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11月01日

 書感です。昨日の続き。

「ゆずとまま」
 作者:須藤真澄
 出版:竹書房バンブーコミックス
 定価:728円
 初版:1996年4月7日
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 昨日紹介した「ゆず」の続編です。一応タイトルが違うので分けてみたのですが、読んでみたらそのまんま続きでした。
 あいかわらず、ゆずのキャラクターはかわいいです。他愛のないゆずのエピソードが描かれているだけでいくらでも読めてしまいそうな作品。
 子猫ではなくなって手が掛からなくなってきたゆずは夏になると作者の手を離れて外で遊び呆けるという状態。
 その間、ネタがないので連載を止めてしまうと言う作者に思わず感心してしまいました。純粋にネコエッセイ漫画のようですね。
 臆病で喧嘩に負けてばかりのゆずは、近所のおばあさんに親切にしてもらってそちらを第二の家に。「天才柳沢教授の生活」でも飼い猫のタマが他の家でもらい餌をするというEP−土がありますが、ネコって複数の環境を使い分けられるんですね。それぞれの顔があるとも聞きます。
 昨日はネコのことばかり書いていましたが、ゆずに対する作者の態度がまた面白いのです。作者とゆず、絵も微妙に似ています。ゆずの一挙一動に喜んだり悲しんだり。のみに喰われ、ゆずが殺した動物の始末をし、近所づきあいを悪化させてまでゆずをかわいがるパワーはすごいです。
 かわいさが伝わってくる反面、飼っている人間のリアルな苦労がなかなか怖かったりします。
 途中にあったエピソードなのですが、作者が「ゆずさえいれば幸せ」と実感しながらも「部屋が汚れても服が汚くなっても平気になってきた」と言ったりする場面がなかなかホラー。
 僕はちょっと、猫は飼えなさそうですね。
 いや、飼ってしまえば何も気にならなくなるのかな?
 作者も最初は何の生き物も飼ったことがない初心者だったようですから。
 飼わなくてもこういう気分を味わうために代償として漫画を読むのか、飼っている人が共感するために読むのか、それとも飼いたいけれど飼えない人が読むのか。
 ペット漫画を書く人も読む人も、他の漫画とはちょっと違う思いがあるのでしょうね。

11月02日

 書感です。

「百鬼夜行 -陰」
 著者:京極夏彦
 出版:講談社ノベルズ
 定価:980円
 初版:1999年7月15日
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 久々の京極でした。
 これは短編集で、鈴木光司の「バースディ」のように本編で描かれなかった犯人や被害者達を主人公にした小説群です。
 京極夏彦は、執着する人間を書くのがうまいですね。それぞれがかかえているコンプレックスを妖怪に見立て、その恐怖を描写している、と言ってしまうと簡単なのですが、ここに出てくる人物たちにとって、妖怪は自分の心の投影などではなくて実在するものなのです。
 本編では京極堂とその周辺の人物が常に中心となっていて、視点も彼らのものとなっています。しかし、彼らに妖怪が見えるのはほんの一時だけ。取り憑かれた側は、いつも自分の傍に妖怪を飼っているのです。それが段々と心を蝕んでいく様が何より恐ろしい。
 心に妖怪が巣くう原因は人それぞれ。皆、何か尋常でないものに遭遇してしまいそうなっていくのですが、たいていそれはきっかけであって、根本の原因ではないのです。
 妖怪は、もともと人の心に棲んでいる。何か害を加えるわけでもないし、呪われるわけでもない。
 しかしいるというだけで恐ろしい、そんな存在です。
 見られているという脅迫観念によって、目玉をえぐり出す殺人犯になってしまった男。焼身自殺を目の当たりにして煙の魅力に取り憑かれてしまった消防士。笑えない女教師……。
 登場人物たちはみな、普通に日常を過ごしているはず。そこには事件などなにもない。しかし、自分自身が段々と非日常の存在に変わっていくのです。
 この短編の登場人物達はやがて京極堂とどこかで関わっていきます。その出逢いは、幸福なものでない事が多いです。
 救われる人間と救われない人間。そこには何の違いもない。
 ただ偶然によるのか、それとも救われない人間は生まれつき救われないのか?
 人間が自分で出来ることって何なのだろうと考えさせられてしまいます。
 本編を読んでいない人には妖怪をモチーフにしたサイコサスペンスとして読めるかも知れません。むしろこれだけ読むとかなり怖いと思います。
 きれいだと思っていた夕焼けが突然、血の色に見えてしまうような世界。それが京極ホラーですね。

11月03日

 書感です。

「どんぐりくん 1巻」
 著者:須藤真澄
 定価:848円
 出版:竹書房
 初版:1999年8月27日
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「ゆず」「ゆずとまま」を描いた須藤真澄のほのぼの漫画。
 前の二つは作者と猫の生活を描いたものでしたが、こちらは擬人化された猫が学校に通うというお話。
「ゆずとまま」の冒頭に同名の「どんぐりくん」という漫画があって、作者に飼われている猫のゆずが知らない間に学校に通っているというメルヘンな感じのお話でした。
 好評だったのか、その続編という感じですね。
 学校に通っているのはゆず、こめ、にら、のり、みその5人でみんなゆずの色違い。みんな恐がりでやんちゃで、いたずら好きなので担任のくぬぎ先生は毎回、苦労させられます。
 本当は厳しくしたいのに、純真な5人の瞳に見つめられるとそうできない先生。しかしストレスはたまっていくというのが面白いです。
 これって一見、子供向けの童話のようにも見えるのですが実は苦労するくぬぎ先生の方に重点が置かれていて大人向け。
 地道にやっているようでいてある時点からぶちっと切れてしまいやけくそな行動をとる先生には同情します。
「ゆず」や「ゆずとまま」でもゆずが生き物をなぶり殺したりする様子を描いたりするのはさすが、飼っている人間だけあるかも知れません。子供のいる人なんかだったら子供がただかわいいだけっていうような漫画や小説は描けないのかも知れませんね。しかし、「それでもかわいい」っていう方が説得力あるような気がします。
 この作者はとくにかく絵柄がかわいくて、漫画の一コマ一コマにそそがれた愛情を感じますし、子猫たちの喜怒哀楽や無邪気な様子がなにより心をなごませます。特に「ぽてぽて」と手を叩く様子が最高ですね。猫は肉球があるのでそんな音になりそう。
 こういう系統の漫画って普段はなかなか縁がないので、貸してくれた友達には感謝。
 本屋で買うには少し勇気がいりますけどね(笑)

11月04日

 書感です。

「多重人格探偵サイコ 6巻」
 原作:大塚英志
 作画:田島昭宇
 定価:580円
 初版:2000年11月1日
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 あいかわらずサイコは装幀が凝っています。力の入れ方が違いますね。まだ6巻ですが、割とインターバルが長いので内容の細かいところを忘れてしまうのですが、どちらかといえば話の雰囲気と絵を楽しんでいるようなところもあります。

 刑事だった小林は恋人を殺した犯人を射殺。だが、本人は裁判で自分が雨宮一彦だと主張する。刑期を終えた雨宮一彦は伊園犯罪研究所の所長、磨知に拾われ、多数のサイコ殺人鬼と関わることになる。様々な事件の犯人達は皆、左眼にバーコードが入っていた。そして、雨宮の左眼にも……。

「自分は何者なのか?」複数の人格を持つ雨宮一彦にとって、バーコードを持つ人間を追うのは自分の秘密を追うのと同じ事です。しかし、調査の結果明らかになった自分の過去が望むようなものとは限らない。謎の組織「学窓」によって人工的に生み出された人間達の持つ異常さを、自分も持っているのではないかという恐怖が彼にはあります。
 話の焦点となるのは雨宮一彦の中の交代人格、西園伸二。
 雨宮一彦の身に危険が迫るようなときや以上殺人鬼と対する時、表に出てくるのは常に西園伸二。彼はただ冷血で危険なだけではなく、もっと大きな存在のようで、学窓の組織も彼を狙っています。
 いつもサイコを読んですごいと思うのは、いつも物語を大きく動かしそうな存在を作っておいてそれをあっさり殺してしまうところでしょうか。一筋縄ではいきません。
 網掛けを一切使わないモノトーンの絵はあいかわらず映えています。残酷なはずの描写をそう見せないのがまた怖いです。
 どうでもいいことですが、タイトルには違和感ありますね。
「多重人格探偵」というタイトルだと平凡な主人公が危機に陥って人格交代し、事件を解決する少年漫画みたいに聞こえてしまいます(笑)

11月05日

 今日は久々に書感ではないものを。
 まだ読んで紹介していないものもあるのですが、日々の出来事などは新鮮なうちに書かないと忘れてしまいますからね。
 さて、実家に門を建てました。
 どうも家に対して不釣り合いなほど立派でイマイチ落ち着きません。ちなみに「建ちました」ではなく「建てました」なのは工務店を頼んでやったのではなく、祖父と父と僕の3人で文字通り建てたからです。うちの祖父はなんでも自分でやりたがる傾向があり、物置だったところを部屋に改造したりとなかなか精力的なのですが、いかんせん歳なので手伝わないとちょっとまずいなとおう感じです。
 僕自身はどっちかと言えば日曜大工みたいな作業は苦手……と言うよりやらない方ですね。たぶん人並みには出来るはず。
 門柱を建てるには、まず地面を掘って中空のコンクリートブロックを埋めます。土を40センチほど掘ることになったのですが、庭の土を掘るのがかなり大変。庭についている小道の左右で土質がまったく違うんです。片方は硬くて掘っても石だらけ、もう片方は柔らかいのですが木の根っこがはっていてとても掘れるような状況ではありません。石を掘り起こし、木の根を切断しながらなんとか掘りましたがそれだけでへとへと。
 次にブロックを埋め込んで、そこに太い木の角柱と金属の支柱を立てます。角柱がかなり長めで電動ノコギリを使って切ることに。しかし、この電動ノコギリがまたくせものです。振動がすごいので手がつかれるうえに、なかなか切れません。切るというよりは削っているという雰囲気でした。変な角度で当ててしまうとノコギリ自体が跳ねて非常に危険だったりもしました。
 切った角柱をまずブロックの中に入れ、次に金属柱を立てたら隙間は石で埋め、後はセメントを流し込んで固定。同じプロセスでもう片方の柱も立てるのですが、そちらは最初に立てた方に合わせていくので微調整が必要なため、祖父と父の仕事です。要するに僕は力仕事要員(笑)
 ずっと昔には木製の門柱があったらしいのですが、僕の記憶にはありませんから三十年くらい前かも。どうやら入り口脇にあるポストの台になっているのがそれらしいです。ぼろぼろになってしまってほとんど原型をとどめていません。
 実家はかなり古い家なのですが、増改築を繰り返しているので新しい部分だけ壁が真っ白で他ははがれかけの茶色だったりとすごい事になっています。
 間取りなんかもいろいろと不思議があって、いかにも素人設計という気はしますが、住み慣れてしまうと味があっていいのかなとも思います。
 なかなか図面を引いて物を作るってことは少ないですが、これから先はまた、パソコン上で簡単に設計図を引いて思い通りの家を建てたりできるようになるかも知れませんね。

11月06日

 書感です。

「月下の棋士 30巻 独立」
 作者:能條純一
 定価:505円
 出版:小学館ビッグコミックス
 初版:2000年12月1日
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 A級順位戦は氷室将介、佐伯宗光が共に2敗でプレーオフへと突入。名人、滝川への挑戦権をかけた勝負で、氷室将介は「千年縛り」を宣言。天才棋士、佐伯を千年間、つまりは永久に縛り付けるという将介の将棋とは……?
 氷室と佐伯の対決、決着へ。

 佐伯宗光は登場時、中学生か高校生。パソコンとテレビゲームが好きで、将棋もその延長も過ぎません。彼が対局中に見るのは盤だけ。ゲーム相手は誰でも良いのです。
 しかし、そんな佐伯をもっと深い将棋の道に引きずり込んだのは他でもない氷室将介。将介の将棋に、パソコン上では得られない何かを見いだした佐伯はさらなる成長を見せます。
 最初から将棋界の頂点に挑戦するだけの実力を備えていた氷室には成長という要素がほとんどありません。佐伯はライバルでありながら、ある意味では氷室の弟子とも言えます。氷室の研究を通し、佐伯は新しい将棋を身に付けていきますが、彼が学ぼうとするのはあくまで氷室の弱点。
 氷室の将棋に魅入られたからこそ、氷室の将棋を叩きつぶそうとする彼は氷室の強さを、そしてその根底にある生き方と将棋への愛を見ようとはしていませんでした。
 滝沢にのみ眼をむけていた氷室にしてみれば、いつも氷室につきまとう佐伯は鬱陶しい。それでいて意識せずにはいられない存在でした。今回、氷室は初めて佐伯の実力を認めています。遊び半分でA級棋士まで上がってきた強さは本物なのでしょう。だからこそ、氷室には佐伯が許せないのです。
 命さえもかけて、棋士たちは将棋を指しています。しかし、ゲーム感覚で将棋を指す佐伯は同じ舞台に立っていない。将棋に負けても失うものがない佐伯は、負ける事の苦痛も感じないのです。
 彼を同じ舞台に引っ張り出すためには、棋士としてだけではなく人間としての佐伯を変えなければなりません。氷室は初めて、佐伯のための将棋を指すのです。
 勝つことと負かすことの違い、戦う事とゲームをすることの違い。多くの棋士たちを呼び込んだ、氷室将介の宇宙に、佐伯はやってこられるのでしょうか?
 長く続いた月下の棋士ですが、ここまでに中だるみもせずよく続いていると思います。奨励会から始まって名人挑戦までの道のりは長かったです。最後の勝負までおそらくあと数巻、この勢いで続けて欲しいですね。

11月07日

 書感です。

「サンドランド」
 作者:鳥山明
 出版:集英社ジャンプコミックス
 定価:390円
 初版:2000年11月7日

 鳥山明というのはすでに懐かしい響きを持った漫画家かも知れません。彼の作品と言えば「ドクタースランプ アラレちゃん」と「ドラゴンボール」ですよね。
 さて、他に何か思いつくでしょうか?
 そう、鳥山明って作品数が少ないんですよね。ドラゴンクエストシリーズのキャラクターデザインなども手がけてはいますが、長編漫画などは他に知らないです。
 ドラゴンボールを終えてから数年。あとは好きな漫画だけを描くと宣言し、アシスタントなしでMacを使い、漫画を描いているとか。
 僕はこのドラゴンボール以降の作品が好きなんです。
 正確に言えば、格闘漫画になる前のドラゴンボールも好きなんですけどね。
 鳥山明はおそらく、圧倒的に強い主人公が大活躍する漫画が好きなんでしょう。ドラゴンボールも前半は主人公の悟空が強くて敵はないという状態でした。しかし、その設定って長編になると辛いですよね。修行して強くなっていく漫画が全盛だということもあったのでしょうが、ドラゴンボールも最初の面白さとはまた別の世界に突入していってます。
 これまでの「COWA!」「カジカ」そして「サンドランド」
 どれもギャグを交えながら展開する冒険もので、最後には主人公がすごい強さを発揮し、活躍します。パターンはどれも同じなのですが、コマの隅々、台詞の端々にまでしみ通る鳥山風味がいいのです。
「サンドランド」は戦争で世界が砂漠になってしまった世界。
 元保安官の老人が、幻の水源を求めて旅をするために魔物の助けを求めるという話。
 少年が大冒険というドラゴンボールとは少し違う、渋めのストーリー展開が味わえます。
 そして、鳥山明といえば独特の世界観を持った絵でしょう。
 曲線を主としたメカたち、一目で鳥山明とわかる人物や動物たち。ユーモラスでいて立体的な存在感に満ちた彼らは本当に生き生きとしています。
 シンプルな線でこれだけ複雑な立体物をあっさり描いてしまう鳥山明のデッサン力は凄まじいですね。僕は彼こそ日本一絵のうまい漫画家だと思っています。
 コミック1冊で完結するのは中編と言うところでしょうか。
 年に1冊は、鳥山ワールドを楽しみたいです、これからも。

11月08日

 書感です。

「むかし僕が死んだ家」
 著者:東野圭吾
 出版:講談社文庫
 定価:505円
 初版:1997年5月15日
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 この本はミステリとして分類されていますが、探偵は出てきません。登場人物はたった二人。30を過ぎていると思われる男性が一人。そしてかつてその恋人だった女性が一人。
 舞台なんかでは二人劇ってありますよね。
 そういうので観客を飽きさせないのは難しいです。俳優も脚本も優れていないと成り立ちません。
 小説って設定するのは作者の自由です。あえて登場人物を二人にすることで、より深く人物を描き出そうとしたのが本書なのでしょう。
 かつて恋人だった沙也加には、小学校以前の記憶がなかった。結婚し、子供もいる彼女は記憶を取り戻すために主人公を頼る。戸惑いながらも長野の山奥に向かった二人は、たどりついた屋敷で様々な過去に出会う……。
 ミステリというのは、どこにでも転がっているものなのかも知れません。問題は、それを疑問に思い、解明しようとすること。過去を振り返るというのは後ろ向きに思えるかも知れませんが、現在というのは過去の積み重ね。それがないと言うのは、土台のしっかりしてない家に住むのと同じ事ですね。
 過去を知ることで現在が変わるかも知れない。そういう希望が沙也加を突き動かします。
 人が過去を振り返るのは、現在が不満な時でしょう。
 しかし、そこで見る過去の自分は、本当に今の自分の前身なのでしょうか?
 もしかしたら、人間は何度も生まれ変わっているのかも知れないですね、過去を捨てて。
 東野圭吾という人は、実に様々なものを書く人です。
 最初に読んだ作品は「魔球」という高校野球を題材にしたミステリでしたが、様々な社会背景を下敷きにした味わいの深いものでした。
 今回も過去探しという謎解きの間に、青春時代を共に過ごした二人の積み重ねた年月を丹念に描写し、重みのある作品に仕上がっています。
「虹を操る少年」などは少しはずれという感もありましたが、だからこそ多くの物を見せてくれるような気もしますね。

11月09日

 書感です。

「過ぎ行く風はみどり色」
 著者:倉知淳
 出版:創元クライムクラブ
 定価:1800円
 初版:1995年6月30日
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 倉知淳の猫丸シリーズ長編。30を過ぎて定職にもつかずいろんな事に首を突っ込んでは引っかき回す謎の人物、猫丸先輩を中心に倉知淳独特の世界が展開します。

 主人公、成一が10年ぶりに実家に帰ると、歳をとった祖父は降霊術にかぶれ、胡散臭い老人が家に出入りしていた。老人を嫌う成一の母が呼んだ超能力研究者の立ち会いの元、降霊会が行われようとしたその日、成一の祖父が殺された。
 誰もが不可能な犯罪を起こしたのは、霊なのか……?

 倉知淳という人の作品にはどうも中途半端な印象を受けてしまいます。面白おかしく書こうとしているのは間違いないのに内容は実に重いです。猫丸先輩はユーモラスなキャラクターなのですが、どうも偽悪家っぽさが鼻につく。
 猫丸本人の口の悪さってなかなかすごいです。
 探偵ものなんかでよくあるキャラクターは物怖じせずに話すため口が悪いと思われるのですが、猫丸は本当に口が悪い。
 と、言うよりは意味もなく人の悪口ばかりのべつまくなしに喋っているという感じですね。
 この小説の登場人物たちは、悪意というものに対して非常に敏感です。過敏と言ってもいいのかも知れません。殊に猫丸は世の中の善意というものを信用していないかのように、相手の心理の裏を読もうとします。
 確かに、100%の善意というものはあり得ないかも知れません。みんな自分の事は大切で、打算があったりするものです。そういう自分を自己嫌悪するという心の働きでさえ、自分のためにするという考え方もありますね。
 そういうものばかり、本気で描写してしまったらとても読めないものになってしまうから、作者はなんとか文体を軽くしてごまかしているのでしょうか?
 なんとなく、猫丸という人物に作者がかぶったりします。
 それでいながら、どこかに救いを残すのがこの作者の定番。
 軽いようでいて、実はとても残酷で、それなのに読み終えた後の印象は割と爽やかなのです。
 これまで読んだ猫丸シリーズは短編ばかりで、これは初めての長編でした。言ってしまえば短編とあまり変わらないのですがそのぶん、家族関係や心理描写に多くの部分を割いています。猫丸はおまけ程度なのかも知れません。
 結局のところ、世の中には善意も悪意もなく、感じる方が勝手に感じるものなのだな、と思わせる話でした。

11月10日

 書感です。

「とり残されて」
 著者:宮部みゆき
 出版:文春文庫
 定価:480円
 初版:1995年12月10日
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 本当に読むたびに思います。宮部みゆきの心理描写はとても深いです。人間の持つ疑心暗鬼をこれほどうまく書く人は他にいないかも知れません。この「取り残されて」は短編集。収録された7編はいずれも不思議な話ばかりで、ホラーに近いものがあるかも知れません。
 人間は温かい気持ちばかりで生きているわけではありませんよね。怒りや憎しみなど、深いものは疎まれるが故にいつも心の奥底にしまわれていて、垣間見る事は滅多にありません。
 しかし、小説ではそれが細かに描写されていくわけです。それらを小説の人物の心理として自分とはまったく別に考えることはなかなか難しい。宮部みゆきの小説を読むとき、読者は自分の心を向かい合わないわけにいきません。
 作中の人物のような思いを、自分も抱いている……。
 そんな風に生じた焦りはそのうち、誰もがそれを抱いて生きているのではないかという疑問に変わります。
 宮部みゆきはこういう小説で、ごく普通の日常のようなものを書きません。それは、日常の中にそういう心理を織り込んだ小説を書いてしまうとあまりに救いがないからではないでしょうか?
 短編はみな、何かがきっかけで始まった異常な状態を描いています。そう、心に抱いた暗闇は日常の中で発露してはいけないのですね。どこかに少しずつ、発散しているのです。
 しかしまた、そういった感情が人間には必要なのではないかという気もします。前向きな、明るい気持ちだけ持った人間はおそらくどこにもいない。そんな部分だけだったらバランスがとれなくなってしまいます。
 誰もがそういった部分を抱えていて、みんなそれぞれの方法でそれを隠したり発散させたり、消化してしまったりするんですね。そのエネルギーは凄まじいもので、発散しきれないときにそれが日常を非日常に変えてしまうのです。
 そして、そういった負の感情が人間を生かしていることもあります。何編かの主人公は執念とでも言うべき感情によって自分を前向きに持っていくという物語の結末を迎えています。
 割り切ることのできない人間の感情、それを描き出すことに長けた宮部みゆきの小説はいつも、心をゆさぶってくれるのです。

11月11日

 アルバイト先の会社はちょっと建物が変わっています。
 神奈川県にあるのですが周囲が山がちで起伏が激しく、建物の3、4階が道路に面していてそこが正面玄関だったりするんですね。それ自体はそう珍しくないと思うのですが、会社の正面には上から流れ落ちる水の中に鯉の滝昇りを描いたタイルがあったり、本社建物の長い廊下には夜になると光る星がちりばめてあったりという感じです。
 昔、アメリカのユニバーサルスタジオの特集をテレビで見たときには驚きましたが、日本にもこんな建物あるんですね。
 僕は分社の建物の方でアルバイトしているて、そっちは会社正面に池があり、鯉が十数匹飼われています。よく、近所の小学生や子供連れの主婦の方などが鯉を見ているのですが、会社の正面玄関を出ると人がたむろしているので妙な気もします。
 本社の方はともかく、僕がいる方は中に入ってしまえば普通のオフィスなんですけどね。
 建物と言えば、通っている大学は常に何かの工事をしていて毎年新しい建物が増えていきます。
 旧校舎の間に新しく出来た真っ白な建物が並ぶのはどうも見映えが良くないのですが、暗くて汚れたところで授業を受けるよりはずっといい気分。
 今年も新しく一棟か二棟が建っているのですが、大学メインストリートにある最新の建物と一昨年建ったものがうり二つで時々自分がどの辺りを歩いているんだかわからなくなるのが難点です。
 僕は変わった建造物なんかが好きで、安藤忠夫の建築展を見に行ったりもしていますが、だいたい美しくまとまった建物というのは非常に合理的に出来ているものですよね。
 前にも書いたかもしれませんが、僕の実家は祖父が設計したものなので、どうにもおかしな構造をしている箇所が多いです。実家の一階は玄関を入ると真っ正面に階段があり、そこを取り囲むように部屋が出来ています。普通は一本廊下を走らせてその両側に部屋を作りますよね。出入りには便利だったりしますが、あんまりふすまや扉が多い部屋って落ち着かないです。その点は日本家屋らしいという解釈もあるのですが、風通しはあまりよくないんですよ、これが。
 一度は建物の設計ってやってみたいものです、建物の中の広い空間っていうのには特にあこがれます。
 密閉しておいて中に広い空間を作るということに多少疑問を感じないでもないですが、乗り物でも建物でも、巨大なものにはなにがしかのロマンを感じます。
 最近は3D空間をシミュレートする技術が発達しているのでパソコンの画面上でそういうのを気軽に楽しめるかも知れませんね。

11月12日

 僕はけっこう本を読む方ですが、実を言うとそんなに熱心に読書時間を作っているわけではなく、本を読むしかすることがないようなときだけ読んでいます。
 だから電車での通学、通勤や何かの待ち時間などがほとんどですね。そういった時間を全て合わせて、読書時間はだいたい1日2時間です。
 だからと言って本を読まない期間が長くなると寂しくなるのは贅沢でしょうか。
 あまりぼ〜っとするのが得意ではないので、休日など暇なときでもなにかしらしています。家で読書をするのは風邪を引いて寝込んでいるこらいです。
 家にはパソコンがあるので、何かやろうと思ったら選択肢は際限なくあります。特にネットにつないでからはさらに広がっていますね。ネットで調べ物をしたり、サイトをリニューアルしてみたりということです。
 僕は前々から計画を立ててサイトを構築しているわけではないので大幅に変わったときでも暇だからやったということが多いです。暇で始めた事でも熱中するとそのまま徹夜してしまうことは多かったりします。
 家にいるときって純粋に暇と言うよりは、やろうとするとできるとが多すぎて逆に手につかないというところです。だから家にいるときってなかなか落ち着きません。
 だからと言って外に出ると落ち着くというわけではないですけどね。
 たまに思うのは、多趣味と無趣味っていうのは紙一重だと言うことです。僕は趣味と聞かれるとけっこう困ります。とりあえず読書と言うことにしていますが、そんなに積極的に読書をしているかと言えばそうでもない。音楽を聴いたり文章を書いたり、絵を描いたりサイトを作ったりするのと同じレベル。
 ネットが趣味という言い方もあるかも知れませんが、それって辞書を引くのが趣味とか、電話をするのが趣味とか、友達と遊ぶのが趣味というのと同じでどうもしっくりきません。
 ネットはあくまで手段ということですね。
 そういう意味では、読書も手段かも知れませんね。
 趣味の楽しみ方っていろいろあります。
 その趣味に深いこだわりをもっていて、良質の楽しみを追求する人は、あまりレベルの高くないものを楽しめなかったりします。しかしそれって味方を変えれば、間口を狭めているという事にもなりますよね。しかし、人によっては下手な部分も含めて音楽を楽しめるというケースだってあるわけです。
 僕の場合は、広く、浅くというのが基本となっています。
 趣味が広いのか、ないのかは自分でも謎です。

11月13日

 前にプレイステーション2を買ったという話は書きましたが、未だ「プレステ2ならでは」っていうゲームがなかなかありません。前に紹介した「真・三國無双」くらいでしょうか?
 ハードの性能が高くなったからと言って、ゲームが面白くなるとは限らないわけですね。ゲームというのはそもそもルールを作って遊ぶものだから、制約があった方が面白いという可能性もあります。
 最近のゲームは画像処理に力を入れているものの、見慣れてしまえば普通の事になってしまいます。しかし、ゲームっていうのは基本的にやれば楽しいものでなくてはいけないと思いますね。例えば麻雀やトランプなどは飽きられることなく遊ばれていますよね。
 もっとも、これは人間が相手だからかも知れません。
 人間が相手の場合、一定のやり方をすれば勝てるとは限らないわけですからね。しかし、パソコンや家庭用のゲームはクリアするためのパターンを見つけだすまでが遊びです。
 これからゲームがもっと発展していくとすれば、それは膨大な計算能力によって、無限に近いパターンを作り出し、プレイヤーにそのときそのときでしっかり判断を下さなければならないようなものになっていくでしょう。
 下手をするとゲームが複雑になってしまう、ルールという枠の中に当てはめて遊ぶという事と矛盾しますから難しいところですね。
 最近やったゲームの中にナムコのリッジレーサーVがあります。これは定番のレースゲーム、リッジレーサーの最新作なのですが言ってしまえばこれまでのものと変わりません。
 レースを走る車がこれまでの数台から14台に増えたというくらいでしょうか。しかし、ゲーム画面は想像を絶するくらいきれいなので、その景色を見ながらコースを走るという新しい楽しみはあります。数種類のコースはすべて架空の一つの街の中に作られており、ゲームの中に街そのものを作ってしまったというのが売りです。
 リッジレーサーシリーズは安定して楽しめるので特に不満ではないのですが、斬新な驚きなどを求めると少し寂しいです。
  どうせ街があるなら、レースだけでなくもっといろんなアイディアを盛り込めなかっただろうか、と思います。
 画面の綺麗さを主眼に置いてしまうとどうしてもデザイナーなどの人件費がかさむし、作業期間も長くなるんでなかなか他の事にまで手がまわらないのかも知れませんが。
 パソコンゲームなどでは最近、ネットゲームがはやっていますよね。有名なウルティマ・オンラインなどはゲーム世界でもう一人の自分が生活しているようなものです。街に存在する人なども他のプレイヤーなのですから、これはゲームとしての原点に戻っているという見方もありますね。
 最近は忙しいのであんまり面白いゲームを出されても困るかも知れませんが、それでもこれからのものに対する期待って大きいです。思いもかけないような傑作が出てこないものでしょうか?

11月14日

 書感です。

「ご近所冒険隊」
 著者:須藤真澄
 出版:竹書房
 定価:667円
 初版:1997年7月27日
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 さて、最近相次いで紹介した須藤真澄です。これまでのものは「ゆず」や「ゆずとまま」などのネコを題材としたものでしたが、今度の主人公は幼稚園児。
 
 内弁慶で外に出ると友達が出来ない幼稚園児のまなは、あるとき不思議な回覧板を見つけます。白紙の回覧板には次々を絵が浮き上がり、それに導かれるようにまなはご近所を探検してまわるのです。そこで見つけた仲間達と過ごすご近所冒険の日々を描いた日常ファンタジー。

 須藤真澄ってけっこう器用な漫画家かも知れません。この作品と「ゆず」そして「どんぐりくん」ではずいぶんと絵柄が違うんです。「ゆずとまま」などは同時期の作品なので、描き分けているんでしょう。実はこの作品、スーパーファミコンのRPGとタイアップで発表されたものらしいです。スーパーファミコン「ご近所物語」は同じく須藤真澄のキャラクターデザインで、聞いたことがあるようなないような……というところ。「ゆず」などのほのぼのしていた雰囲気が好きな人にはちょっとどたばたが多いかも知れませんが、そこは幼稚園児達が持つパワーなのでしょうか。ご近所の冒険と言うのはやはりネコと一緒に散歩したりする作者ならではという気がします。
 住んでいるところって、必要なところしか行かなかったりしますよね。僕も駅と家の往復くらいしかしないです。
 小学校のときは友達と塀の上を歩いたり、空き地で遊んだり裏道を見つけたりといろいろやったのを思い出します。
 例えこの漫画のようなファンタジーがなくても、いろんな家があってお店があって、いろんな人がいる限りそこには何かがあるのでしょう。
 こういうものを読むと、ただぶらぶらと近所を歩いてみたくなりますん。平日だと夜の散歩になってしまいますが、晴れた平日の午後なんかの方が面白そう。
 子供じゃなくても新しい発見ってあるんじゃないかと思います。

11月15日

 書感です。

「じーばーそだち」
 作者:須藤真澄
 出版:秋田書店
 定価:762円
 初版:1997年5月10日
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 さて、最近いろいろと須藤作品を読んでいますが、これが一番ツボにはまりました。

「納豆の後のお茶が
 一番おいしいと語る
 りるちゃん8歳
 じーばー育ち」

 4コマ漫画の最初の回は、この言葉で終わります。
 両親が朝夜遅い共働きのりるちゃんの家をしつけたのは寿司屋で江戸っ子のおじいさんと旅好きのおばあさん。
 下町に育ち、なんでも「きちっ」とこなすのがりるちゃんには当たり前。御飯は一粒残さず食べるし、通信簿をもらったらまずお仏壇に持っていきます。
 生活習慣だけでなく、趣味までなんとなく年寄りくさくなっているりるちゃんですが、それを見つめるおじいさんも誇らしげでなんともおかしいです。
 さくらももこの「ちびまるこちゃん」もおじいさん、おばあさんと同居でしたが、主人公のまるこは慕っていながらもどこか距離があると言うか、自分とは異質の存在という意識でいます。しかし、りるちゃんの場合は小さい頃からそばにいるのはいつもおじいさん、おばあさん。だからおじいさんのすることはみんな真似するし、自分が他の子と違うということにも気づいていないんですね。さらに、明るく人気者のりるちゃんは周囲の人気者。だからいつの間にか周囲を自分のペースに巻き込んでしまっています。小学校の大掃除ではみんなで出涸らしのお茶っ葉を使ったり、新聞紙で窓を拭いたりするのです。
 他にも、熱が出たらユキノシタを煎じて飲むとか、虫歯にはビワの葉を噛むといいとか、おばあちゃんの知恵袋という感じですね。
 そういえば、そういう知識って耳にすることはあっても試してみたことってないです。風邪を引いたらネギを首に巻くといいとか、いろいろありますよね?
 実際、身近にやっている人間がいたら真似してチャレンジしてみたのかも知れませんが、今になってみるともう出来ないなて思ってしまいます。
 古い習慣などにはたいてい、何かの意味があるのでしょう。
 ついついそういうものを否定してしまったり、相手にしなかったりするのは逆に頭が固い証拠なのかも知れませんね。
 じーばー育ちのりるちゃんだけでなく、出てくるおじいさんとおばあさん、そして田舎に住んでいる「むこっかたの」マイペースなおじいさんおばあさん、みんな魅力的なキャラクターです。ちびまるこちゃんに出てくる友蔵さんなどもそうですが、祖父母というものは誰にとってもずっと愛すべきキャラクターなのでしょう。
 なんだかおじいさん、おばあさんを大切に思えるような作品でした。


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