11月16日
「ゲームの街で」回で「思いもかけない傑作が出ないものか」ということを書きましたが、見つけました。
「高機動幻想ガンパレード・マーチ」
機種:プレイステーション
定価:5800円
販売:SCEI
西暦1945年、太平洋戦争のまっただ中に、地球人類は目的不明、正体不明の生物群から侵略を受ける。人類同士の戦争には終止符が打たれ、世界は謎の生命体との長い戦争に突入する。
そして1999年。ユーラシア大陸は日本を残して全滅。人類はアフリカ、アメリカ大陸南端、日本にわずかに残されただけとなった。
九州から上陸した敵部隊により日本軍は記録的な惨敗。
ついには少年兵までも招集されるに至る。
主人公もその中の一人であった。
パラレルワールドの1999年を部隊に繰り広げられる学園ドラマとハードな戦争の物語。一見すればロボットものに分類されるかも知れませんが、この作品ではロボットも要素の一つに過ぎません。プレイヤーは主人公となって学校での生活を送ります。ゲームに背景設定はあるものの、決められたストーリーはありません。登場人物の一人一人が主人公の行動に反応を返し、出てくるキャラクターどうしでも喧嘩したり仲良くなったりといろいろな事が起こります。学校で勉強し、部隊の仕事をこなし、日曜日にはのんびりすごしたり訓練したり。プレイヤーはその中で自由に生活を送る事ができるのです。
主人公は当然のようにパイロットとなっていますが、もしシミュレーションが下手で先へ進めないならば整備員になってバックアップをすることもできます。友達や上官としてパイロットを励ましたり叱咤激励して訓練させ、自分はロボットを整備してパイロットを活躍させることも可能です。
パイロットも戦場で活躍するだけでなく、日頃からロボットの調整をし、十分な活躍が出来るように努めます。自分が活躍できない事で、戦場では仲間が死ぬかも知れないわけです。それは整備士を始めとしてあらゆるメンバーに言えるかも知れません。事務官は部隊に必要な物資を請求し、衛生官は生活環境を整える。
ただ自分の仕事をこなすだけではなく、周囲に働きかけることによって自分や部隊全体の環境を良くすることもできるわけです。
このゲームには「発言力」というパラメータがあってそれが最も重要な役割を持っています。仕事をしたり、活躍したりするとこれがたまっていってより効果的な発言ができるようになるのです。出てくるキャラクターも自分より階級が低かったり仲が悪かったりする相手の言うことは聞きません。仲には気に入ったキャラクターや嫌いなキャラクターもいるでしょう。こちらの好き嫌いというものを相手に伝えることも出来ます。
主人公は、ごく普通の少年です。特に肉体能力が強いわけでもなく、人より秀でたものがあるわけではありません。
しかし、上記のようにいろいろな人々に働きかけて部隊を活性化させ、小隊を勝利に導くことはできます。それを繰り返していくことによって、小隊だけではなく九州、そして人類全体の状況を変えてしまうことすらあり得ます。ただし、それはゲームの一つの遊び方であり、目的ではありません。
このゲームはシミュレーション戦闘の部分もかなり良くできています。うまく敵の射角をかいくぐって動く、適切な敵のみを倒していくという緊張感があり、能力値や乗っているロボットの性能だけでは戦闘は決まらないと実感できますね。
歩きから走り、障害物をジャンプで飛び越えて着地と同時に剣で攻撃、すぐに振り向いて射撃をし、ジャンプで敵の射角の外に出る、といった戦い方が出来るのです。
いろいろと大ざっぱな部分もありますが、何より「好きに遊べる」というのがこのゲーム最大の魅力。
当初はそんなに有名ではなかったのですが、じわじわと口コミで売れているようです。一部では手に入らない事もあったとかで驚きました。
まだクリアはしていないのですが、何度も遊べそうな漢字ですね。ゲーム内日時に合わせて3ヶ月くらいかけて遊ぶのもいいかも知れません。
11月17日
書感です。
「氷舞 ー新宿鮫VIー」
著者:大沢在昌
出版:光文社ノベルズ
定価:848円
初版:1997年10月25日
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さて、おなじみの新宿鮫、第六弾です。
鮫島を通じて刑事、ひいては警察組織のあり方を描いてきたこのシリーズ。今回は警察内部での暗闘に鮫島が巻き込まれていきます。
新宿で殺された米国人は、元CIAのメンバーだった。クレジットカード偽造団との関連を嗅ぎつけ駆けつけた鮫島は、公安警察に現場を封鎖されてしまう。殺人事件の動機に隠された政界の秘密に、鮫島が迫る……。
今回の「氷舞」ほど鮫島の強さと弱さのコントラストがはっきり見えたことはありません。警察という巨大権力機構の中でただ一人、持っているはずのキャリアの力を使わずに刑事として犯罪を追い続ける鮫島。「新宿鮫」の牙は、獲物の大きさを選ばない。どんなに大きな相手も噛みついて離さなければいつかは倒れるのです。
一方、私人としての鮫島はロック歌手の恋人、晶との距離を感じています。晶の才能を愛する彼は、自分が歌手として成長していく晶の枷になっているのではないかと葛藤。事件の中で出会った女性に惹かれていくとともに罪悪感に悩まされるのです。
鮫島の魅力は人間としての弱さを存分に持っている事です。
テレビの刑事のように犯人を力ずくで逮捕したり銃撃戦を繰り広げた事はありません。銃を抜くときは自分に死の危険が迫ったときだけ。一対一で丸腰の犯人と向かい合っても殴り合って勝てるとは限りません。
恐怖を知らないから強いのではなく、恐怖に立ち向かえるから強いんですね。その鮫島が恐れるのは恋人の晶を失うこと、そして警察官をやめさせられることだけです。
さて、ここ数巻では毎回、鮫島の協力者となる人間が魅力的に書かれています。なんと今回登場したは鮫島の同期で公安警察所属の香田。第一弾の「新宿鮫」で鮫島と敵対し「必ずお前をつぶしてやる」と叫んだ香田ですが、彼には彼の正義があり信じる組織のために働く様が描かれます。
鮫島と香田は決して友人ではありません。一方は組織権力に噛みついた人間。他方は組織権力を握ろうと登っていく人間なのです。それでも二人の出発点は同じ、そして信じるものがあることも同じなのです。ただ、立場が違うというだけの事に過ぎません。鮫島が歩むはずだった道を、香田は歩んでいます。
今回、公安警察という組織がクローズアップされ、警察内部の暗闘が起こりますが、そこに絶対的な悪はないのです。
それぞれがそれぞれの力を使い、それぞれの手段で戦っています。新宿鮫は決して警察の腐敗を描く小説ではないのです。
これまで悪役という感の強かった香田ですが、今回は一気にイメージが好転。決して協力的ではないものの、信じるものが重なりあった一瞬、彼らの間には信用が成り立ちます。
孤独な道を歩む新宿鮫こと鮫島。
しかし、その軌跡は様々な人間との接点を持っているのです。
11月18日
アルバイト先で友達と話していて、ふと童謡「森のくまさん」の話になりました。
あの歌詞って謎だと思いませんか?
「お嬢さんお逃げなさい」と言っておいて、くまさんは「ところがくまさんは後からついてくる」んですね。
小さいころってあまり気にしませんでしたが、よく考えてみれば妙です。最初、友達が「お嬢さんお逃げなさい」と言っているのは熊じゃなくて別の誰か、だと言ったので一瞬納得したのですが「お嬢さん〜」は「「くまさんの言うことにゃ」の後に続くのでこれは違います。
結局のところ「くまさん」は肉食なので「お嬢さん」を食べたかったがかわいらしかったので食べられなかった、しかし食欲に負けてしまいそうだったので「お逃げなさい」と警告しているのだろうとは思います。
しかし、結局のところ「くまさん」は「スタコラサッサ」と逃げるお嬢さんの「後からついてくる」わけですね。
で、この歌は「白い貝殻の小さなイヤリング」を届けてくれた「くまさん」と「お嬢さん」が踊るところで終わります。
「お嬢さん」の「あらくまさん、ありがとう」という台詞からはまったく緊張感が感じられず、くまさんの警告を理解していないという事がよくわかりますね(笑)
この童謡は「花咲く森の道 くまさんに出会った」という1番の歌詞などにもあるようにたいへんメルヘンチックなので細かいところを気にしたりしてはいけないのかも知れませんが、元々どういう意図があってこの歌詞を書いたのかというのは気になります。
「森のくまさん」は元々ポーランド民謡です。すっかり日本語の訳詞に慣れてしまっているので原文というのはあまり想像できないのですが、もしかしたらポーランド語では十分に納得できるのかも知れません。また、ポーランド文化ではごく自然に思える内容なのだという考え方もありますね。
「森のくまさん」は曲調なども楽しげで、歌いやすく親しまれている歌ですが、本当に不思議な歌ですね。
11月19日
Jリーグの楽しみは、やはり地元チームを応援することにあるでしょう。浦和レッズの本拠地は埼玉県浦和市にある駒場陸上競技場。自転車でも行ける距離です。
レッズを応援し続けたのははり「地元だから」という他はないですね。日本リーグ時代は超攻撃的なチームで日本リーグ、ナビシコカップ、天皇杯の三冠を成し遂げたことがあるもののJリーグが始まってみると外国人選手の増強に失敗し連敗に継ぐ連敗。一時はJリーグのお荷物とまで言われました。
それでも元ドイツ代表ブッフバルトの加入と共に守備を固めてチームは徐々に浮上。やがてはJリーグ第3位に入るまでになりました。チームが弱くなればファンが離れていくのは当然の事です。しかし、レッズファンは負けても負けてもレッズを応援し続けたんですね。僕も本来なら、強いチームが好きです。面白い試合を見せてくれないなら見ないと思っていたはずです。しかし今では他チームの面白い試合を見たいんじゃなくて、レッズに面白い試合をして欲しいと思っています。
さて、その浦和レッズに再びやってきた冬の時代。
昨年の最終節では残留のかかった試合で延長戦に突入。Vゴール勝ちしたものの、ジェフ市原との勝ち点差で残留はならずJ2リーグに降格しました。その時期のレッズは攻勢にありながら何故か試合では負けるという雰囲気だったので、下位リーグならば全勝も夢ではない……と思っていたのですが始まってみるとまた取りこぼしが多いんです。コンサドーレ札幌が順調に勝ち点を伸ばし、昇格を決めた中、レッズは大分トリニータと二位の座を争う事になりました。勝ち点差は2点。浦和レッズは勝てば間違いなく昇格。レッズが負けてトリニータが勝てばトリニータの昇格。レッズが引き分けでトリニータが延長に行かずに勝てばトリニータの昇格となっていました。
キックオフは本日(19日)の13時、相手は大分と同じ九州勢のサガン鳥栖です。試合開始早々、レッズの猛攻が始まるのですがなかなか決まらない。しかも段々とサガンの支配率が高くなり、嫌なムードに。前半は両者無得点のまま終了し、後半が始まったと思ったらわずか50秒で後半出場の福永と相手ディフェンダーがもつれ、こぼれたボールをフォワードのアズエルが持ち込んで先制。一気にレッズのペースに……と思ったのですがそのわずか数分後、相手のクロスボールをディフェンダーがクリアミス。キーパーはボールにさわれず、そのまま押し込まれてしまいます。さらに、レッズは退場者を出しておまけにペナルティキックを与え、大ピンチ。決められたらほとんど望みはないと思われたのですが、鳥栖のPKはポストに当たり、助かりました。
それでも試合は苦しいまま延長に突入。その時間に大分トリニータは大宮アルディージャを下していたので、レッズは勝たなければ昇格できません。延長戦ではフォワードに俊足の岡野を投入。日本代表として98年フランスワールドカップへのゴールを決めた彼に誰もが期待します。開始と同時に小野、岡野がゴールに迫ってレッズは攻勢ムード。そしてついに、フリーキックのこぼれ玉を途中交代の土橋がミドルシュートで押し込み、念願のJ1リーグ昇格を果たしました。
思えば長年レッズを見てきましたが、これだけ嬉しい試合は始めてです。昇格後、J1レベルの試合についていけるのかなど様々な不安はありますが、まずは一安心。
浦和レッズは主要選手の放出などもなく、昔からのメンバーでやっているため、選手の成長ぶりなどが見て取れるのも醍醐味です。現在サイドバックの山田や決勝ゴールを決めた土橋などはデビュー戦も憶えています。
しばらく影の薄くなっていたJリーグですが、この各チームから日本代表の選手が出て、世界と戦って行くわけです。
そしてまた、彼らはここに帰ってきます。日本人選手が海外へ出ていく時代になりましたが、やはり土台はJリーグ。
これからも浦和レッズだけでなく、Jリーグそのものを応援し続けたいと思います。
11月20日
書感です。
「木星買います」
著者:アイザック・アシモフ
訳者:山高昭
出版:ハヤカワ文庫SF
定価:544円
初版:1985年1月31日
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アシモフと言えばクラーク、ハインラインと共に並び称される三大巨匠です。と言ってももう時代が変わってしまっているかも知れませんが僕の中では未だにそう。
SFというのは科学技術をベースに書かれる事が多いので古くなりやすいのですね。しかし、クラークの描く2001年には科学技術が少し進んでいるということを除いておかしなところはまるでないし、ハインラインの21世紀はまるっきりレトロ調なのに滑稽ではありません。結局のところ、巨匠と言われる彼らは根本的に優れた作家なのだということですね。
さて、実を言うとアシモフは初めてなんです。これまらずっとクラーク、ハインラインばかり読んでいたのですが「ファウンデーション」など大作が目につくアシモフは少し敬遠気味でした。しかし、たまたま自分のサイトの掲示板で話題になったのと図書館に短編集がおいてあったのとで挑戦。
結論から言えば、今まで読まなかったのはあまりにもったいなかったです。でも、これからの楽しみとして残しておくということで納得します。
収録は表題作である「木星買います」を含めた短編24編。
アシモフのロボット三原則は有名ですよね。あれがまず一番最初にあるせいか、アシモフ作品には固いイメージがあります。しかし、短編の間に挿入されたアシモフ自身の解説や作品のいくつかは非常にユーモラス。
中にはダジャレをいうために書かれた作品もあるくらいで、イメージなんてあてにならないもんだと思いました。
そういった中にもアシモフ自身の思想、例えば核兵器や環境破壊などについてなどを織り交ぜたり身近で起こったと思われるような出来事をSFとして仕立て直したりとなかなか多彩。
作者自らが作品について、しかもあとがきとしてではなく解説するという趣向も楽しいです。作家のキャラクターというのは本来の読書の楽しみに不要かも知れませんがそれが楽しめるならまったく別の話。
SFというのは元々、冗談に近い発想を説得力のある文章で綴ったようなものですから、ユーモア精神というのは必要なのかも知れませんね。エンターテイナーとして読者を楽しませるツボも心得ているようです。
解説の中には出版に当たっての苦労や収録された経緯なども書かれています。合衆国の出版事情はあまり知らないのですが、こちらよりも出版社が多く競争も激しいのでしょうか。
また、小さな雑誌も数多いようですね。アシモフといえども作品が受け入れられずに別な出版社に送ったりしているという記述がいくつもあります。
さて、この本は結局、アシモフ入門書としてはかなり良い洗濯だったようです。一気にアシモフファンになりました。
一緒にアシモフのミステリ「ABA殺人事件」も借りているの来週頭くらいには読むでしょう。
11月21日
書感です。
「からくりサーカス 15巻」
作者:藤田和日朗
出版:小学館コミックス
定価:390円
初版:2000年12月15日
マサルを主人公にしたサーカス編と鳴海が中心となるしろがね編、二つの物語を交互に進めているこの「からくりサーカス」第二部、今回はしろがね編です。前回、マサルと鳴海の旅の軌跡がわずかに交わったものの、記憶喪失の鳴海はマサルとしろがねを思い出せず、再び話は別方向へ向かいます。
行方不明の師匠を追って中国の山村へと向かう鳴海たち。
そこで待っていた師匠の持つ文献にはなんと、世界中に疫病を振りまく「真夜中のサーカス」の起源となる話が書かれていた。
師匠と自動人形という二つの目的が交わるのは偶然なのか?
様々な疑問と共に、これまで謎だった自動人形誕生の秘密が語られます。
何も出来なかったマサルが仲間達とサーカスで過ごし、成長していく一方、何事にも前向きだった鳴海は理不尽な怒りや悲しみに心を閉ざしかけています。ギイやルシールなどのしろがねたちが人間とは思えないほど冷たく、無感情なのも同じ理由なのか。それが彼らの口から語られる事はありません。
今思えば、莫大な遺産の相続人となった少年、マサルの命を狙う人形遣いの人間達と戦った第一部とはずいぶんと話が様変わりしました。今はまったく別な漫画と言ってもいいくらいですね。しかし、今の方がある意味、藤田和日朗っぽいような気がします。
絵柄だけ見ると勢いだけで描いているように見えるものの、代表作「うしおととら」では物語に伏線をちりばめ、一気に結末へと持っていく手法が見事でした。
今回もこれまでの様々な要素がつながっていくのでしょうが、未だにマサルと鳴海の接点が見えず。いや、読者ならば誰もが共通の予感を持っているかも知れませんがそう簡単に先が読めるような作品ではないと信じているのです。
西洋で作られたと思われていた自動人形達の創造主は意外にも中国人。鳴海の持つ「気」の力が人形達に有効なのはそれと関係があるのかも知れません。いつも先が読めそうでいて読めない藤田和日朗の物語作りには関心させられます。
「うしおととら」と比べるとどうしても求心力が劣るという感覚は拭えませんが、それでも面白い作品であることには変わりありません。これからも期待です。
11月22日
書感です。
「残照 -ブラディ・ドール7-」
著者:北方謙三
出版:角川文庫
定価:480円
初版:1992年12月10日
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ブラディ・ドールも第7弾となりました。秋霜、黒鍬と裏社会とは無縁の画家、医者と続いて来ましたが今度はごく普通のサラリーマンだった男が主人公。その名は下村牧。
最も、ここに出てくる人間はそれまでの生活と関係なく魂がハードボイルドなのです。画家の遠山も医者の桜井も、屈する事を知りませんでした。増して下村は空手の有段者でパリ滞在時代には用心棒もやっていた人間。無茶をするときには、尋常ではない無茶をします。
バー、ブラディ・ドールに集まる男たちは時に暴力を使う事もためらいません。しかし、それが強さだとは誰も思っていないのです。中心となるブラディ・ドールのオーナー、川中は瞳の奥に暗いものを持ちながらも陽気で楽しげに暮らしています。川中のかつての親友でライバルであるキドニーこと弁護士の宇野は人工透析を受ける病身でありながらも密かに野望を燃やし、頑固に生きています。こういった人間の周囲に集まって来る面々は皆、自分自身にすら説明できない思いを抱え、それを裏切る事なく生きているのです、
さて、ここに沖田という医師が登場します。
ブラディ・ドールのキャラクターたちは皆、何者にも屈指ないという共通点を持っていますが彼もそう。年老いた病身の医師には暴力も権力も、金すらもありません。しかし彼は自分の土地に病院を建てるという願いだけを胸に余生を生きています。そんな沖田に惹かれた人間が、彼の持つ診療所に集まっていくのです。下村の恋人は、何故か下村を捨てて東京を出、N市へやってくるのです。その理由が知りたくて、下村はそれまでのサラリーマン人生を捨ててしまいます。
大切なもののためには全てを捨ててしまう男たち。
しかし、何が大切なのか、そして何故大切なのかは読者にもなかなか理解できないうのです。
たとえそれがわからなくても、相手の大切にしているものを認めあえるのがブラディ・ドールの男たち。
前作の書感で、ブラディ・ドールはターニングポイントを迎えると書きましたが、この巻ではいよいよ新展開への予感がしています。一匹狼たちは何人集まっても集団にはなりません。
しかし、彼らが同じ目的に向かって走り始めたときは命がけ。それを止める人間はやはり命をかけなければなりません。
次作以降、下村がどんな働きをするのか期待は大きいです。
11月23日
書感です。
「電気ブラン」
作者:須藤真澄
出版:竹書房
定価:980円
初版:1996年4月18日
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須藤真澄の初期短編集です。
まず、この本ってタイトルが気になっていました。
浅草の雷門に友達を案内して行く機会が今までに何度もあったのですが、近くの「神谷バー」という趣のある古いレストランには「電気ブラン」というカクテルがあるのです。
実際そこに入ったことはないのでどんなカクテルかはまったく不明。でも、食べ物に「電気」っていう言葉がついているのはなんとも不思議です。
この本の目次のところに小さく「DENKI BRANDY」と書いてあったのでブランはブランディの事なのだとわかりはしましたがやっぱり謎。
ネットで検索すればすぐに見つかるかも知れませんが、実際浅草で電気ブランを注文するまで知る楽しみはとっておきたいものです。
前置きが長くなりましたが、この本もタイトルのようにとても不思議な物語がつまっています。元々は同人誌で活躍していたという作者。「ゆず」や「じーばーそだち」はなさそうでありそうなギャグが魅力だったのですが、こちらは完全にファンタジーです。絵柄も今とかなり違っていて、物語にあった不思議な味を醸し出しています。
「ゆず」では豪快な印象だった作者ですが、この「電気ブラン」はとても繊細な感じ。作品によって、作者の印象というのもずいぶん変わるものです。
さて、この「電気ブラン」は1985年に発行されたものを竹書房から再発行したもので、巻末にはその10年間の作者の歩みのようなものが載っています。
普段、僕が読むような漫画は連載で続々と単行本が出るものが多いですが、須藤真澄は一年に一冊くらいずつぽつぽつと出しているんですね。
これまでに読んできた作品は本当にそれぞれ独特の味わいを持っていて、作者の違う面をのぞかせてくれています。
こういう描き方をする人もいるんだなと思って感心させられました。
11月24日
最近読んでいるアイザック・アシモフは「ロボット三原則」で有名な人です。ロボット三原則とはアシモフの「われはロボット(ハヤカワ文庫SF)」に出てくるもので、
・第一条
ロボットは人間に危害を加えてはならない。
また、危害が加わるのを見過ごしてはならない。
・第二条
第一条に反しない限り、ロボットは人間の命令に従わなければならない。
・第三条
第一条、第二条に反しない限り、ロボットは自分を守らねばならない。
という三箇条から成り立っています。
ロボットは人間に奉仕する存在と明確に定義しています。
現在、産業用ロボットなどが活躍してはいますが、これは複雑なオートメーションであって本来のロボットとは少し違うような気がしますね。
現在、パシフィコ横浜こと横浜国際平和会議場ではロボデックス2000というイベントが開催されています。人間共存型ロボットの展示を行うためのイベントで、有名なホンダ開発の二足歩行ロボットP3の発展型であるASIMO、SONYからは新型AIBOに加えて人型のロボットなど、なかなか面白そうです。
上のロボット三原則と比べてみると、ロボットというものに対する認識が変わってきているのがなんとなくわかりますね。
現在、ロボットに求められているのは単純な労働力ではなくより人間に近いものなのです。二足歩行のロボットに対しては実用性を問う声もありますが、たとえその使い道がどうであれ挑戦してみたいという気持ちは多くの技術者にあるのでしょうね。また、知能を持った機械というのは昔から多くの小説や映画などに出てきていますが、ただ便利なものとしてではなく人間の敵になりかねない存在として描かれる事が多いです。
人間の動き、人間の頭脳。ロボットにはこの二つの課題があります。そしてこの二つは切り離せないものですよね。
人間の身体を制御しているのは脳です。HONDAのP3は歩いていて方向を変えるためには一度立ち止まり、足をそろえてから向きを変える動きをしていました。
これは、一度を初期状態に戻すことによって、次の動作への動きを単純にするためです。しかし新開発のASIMOはリセットなしに動作の途中から方向を変える事ができます。
もちろん機械的な問題もありますが、この違いは制御の違いですね。それだけ複雑な計算をしなければなりません。
人間を動かしているのは脳です。単純に見えても、実は複雑な計算をしています。難しい動きをすればそれだけ複雑な計算がいるのです。
そもそも、脳って何のためにあるかっていうと、身体を制御するためにあるわけですよね。最も重要なのは身体を動かす事で、感情や思考というのはその副産物に過ぎないのではないだろうかと思うことがあります。
人工知能って純粋にコンピュータの中の世界というイメージがありました。しかしこうやって知能に身体をつけることで、これまで見えなかったものが見えてくるのではないでしょうか?
身体を動かす事で、思考がクリアになることもありますよね。そういう意味で、動く人工知能に注目しています。
11月25日
書感です。
「ABA殺人事件」
著者:アイザック・アシモフ
出版:創元推理文庫
定価:600円
初版:1979年11月23日
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さて、アシモフの描く長編ミステリ作品です。
短編集の書簡でも述べたように、アシモフという人は僕のイメージと大きく違っていて実にジョークやユーモアが好きな人なんですね。この「ABA殺人事件」はアメリカと書販売協会の年次大会という実際のイベントを舞台にアシモフが書いたもので本人も登場人物の一人となっています。出てくる人間はすべて架空ではありますが、そういったテーマで書いてしまうというのがまず一種の冗談。
主人公はダライアス・ジャストという架空の作家で、アシモフの友人という事になっています。ダライアスは魅力的な男とは言い難く、そんなに人当たりが良くもなければハンサムでもなく、何より背が低いというキャラクター。その一人称によって語られるアシモフは豪快で女好き、陽気で大食漢というように非常にユーモラス。出てくる人間はみな「絵に描いたような」存在じゃないんですね。殺される人間も容疑者も、そして主人公もとくかく癖があってコミカルです。時系列を追って主人公の思考を追いかけていく形式なのですが、とにかくダライアスの思考を逐一描写しています。物語とはあまり関係ないような下らない皮肉や女性に対する評価などを細かく書いていくことによって、アシモフは一人の人間を実に印象的に作り上げています。
起こった殺人事件は密室でもなければ、不可思議な点があるわけでもありません。それなりの売れっ子であっても別に大して好かれているわけでもない被害者ですが、ダライアスはどうしてもその死に納得できず、捜査と推理を続けます。
これがまた思うように進行せず、主人公自身もイライラしたりしてうまくいきません。
冗談のような人物ばかり出てくるようでいて、本当にいそうな微妙な感覚。戯画化しているものの、アシモフが実際の出版界を頭に置きながらそれを皮肉っているのを感じます。
それでも嫌な感じがしないのは、アシモフがそういったものを好きでいるからなんでしょうね。
さて「木星買います」と合わせてアシモフのコミカルな面を見せてもらいましたがそろそろ本格SFも読もうかな。
「われはロボット」あたりは一度読まなくてはいけませんね。
11月26日
本の感想って本当は読みながらリアルタイムに言いたいところです。本に対する集中の度合いや、そのときに感じている面白さというものは読後感ではなかなか言えません。
例えば物語の99%まで面白かったとしても、最後の一文で一気に評価が落ちたら感想として好意的なものは書けないですよね。しかし、それだと途中まであった面白さはどこへ行ってしまうのでしょう?
かといって、本当に進行に合わせて書感を書いたら内容を逐一説明することになってしまって、本を紹介しても読む楽しみを奪ってしまいますよね。
もっとも、自分が面白く読んでいたのに最後で裏切られたと思うような本は人に薦めない方がいいのかも知れませんが。
僕は基本的に本の面白いところを見つけて楽しめる方なので総合評価が「つまらない」になることはあまりないし、もともとなんだかわからない本は読まない方なんです。
本を読むうえで一番大切なのは美しい文章でも綿密なプロットでもありません。読んでいて面白いと感じるか、そして先を読みたくなるかということですよね。
この面白いというのは面白おかしいという事ではなく、内容に興味をもったり感銘を受けたりすることです。
実際は問題提起が面白くても結論がぼかされてしまたっり納得できなかったりとかってあります。しかし、問題が提起された時点ではその本は確かに面白いのです。
時間軸にそって面白さにはグラフの上下があるんですね。
前半が退屈でも、読み進めるにつれて面白くなっていく小説だってたくさんあります。しかも、後半の面白さを支えているのが前半の部分だったり。京極夏彦の京極堂シリーズって前半がくどいと毎回、感じるのですが読んでいけば面白くなるというのは保証済みなので最後まで読むだけの力になります。
まあ、そういう本は「前半部分を読み切れば後は〜」みたいな書き方が出来るので問題はないんですけどね。
結末で評価が変わってしまう小説って、最後までしっかり書ききれなかったというものと、意図してそうなっているものがあります。前者はちょっともったいないです。後者はそれでこそ面白いと感じる人もいるのでしょう。
それだけ結末って重要で、難しいものだということ。
結末が小説の目的ではないですが、それがダメなだけで全体の評価が覆ってしまいます。
人間の思考は絶え間ないくても、本はそこで終わってしまいますからね。
一つの区切りをつけなければいけないのでしょう。
11月27日
書感です。
「19ボックス -新みすてり創世記-」
著者:清涼院流水
出版:講談社ノベルズ
定価:880円
初版:1997年7月3日
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さて、清涼院流水はくせものです。
この人の作品は「コズミック」しか読んでいませんが、それだけでもこの「19(ジューク)ボックス」を読むにあたってかなり警戒しました。清涼院流水の作品は、その作風を知らずに読んでしまうと多大なエネルギーを必要とするのです。知っていればうまく読み流す事ができるでしょう。
一応、これはミステリということになっているのかも知れませんが全体的にはファンタジーかも。読者の解釈しだいでどうとでも言える物語です。
この本は4つの物語で構成されています、それぞれが多くの謎を含んでいて、他3つの物語にも関係しています。
そして、読む順番によって結末の解釈が違ってしまうのです。虚構と現実、というよりはすべて虚構なのですがその親子関係は読む順番に依存するのです。
また、巻末には選択肢によって読む順番を決めてくれる性格診断のようなものがあります。ちなみに僕は普通に最初から順番通りに読みました。「一般的読者コース」だそうです。
ノベルズ381ページを読み終わった後の疲労感はなかなかのものです。そして、そこに何が残るかというと、清涼院流水という作者に翻弄されたあげく、わけがわからなかったという感覚です。もしそこに深い意味を見出せるとすれば、それは作者の意図などではなく自分の力なのです。
清涼院作品というのは単独で存在することは不可能な作品だと思っています。世の中にミステリというジャンルがあって初めてこの作品を読み、比べることによって作品の評価が出てきます。もし、ミステリというものがなければこれは清涼院流水ジャンルになってしまうでしょう。
面白いとか面白くないとか、そういう評価は非常に難しく、言ってしまえば面白くないのかも知れません。騙し絵を見たときのような違和感や、眩暈のような感覚を活字で追求するのが清涼院流水の本なのかも知れません。少なくとも、この「19ボックス」はそうです。
この本を読むには「コズミック」か「ジョーカー」のどちらかを読んでいないといけません、たぶん。僕はすでに読んでしまっているのでいきなり「19ボックス」を読んだ人がどう思うのかは想像つかないです。
冗談のわかる人か、最後まで本当にまじめに追求できる人、どちらかのための本でしょう。僕はどちらかと言えば、ジョークのつもりで読んでいます。
世の中にはこういう本もあるということ。
11月28日
金土日は大学の学校祭でした。
前から不思議に思っているのですが、学校祭ってどういう主旨の行事なんでしょうね。
とりあえず僕の所属する留学生交歓会では毎年、留学生が時刻の料理を作ります。今年は1日目がマレーシアカレー、2日目がバングラディシュカレー、3日目がタイカレーで、珍しいのもあってなかなか売れました。味もなかなかで、フランスパンをつけて食べるようになっていました。本当はごはんを入れたかったのですが、保健所の許可が下りないらしいのでダメなんです。僕は学校祭の2日目しか出ていないので、マレーシアとタイのカレーはわかりませんがバングラディシュカレーはかなりの種類のスパイスが入った香ばしいカレーでした。
最も、作った留学生のよると水が多すぎてスープ上になってしまったが本当はもっとどろっとしているとか。
とりあえず国際交流が主旨である交歓会の目的には合っている……のかな?
芸術系サークルにとっては、学校祭とは発表の場ですよね。
普段、演奏会や展覧会を開いていてもなかなか一般の学生とは縁がなかったりします。運動系のサークルは競技会や試合を開けばいいのでしょうね。
ですが、学校祭って別にサークルの活動発表だけではないですよね。
他に学校祭で面白いのは研究室の発表などです。
研究室にもよりますが、けっこう一般向けに面白く研究成果を見せてくれるところもあります。研究にしか興味のない先生もたくさんいるのでしょうが、大学は研究期間というだけではなく教育機関でもあるわけで、特に一般の人にとっては「学校」なわけですからね。こういうのは半ば義務でもあります。
もっとも、義務化していないのにそうやって発表してくれるような研究室だからこそ面白いのでしょうが。
高校時代の文化祭は実につまらなかったです。展示などをやる側はそれなりに楽しめるのでしょうが、お客さんが見てどう思うかという概念がすっかり抜けています。
もっとも、一方的にお客さんを楽しませようとして活動するのってかえって難しいです。営利目的なら、自分のためとお客のためという事で双方向になりますね。このバランスがどっちに崩れてもいけないのでしょう。
しかし、バランスを取るためには目的って必要です。
単にサークルの目的と言うなら、カレーをたくさん売ることになるのでしょうが、大学として学校祭を開く意味ってなんでしょうね?
もっとも、それを与えずに自分で考えさせるのが大学というところなのかも知れません。学校祭はただの慣習でなく続けたいものです。
11月29日
書感です。
「流れよ我が涙、と警官は言った」
著者:フィリップ・K・ディック
訳者:友枝康子
出版:ハヤカワ文庫SF
定価:620円
ディックと言えば最も有名なのは「アンドロイドは電気緒羊の夢を見るか」です。これはずっと昔に読んだのでサイトの書感にも載っていませんが、映画「ブレードランナー」の原作と言えばたいていの方はわかるでしょう。
この「流れよ〜」は「アンドロ〜」と並び称される作品になっています。
視聴者3000万人と言われる超人気ショーの主役、ジェイスン・タヴァナーはある朝目覚めると安ホテルのベッドにいた。
そこでは誰も彼の事を知らないばかりか、国のデータバンクにすら彼のデータはなかったのだ。
存在しない人間として警察に追われながら、タヴァナーは必死に過去を探し始める……。
ディックの作品には常に、存在というものの危うさが描かれます。自分がそれまで強く信じていたものを否定されたとき、人間は弱くなるのです。そして、小さな穴から堤防が崩壊するように崩れていきます。主人公のタヴァナーは最後の一歩を踏みとどまってはいるものの、いつかはそれに耐えられなくなるとわかって焦りを感じ、危険にさらされながらも自分を知る人間を追いつつけるのです。
「アンドロイド〜」のデッカードも、レプリカントを追いかけるうちに自分が本当に人間なのかどうかを疑い始めていました。結局のところ、自分の感覚は自分のものでしかなく、人をその人として認めるのは他人なのです。
他人の現実を受け入れられない人間は「狂っている」ということになってしまいます。その視線に耐えながらも守らなければならない自分というのは、本当にあるのでしょうか?
タヴァナーは超常的な能力こそないものの、普通の人間ではありません。遺伝子改造された特殊な人間「スィックス」であるという事実をよりどころに彼は立ちふさがる困難な状況を乗り切っていきます。
タヴァナーを追うのはもう一人の主人公とも言うべき警察本部長のバックマン。どこにも資料がないというタヴァナーに興味を持って追い始めた彼もまた、自分の世界というもののもろさを思い知らされる事になります。
タヴァバーの非現実的な喪失経験とバックマンの情け容赦ない現実。主題はタヴァナーの方にあるようでいて、読み終わってみればこの二人は切っても切り離せないものなのです。
バックマンの物語は、SFというジャンルでなくとも書くことはできます。しかし、それをタヴァナーと比較することでよりいっそう主題を深く掘り下げていくのです。
ディックはSF世界の物語をちょっと外国を書いてみたという程度の書いてしまう作家です。そこにはいちいち用語の説明などありません。誰もがごく当たり前に未来的な言葉も施設も道具も使って生きているのです。
どんな環境でも、どんな時代でも結局人は変わらないのでしょう。ディックはSFという舞台を作る事によって、人間というものを浮き彫りにします。
生きる意味、存在する意味、ディックは常にそういったものを考えているのでしょう。
11月30日
書感です。
「あずまんが大王 1〜2巻」
作者:あずまきよひこ
出版:メディアワークス
定価:680円
初版:2000年2月25日
僕は4コマ漫画がけっこう好きです。
4コマと言っても、雑誌で連載されているものは新聞などとは少し違いますよね。一回で一編の4コマだと完全にそこで終わらせなければなりませんが、雑誌などでは4コマを連続させてストーリーを作ったりタイトルなどに工夫を加えて笑わせたりします。連続4コマはコントなどに近いものがあるかも知れませんね。
さて、この「あずまんが大王」はとても微妙な面白さを持った漫画です。説明するのは難しい。題名の「あずまんが」は作者の名前から「大王」というのは電撃大王という雑誌に連載されているかららしいです。
舞台はどこかの高校。高校生のまま先生になってしまったような教師、ゆかり先生のクラスには元気な暴走女子高生とも、10歳で高校に入った天才少女ちよ、ぼ〜っとしていて何にでも疑問を持ってしまう関西出身の大阪こと春日、大柄で運動神経抜群、無口でクールなのに実はかわいいもの好きな榊など個性的な生徒がたくさん。そんな彼女たちの日常を描いた4コマ作品が「あずまんが大王」
ゲーム雑誌か何かを読んだときに「お試し版」と称した宣伝に2編かあり、それを読んで見事にはまってしまいました。
ちなみに1巻の帯には「うっかり笑った人だけ面白い」とか「あんまり大したことない超話題作!!」など控えめなようでいて作品の本質を突いているような気もするコピーがついています。よく4コマは起承転結と言われますが、この漫画は間をとって笑わせる事が多いです。わずかに違う同じコマを2回連続で使ったりすることで、一瞬何が面白いんだかわからない間を作るんですね。
とにかくさらっと流してしまいそうなほど軽くギャグを書いてしまって後から「ん?」と思わせる。
この作品の面白いところは、露骨にギャグを狙わないというところでしょうか。読んでみて「ああ、こういうのあるな」って思えないと笑えないかも知れません。
ありそうでなさそう、またはその逆が自分としては笑いのツボになっているようです。