姜には特に苦労させられます。細かく刻んだものでもダメなんです。
好き嫌いって基準がなかなか難しいですよね。とりあえずそういう言葉で表現してはいるものの、自分の「嫌い」は他の人の「好きじゃない」程度ではなかろうか、と考えたりします。
幼稚園や小学校の頃はよく給食を残したものですが、あれは好き嫌いと言うより純粋にまずくて食べられなかったのだと今は思っています。まずいものを我慢して食べさせるのは教育じゃありませんよね。
嫌いなものでも味の善し悪しが分かるというのは不思議な事かも知れませんが、僕は一応、わかっているつもりです。評価も周囲と一致するのでそう外れたものではないと思います。
現代っ子は魚嫌いが多いらしいですね。焼き魚って何か健康に良い要素があったような気がしますが、思い出せないです。
刺身はかなり好きなのに焼いたり煮たりするのが嫌いっていうのは謎ですね。結局、材料じゃないって事でしょうか。
しかし、好き嫌いはないに越した事ないですよね。なんでも楽しんで食べられます、きっと。
10月21日
書感です。
「黙約 −ブラディ・ドール6−」
著者:北方謙三
出版:角川文庫
定価:505円
初版:1992年3月25日
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北方謙三のハードボイルド小説シリーズ、第6弾です。
このシリーズは一つの街を舞台にしているものの、毎回主人公が変わります。魅力的なキャラクターなのに次からは脇役というのがもったいないと思っていたのですが、最近はなんとなく納得。言ってしまえばこのブラディ・ドールのシリーズはストーリーが問題ではないのです。何かが起こってそれを解決するといプロセスが重要なのではなく、その過程で主人公となった人間を描写するのが主目的。一冊で一人というペースで様々な生き方を語っていくのがこのシリーズなんですね。
1年前、N市に流れてきた外科医の桜内は一流の腕を持っていながら犯罪者とわかっている人間の治療もする外れ者。ただなんとなく裏街道を歩むことになった男は、ある夜に治療した
患者との関わりで事件に巻き込まれる。ブラディ・ドールに集まる男たちがそれぞれの想いを胸に動き回る中、桜内の取った行動は……?
シリーズ最初の主人公である川中はエリートだったにも関わらずトラブルに巻き込まれて身一つで人生をやり直しており、必要な時には暴力も使えます。その川中の下で働く支配人の藤木は元やくざ者、バーテンの坂井は川中を殺しに来た男とみな何かしらの力を持っています。それに対してホテル支配人の秋山、画家の遠山、そして今回の桜内などは暴力的な世界に生きていない人間です。暴力を駆使することのない人間が暴力に屈しないというのは難しい。川中のライバル、キドニーは弁護士としての力を使って様々な人脈を持ち、争いに介入しますが前に挙げた三人は身ひとつしかありません。
得体の知れない連中に拉致され、袋叩きにされながらも自分の上体を冷静に把握し、相手の様子を観察までする桜内は度胸があると言うよりは何かが欠けている人間。死にたいわけではないが死を恐れない、そして何よりも常に自分が自分であることを誇りとするのがハードボイルドなキャラクターなのです。
何も探偵や刑事だけがハードボイルドではないと言うことですね。登場人物たちは何もかも見通しているようで、実は違っています。自分の望む事、望まない事をそれぞれ持っていながら何があってもいいように覚悟を決めているのです。
今回の結末はここまで読んで来た人間にとってあまりに衝撃的でした。このシリーズもここから転機を迎えるのだろうという予感があります。外科医や画家、ピアニストなど自分の手に技を持った人間を主人公として据えてきているというところに、作者の持つハードボイルドの概念が見え隠れしますね。
北方謙三の書く台詞はあまりに格好が良すぎておかしさと紙一重のところにある事も。しかし、そういうバランスでありながら決して倒れる事はありません。そんな台詞をキザだと想いながらも使ってしまうキャラクターたちにはそれぞれ納得できるものがあるからでしょう。
ハードボイルドに生きたい、とは思いませんが心のどこかにそういう部分を持っていたいです。
10月22日
書感です。
「ARMS 14巻」
作者:皆川亮二
出版:小学館
定価:486円
初版:2000年11月15日
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ARMS最新刊です。ここ3巻くらい、最初の頃のワクワク感がなくなってきたような気がします。ARMSよりも強いという生身の人間、コウ・カルナギのおかげで一時は盛り上がったのですが、話の規模が大きすぎるんですね。主人公、高槻涼のジャバウォックが強すぎるため話しも作りにくいのでしょう。
さて、今回のストーリーは、人類の進化を促進するという秘密組織エグリゴリの最高科学顧問、ドクター・ティリングハーストの語るエグリゴリの過去と同時に、瀕死になって自らのARMSに取り込まれてしまった剛士が仮想空間での体験が中心。
どちらも回想シーンなのですが、前巻の半分くらいからずっと続いています。
結末がどうなるか、なんとなく察してしまっているだけに少し冗長な印象が拭えません。この作者は謎を引っ張る傾向があるので、それだけ期待も高まるのですが、自分が想像しているような展開になって欲しくないという思いはありますね。場面場面が良くても大きな流れでしらけてしまっては台無しです。
もっとも、まだ作品自体が終わったわけではないのでなんとも言えませんが、危険な香りがしないことはないです。
人間より高い知能を持った何者かが壮大な計画を練るが、人間の活躍がそれを上回ったため、または同様の力を持った何者かの力を得て阻止できるというのは割とよくあるパターン。
大風呂敷は広げれば広げるほど、収拾が難しくなりますね。
コミックのは現実を遙かに凌駕したものを描く事が出来ますが、読者に実感できないレベルになってしまうと感情移入することが難しくなりますよね。
特にARMSは始まった直後、主人公達に力はあるもののそれをうまく使いこなす事ができなかったり、無力かするような相手がいたりして頭を使ってそれらを倒していくという展開が面白かったので、力を持った存在を力でねじ伏せるという展開の連続はイマイチと感じます。
もっとも、相手がプロの先頭集団だったり天才的頭脳の持ち主だったりするのでそう簡単に裏をかいたりはできないんでしょうね。
力と力のぶつかりあいという描写は実写映画の方が優れているかも知れませんね。ブルース・リーが次々と敵を倒して面白いのはそこに鍛え上げられた肉体と技が実在するからだと思います。ジョジョの奇妙な冒険の第三部では主人公が最後の敵を力でねじ伏せる事になりますが、ほとんどの勝負が頭脳で決まる同作品においては逆に大きなインパクトとなっています。
さて、ARMSはいまだサンデーで連載中ですがどうなる事か。
18巻くらいまでで終わらせて欲しいところです。
10月23日
すでにお気づきの方もいるでしょうが、僕はよくこの晴読雨読のナンバーを振り間違えます。どうも自分が何番まで書いたのかを忘れてしまうんですね。単純に前の号に1を足している事が多いのですが、前の号が間違っているとそのまま何号分もずれてしまったりします。
僕はテキストファイルにひな形を作ってそれを毎回新しくコピーしています。最後に空のひな形がおいてあり、新しいものを書くときには空のひな形をコピーしてもう一つ後ろに足します。最新の晴読雨読は常に最後から二番目の枠に書かれるわけです。わかりにくいので図解しましょう。
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01日記
ーーーーー
02日記
ーーーーー
03ひな形
ーーーーー
というのが最初の状態。ひな形をコピーすると。
ーーーーー
01日記
ーーーーー
02日記
ーーーーー
03ひな形
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04ひな形
ーーーーー
という形になります。
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01日記
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02日記
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03日記
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04ひな形
ーーーーー
が正しい形です。
番号は雛形をコピーしたときに振るのですが、これを忘れる事が多いんです。そのため、
ーーーーー
01日記
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02日記
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03日記
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03ひな形
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となり、これが
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01日記
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02日記
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03日記
ーーーーー
03日記
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04ひな形
ーーーーー
という結果になります。同じ番号が二つ続いて、号数よりも遅れてしまうパターンですね。
もう一つは号数より早くなるパターンです。
ーーーーー
01日記
ーーーーー
02日記
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03ひな形
ーーーーー
04ひな形
ーーーーー
と正しく並んでいるのに、04を替え忘れたと勘違いし、
ーーーーー
01日記
ーーーーー
02日記
ーーーーー
03ひな形
ーーーーー
05ひな形
ーーーーー
としてしまうんですね。
こうして見てみると間違いは一目瞭然なのですが、実際にテキストエディタで書いているとぎりぎり一画面に入らないので間違え易いんです。送る前にチェックすれば一目超然と思う方も多数いらっしゃると思いますが、まったく以てその通り!
誤字脱字なども、当日届いてからあっと思う事がほとんどです。毎日の作業となっているので、意識しないで作業している部分も多いんですね。チェックまで一連の作業に組み込んでしまえば間違いはずっと少なくなるでしょう。
仕事上のミスなんかも確認を怠たってのものって多いでしょうね。一回のチェックでミスはかなり減ります。2回目以降のチェックからはあまり効率が上がらなくなります。自己チェックと他人のチェックを組み合わせるのが的確かも知れません。
昔から僕はテストなどでも見直しを怠って失敗する事が多いです。この性格、なんとかしようとは思っているんですけど、なかなか治らない。
三つ子の魂百までとはいきたいくないものですね。
10月24日
書感です。
「炎蛹
新宿鮫V」
著者:大沢在昌
出版:光文社ノベルズ
定価:819円
初版:1995年10月15日
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新宿署の刑事、鮫島。犯罪者たちは恐れを込めて彼を「新宿鮫」と呼ぶ。
新宿の街で相次いで起こる外国人娼婦殺人事件。犯人不明のラブホテル連続放火事件。消防庁の吾妻、植物防疫官の甲屋などと共に、鮫島は捜査に乗り出す……。
第二弾の「毒猿」では台湾の刑事、第4弾の「無間人形」では麻薬取締官と鮫島は自分と畑違いの人間をパートナーとして認めています。今回の甲屋、吾妻もそれぞれ管轄が違うものの人々を守るという使命を持って仕事に取り組んでいる公務員です。なわばりにうるさい警察の中でそうやって仕事ができるのも鮫島が組織を外れた人間であるからです。
警官とは国家権力の象徴。治安がいいと言われる日本の平和を維持しているのは自分たちという自負が彼らにはあります。
しかし、それが一部では傲慢な態度となって一般市民を威嚇してうるというのも事実。鮫島は常に警官のありかたに疑問を持ち、自分の信念に従って行動しています。だからこそ直接自分の仕事でなくとも他の組織と協力を拒まずに捜査に当たります。今回、特に魅力的なのが植物防疫官の甲屋です。
海外から入ってくる虫や植物が日本の生態系を壊さないように検査し、危険な動植物を水際でくい止めるのが彼の役目。
甲虫の権威でありながら常に現場にあり続けることを選択し、日本の農業を守り続けようとする姿はまた鮫島にも通じるものがあります。
消防庁の吾妻は連続するラブホテルの放火に対し、鮫島に協力を求める人物。放火殺人にならなければ捜査が始められない警察と違い、吾妻はそれを未然に防ぐため尽力します。警察の秘密主義とセクショナリズムを痛感していた鮫島はそのストレートな申し出に対し「感動すら覚えた」と表現されています。新宿鮫は刑事小説という位置づけですが、警察だけではなく市民を守ろうとする様々な人間にスポットを当てています。
今回は複数の事件が別々に存在し、鮫島は同時に捜査に当たります。複数の事件が接点を持つ事があっても、それは新宿の闇というものを共有しているがための偶然です。
事件はただ一つではない。水面下で事件に向かって進行しているものもあれば、起こってしまった後、跡形もなく消えてしまうものもあります。そうした世間の目に触れないものを、鮫島は見逃しません。
なぜこんな複雑な事に、という問いに対して鮫島は「ここが新宿だからかも知れない」と答えます。人が数多く集まれば必ず出来る沈殿物を鮫島は新宿から追い出そうと戦っています。
そういう部分が一掃されたら新宿はつまらない待ちになってしまうかも知れない、と思いながらもです。
甲屋が追う害虫、フラメウス・フーパの蛹は新宿に立つ外国人娼婦が持ち込んだお守りについているものです。植物や動物などはどういった経路で日本に持ち込まれるかわからない。誰かが何気なく持ち込んだ花が日本の農業に壊滅的な打撃を与えてしまう可能性もあります。だからこそ予防が必要なのだと説く甲屋に鮫島は自分との共通点を見いだしたのではないでしょうか。鮫島は軽犯罪といえども見逃しはしません。新宿の街には職業的犯罪者があふれています。しかし、駐車違反などのちょっとした違法行為が事故や事件の引き金になることもあり得るのです。目に見える悪と戦うのだけが警官の職務ではないのです。「新宿鮫」は今日も目を光らせて新宿の街を歩いているのでしょう。
10月25日
書感です。
「迷路館の殺人」
著者:綾辻行人
出版:講談社文庫
定価:590円
初版:1992年9月15日
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館シリーズの第三弾となる作品。
僕は十角館、人形館、黒猫館、時計館そしてこの迷路館という順番で読んでしまったのでどうしても前の方の作品では本来知るはずのない情報を知っている事になります。やはり順番は守って読んだ方が面白いですね。
推理小説界の大御所、宮垣葉太郎が隠棲する屋敷は迷路館と呼ばれる複雑な通路を持つ建物。宮垣が死を迎えたとき、遺言によって4人の弟子達が莫大な遺産を賭けて館を舞台に競作を行う。そこで起きる連続殺人事件の犯人は……?
毎回、奇妙な館を舞台に起こる連続殺人事件が作品の共通点。ミステリにおいて隠し通路などはアンフェアとされるものですが、このシリーズにおいては毎回決まったように隠し通路が使われます。作中では事前にその存在がほのめかされていることが多く、読者もあると思って読んでいるので逆に作者は枷にはめられているようなものです。そんな限定された状況の中でシリーズものを書き続ける綾辻行人の力には感心します。
また、この本は変わった作りになっていて、連続殺人事件を生き残った誰かが小説として事件を書き起こしたものという設定になっています。だから、本を開くと数ページ後にもう一度タイトルの表示があり、劇中劇が始まるのです。
そして、その中では4人の推理作家が迷路館を舞台に競作をするという構造。この劇中劇「迷路館の殺人」の作者が誰なのかというこは読者にのみ向けられた問題なのです。
実を言うとこの答えが、後の作品を読むとわかってしまうんですね。まだ読んでいない人は気をつけましょう。
「迷路館の殺人」は劇中劇がほとんどを占めていています。もちろんそれは単体として完結した作品で、それだけでも凡庸なミステリではありません。しかし、その作品に前後を付け加えただけで事件の様相は全く変わってしまいます。
また、作者あてをしようとしている読者も、綾辻行人のいたずら心にあふれるトリックに驚かされる事でしょう。
劇中劇の最後にはしっかり奥付まであるところが凝っています。そこに「これは乱丁ではありません」と記されているのがなかなか笑えました。
推理小説のフェア、アンフェアというものに対してはあちこちで議論の対象になっています。綾辻行人はどちらかと言えばアンフェアな部類に属するトリックを書く人かも知れません。
しかし、読者にとってフェアであることは本当に意味があるのかどうかは疑問ですよね。アンフェアと言われるものでも面白ければ「やられた!」と喜ぶことができるし面白くなければ「こんなのありか!」と怒るわけです。逆にフェアなものでも簡単に読者が推理できてしまうならつまらなくなってしまいます。ミステリはクイズじゃないですからね。
綾辻行人という人は、常に読者を驚かせようとたくらんでいるいたずらっ子のような存在です。それがミステリのすべてであっては困りますが、ミステリ界に存在する意義は大きいのだと思っています。
10月26日
書感です。
「バガボンド 8巻」
作者:井上雄彦(原作:吉川英治)
出版:講談社モーニングKC
定価:524円
初版:2000年10月23日
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天下一を目指し、武者修行を続ける武蔵は槍の宝蔵院と言われる寺に殴り込みをかける。だが、二代目胤舜のあまりの実力に恐れをなし、敗走。しかし胤舜の師匠である胤栄は武蔵の中にある野生こそが胤舜に恐怖を与えられると見抜き、その武蔵を鍛えようとする。
そして天才、宝蔵院胤舜と武蔵は山奥で対峙するが……。
活人剣という言葉があります。人を殺す剣に対して、人を活かすという剣。人を斬るために存在するはずの剣が人を活かすというこの矛盾は、剣豪小説の世界はいとも簡単に受け入れています。しかし、人は本当にそれを納得できるのでしょうか?
おそらく、剣を握ったことのある人間ならば誰もが疑問を持つ事でしょう。武蔵の凄まじい殺気は誰をも怯えさせ、その力を以て何人もの剣客を屠っています。力こそが強さという単純明快な論理を武蔵は実践しているのです。
対する宝蔵院胤舜には殺気がない。それは、戦場で人を殺す事によって生き延びてきた武蔵との違いなのかも知れません。
勝負を目撃してた京八流の祇園藤次は言います「まるで実りある相手を愛するかのような」と。理解を越えた相手、見えない槍に武蔵は初めて恐怖を感じるのです。野生の感覚は自分より相手の方が強いと悟った瞬間、強さから弱さへと変わってしまいます。力を強さとするなら、自分より力のある相手には必ず負けてしまう。ならば武蔵に足りないものはなんでしょう?
大胤栄と呼ばれる宝蔵院の前当主はまた、胤舜に足りないものも見抜いています。命のやりとりを知らない胤舜は武蔵との死闘を臨みます。命がけで向かってくる武蔵を倒したとき、本当に胤舜は強くなったのか? そこには何もかもに飽いてしまい、呆けて過ごす胤舜の姿があります。胤舜が命のやりとりを求めるなら、行きつく先は武蔵と同じ。そしてそこに未来がないと悟った胤栄は戦いの中で二人にそれを悟らせようと考えます。
「言葉で言い尽くせる事が、どれだけあるだろうか?」
胤栄ははるか昔、剣というものについて思い知らされています。「我が剣は天地と一つ、故に剣はなくとも良いのです」しかしそんな言葉に意味はないのです。胤栄の体験を言葉で武蔵や胤舜に伝える事はできません。それ故に、武蔵はまた武者修行を続けることになります。二刀流で有名な宮本武蔵と、胤栄が体験した「無刀」の極意。この二つが出会うのはいつになるのでしょうか?
一方、武蔵の幼なじみである又八はヒモ同然の生活から一念発起。大阪に出て一旗揚げようとするのですが生来のいいかげんな性格からかとんとん拍子で事が運んでしまい、はったりだけの名剣士、佐々木小次郎となってしまいます。又八は本当に実力を秘めた存在なのか?
もう一人の主人公の動向も気になりますね。
原作があり、結末もわかっているはずのこの作品。しかし、井上雄彦のアレンジは生半可ではありません。これからも楽しませてくれるでしょう。
10月27日
書感です。
「御手洗潔パロディサイト事件 上」
著者:島田荘司
出版:南雲堂
定価:880円
初版:2000年4月25日
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失踪した女子大生が残したフロッピーディスクには御手洗潔のパロディ小説22編が収録されていた。かずて御手洗のパートナーだった石岡和己と女子大生の里美はそこに失踪の手がかりがあると考え、小説群を読み始める……。
御手洗潔が日本のシャーロック・ホームズとするならば石岡和己はワトソン。しかし、単なる記録者としてのみならず自身が御手洗に影響を与えてきました。しかし御手洗潔は突如として海外へ行ってしまい、一人日本の残された石岡は失意の日々を送ります。しかし、「竜臥亭事件」では御手洗の助けなしにやっていけるという自身を持ち、今度はそこで知り合った里美の保護者のような存在として生活しています。
御手洗シリーズはすべて、石岡和己が御手洗と共に見聞きした事件を小説として出版した、という形式。この編もホームズものと同じようになっていますが変わっているのは出版物のファンの扱いで、現実の島田荘司および御手洗というキャラクターのファンを作品中では石岡和己と生身の人間、御手洗潔のファンとしておきかえている事です。
固定ファンのついた作品、特に女性ファンが多い作品では必ずと言っていいほど同人活動が盛んで、あちこちにパロディ小説などが掲載されています。近年はインターネットでの活動が盛んで、本当に御手洗もののパロディをかいている、または描いている人も数多く存在します。
さて、これは事件の調査のために石岡和己と犬坊里美がパロディ小説を読んでいるということになっていますが実質上は島田荘司が書く御手洗シリーズの最新短編集です。
海外に行ってしまい、石岡和己とコンビで活躍することのなくなった御手洗、再びというところですね。
パロディ小説なのでそれまでの物語進行を無視した設定でも書けるという利点を活かしてもはや懐かしいとすら感じる御手洗と石岡の短編が戻ってきています。
上巻の最後には石岡がそれぞれの短編を評する場面があるのですが、なるほど設定が設定だけにいつもと微妙に違う御手洗を楽しませてくれています。途中には記録者である自分の小説が創作を書いているファンに負けていると石岡ががっくり来る場面もあって笑えるのですが、実際は御手洗の言動を見て書いている石岡本人にしか御手洗を書くことはできません。この辺は島田荘司のファンに対する威嚇ともとれますね。本当の御手洗を書けるのは作者本人だけ、ということです。
設定が設定だけにいろいろと深読みができるのですが、島田荘司はパロディ小説を書くファンを一種のライバルとして認めているのではないでしょうか。
下巻の結末、そして事件の解決編が楽しみです。
10月28日
書感です。
「ケロロ軍曹 1〜2」
作者:吉崎観音
出版:角川コミックス・エース
定価:540円
初版:1999年12月1日
この作品はたまたま友達から借りて読みました。説明するのが難しい微妙な感覚が好きです。
オカルト好きの主人公、冬樹がある日遭遇したカエル形生物は、なんと地球を侵略しに来た宇宙人。しかし、地球人に見つかってしまったということで侵略軍は撤退。宇宙人、ケロロ軍曹は主人公の家に居候する事に……。
設定だけみるとよくある感じの話しになってしまいます。居候ものっていうのはもはや漫画の一ジャンルと言ってもいいかも知れませんね。それをどう料理するかが作者の腕の見せ所でしょう。
オカルト好きの子供と宇宙人との微妙な友情、という心温まる話ではなくて、ケロロ軍曹はぬるま湯の生活に浸ってしまいながらも時々は思い出したように侵略の準備を始めたりと油断のできないキャラクター。妙に地球の文化になじんだマニアックさと日常での非常識のギャップが良いです。
さて、漫画はやっぱり絵なしでは語れません。なにより秀逸だと思うのはこのケロロ軍曹のキャラクターデザイン。作者のサイトがここにあるので是非、ご覧になって下さい。
ガンダム話や他作品のパロディなどけっこうマニアックなところがありますね。ある意味、漫画家にな人なんかはマニアの極みかも知れません。古くはゆうきまさみの「究極超人あ〜る」なんかもマニアックな話題が多かったです。
もっとも、この作者はパロディだけじゃなくて独自のセンスを持っています。どの話も高いテンションと脱力感が交互に襲ってきてジェットコースターのようです。また、細かいコマの一つ一つにも遊びがあってくすりと笑わせます。
純粋にギャグだけの漫画って久々に読んだような気がしますがなかなか楽しめました。
10月29日
書感です。
「コミックマスターJ 6巻」
作画:余湖裕輝
脚本:田畑由秋
出版:少年画報社ヤングキングコミックス
定価:495円
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ただ良い作品を描くというためだけに、命を懸ける人間たちがいる。しかし、人間がどんなに力を尽くしてもそこには限界があるのだ。究極までに追いつめられ、それでも原稿が上がらないとき、自分の認めた傑作のみに手を貸すスーパーアシスタントがいる。それがコミックマスターJ。
最高の画力と発想力を持ちながら、自分の漫画を描かずにアシスタントを続けるJの真意は……?
この漫画も説明するのは難しいですね。そもそも、漫画というのは説明が難しいジャンルです。小説の方がまだコメントしやすいのはやはり文字が中心だからでしょうか?
かつて島本和彦が漫画家を主人公に「燃えよペン」というコミックを描いています。漫画を描くためにとことんまで無茶をしてしまう登場人物達の姿はギャグとして笑うだけでは住まされません。このコミックマスターJも同様。こちらは老若男女多くの漫画家が様々な限界に直面するストーリーです。
この作品も基本的にはパロディの色を持っています。
法外な値段でアシスタントを引き受ける主人公J、そしてライバルのジ・エンドは墜ちてゆく連載に最高の最終回をつけて終わらせる男。誰もが手塚治虫の「ブラックジャック」を想像するでしょう。しかし、作中作では漫画界を舞台にしていながら他作品を思わせるようなものがまるでなく、各作者に合わせて絵柄なども変えていくのがなかなか器用です。
さて、これまで一話読み切りだと思っていたこのコミクマスターJなのですが、6巻まで来て突然の新展開。
これまで謎だったJの「描かない理由」が徐々に明らかになっていきます。そのスケールたるや想像を絶するものがありますね。荒唐無稽の話ではありますが、今までの無意味なほどの勢いを考えればむしろ当然かもしれません。読者の「まさかここまではやらないだろう」というラインを遙かに越えた発想はすごいです。
全力で自分の作品に打ち込もうというJと互角に戦える漫画家はいるのか?
これからの展開に期待です。
10月30日
書感です。
「御手洗潔パロディサイト事件 下巻」
著者:島田荘司
出版:南雲堂
定価:880円
初版:2000年4月25日
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失踪した女子大生の手がかりをつかむため、残された御手洗のパロディ小説を読む石岡和己と犬坊里美。22編の小説を読み終わったとき、石岡の頭に一つの説が浮かぶ。後編は9編のパロディ小説と解決編。
自分たちの出てくるパロディを読むという事に対して、キャラクターはどういう気分になるのか。これは島田荘司が読者、そして同人作家達に示す一つの解答なのでしょう。
読者達の見たらいい対する理解。そして、石岡和己他の登場人物たちに向けられた想い。石岡和己が作家として世に出したものが読者達に影響を与え、それが二次創作を触発して今度は作者に感動を与えるというこれまでにない構造は、やはりネットの普及によるものが大きいです。
この本、出てすぐに買おうとしたことがあったのですが、紹介文などを読んで御手洗潔のパロディ小説アンソロジーなのではと思ってしまい、一度やめてます。
僕の周囲には同人誌を書く人も買う人もたくさんいるのですが、僕自身は知人が書いたものや紹介してくれたものしか読まないんですね。
ここに出てくるパロディ小説を書いているのは作者本人ですが、こんな小説たちが本当にあったら素敵だと思います。
島田荘司は実際のパロディ小説に触発されたのか、それともパロディ小説がこうあって欲しいと思っているのかはわかりませんが、実際にネットの世界で御手洗潔のパロディを探してみたいと思っています。
御手洗潔が日本を去ってからだいぶ経ち、今は本当に石岡和己が主人公となっています。それまであまり目立たなかった石岡和己も独力で事件を解決できるだけの力を発揮するようになっています。
精神的に弱い部分のある石岡は逆に人の繊細な痛みを理解することができる人物です。その弱さは、人を守ろうとするとき非常な強さになっていきます。
探偵というのは人の事件を解決してまわるのに、自分が幸福になっていない事が多いです。御手洗潔もその知性故に本当の理解者をなかなか得られないでいます。
御手洗は何故、石岡を置いて外国へ行ってしまったのか?
彼にとって、石岡が一番の理解者であることは間違いありません。それでも彼は日本を出ていってしまった。
しかし、残された石岡は前にも増して魅力的な人物に成長しています。もしかしたら、御手洗は石岡が追ってくるのを待っているのかも知れないと思ってしまいますね。
10月31日
書感です。
友達に借りたものなのですが、この魅力を説明できるかどうかあまり自信ないです。
「ゆず」
作者:須藤真澄
定価:829円
出版:秋田書店
初版:1993年9月25日
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動物漫画というジャンル、ありますね。大雪師走の「ハムスターの研究レポート」なんて面白いです。あと、朝日新聞の「ロダンのココロ」は犬から見た世間を描いたものですね。
動物漫画でポイントなのはやはり作者のペットの対する愛情でしょう。いろいろと手を焼かされつつも、結局はかわいいんだというのが微笑ましいですね。
さて、このタイトルの「ゆず」というのは猫の名前。
作者が初めて飼った動物がこの「ゆず」なのです。
飼うと決まってから取りに行くまでの興奮、そして飼い始めてからの奮闘。自分の経験を元にして描いているのでしょうがどこかメルヘンチックな世界が展開しています。
また、この絵柄がかわいいんですね。いつもつぶらな瞳のゆずは豊かな表情を見せてくれます。猫好きの人には猫の表情がわかると言いますが、まさに作者にはこう見えているのだろうと思います。
番外編としてゆずの視点で描かれた一編があり、それがまた思わず顔をほころばせてしまうような作品に仕上がっています。ペットって、バカなほど手間がかかるけどそれだけかわいいものかも知れません。ゆずは名猫というにはほど遠い。かわいいけれども臆病で、何でもすぐに忘れてしまいます。作者もなんとかゆずを強い猫に育てようとするのにいつも失敗。
そのくせ自分より弱い生き物には徹底的に強いのです。
一人暮らしの身では難しいですが、こういうのを読むと猫が欲しくてたまらなくなりますね。ペットの良さは何より、その存在感でしょう。暖かい固まりが動いているというだけでほっとした気持ちになります。
さて、作者はHPを持っているのでご覧になってみると良いでしょう。トップページにいるのがたぶんゆず。
「須藤真澄・おさんぽ王国」です。
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