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12月01日

 書感です。

「鳥影 -ブラディ・ドール8-」
 著者:北方謙三
 出版:角川文庫
 定価:500円
 初版:1993年1月10日
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 ハードボイルド小説、ブラディ・ドールの第8弾です。

 別れた妻に呼ばれてN市にやってきた立野良明は、元妻の借金を返そうとして抗争に巻き込まれる。世の中の全てに対して冷め切っていた立野だが、3年前に手放した息子の命が危険にさらされたとき、眠っていた野生が目覚める……。

 一時期、力を持たない者が意地を貫き通すというストーリーにこだわった北方謙三でしたが、前作「残照」からは日常を手放して非日常に飛び込んでもやっていけるタフな男を主人公として据えるようになっています。N市に起こる抗争は一時、小競り合い程度までに沈静化していましたが、大物政治家の大河内の介入によって激化。ついにはブラディ・ドールのオーナー川中やキドニーこと弁護士の宇野も立ち上がります。
 何の事情も知らずそこへ飛び込んでしまった立野もまた、川中達と同じ種類の男でした。たとえ相手をうち倒す事が出来なくても、決して相手には屈しない。そういった男が、川中たちを動かすのです。
 今回の主人公、立野には中学生になる息子がいます。第三作の「肉迫」では父と娘の関係を描いた北方謙三ですが、守られる存在としての娘とは違い、息子というのはいつか父を越えていく存在。反発するようでいて実は認めているといった緊張感のある関係が続きます。
 巻末に花村萬月と北方謙三の対談があるのですが、そこで語られる北方謙三の父親の話というのがそのままブラディ・ドールの世界観を作っているような気がします。
 立野がN市を訪れたのは別れた妻よりもむしろ息子のためなのです。成長していく息子は守ってやるべき存在というではなく、同じ道を歩む仲間という意識も見えます。
 この辺りの巻になると、だんだん明確な物語というものはなくなってきます。事件の背後で実際にどのような事が起こっていたか、どうやって解決したかなど脇役達の細かい行動が描かれたりはしないのです。これまで主人公として出てきた事のある人物たちが次々現れては、新しい主人公を試す。そうやって主人公、ここでは立野の人間性を描写していきます。
 ここにあるのは、男同士の出会い、そして別れだけ。
 それぞれが自分の道を行く者どうしの交差点が、物語の行く末を決めるのです。
 N市にやってきて立野が得たもの、失ったものがなんだったのか、それは彼が脇役として登場するであろう次巻以降でわかるのでしょう。

12月02日

 書感です。

「最終兵器彼女 3巻」
 作者:高橋しん
 出版:小学館ビッグコミックス
 定価:505円
 初版:2001年1月1日
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 巻が進むごとに、この作品はどんどん切なくなっていくようです。それまでの話の積み重ねでどんどん話が重くなっていく。楽しかった初期の頃のちせとシュウジのやりとりすら、今となっては二度と帰ってこない想い出のように感じるのです。

 戦争に突入した日本。何と戦っているのかも一般人にはわからないまま、日常が浸食されていく。少しトロい平凡な女子高生だったちせは、日本を守るための最終兵器として改造されてしまう。恋人、ちせと住む世界が離れて行くことを痛感して無力感に苛まされるシュウジ。そしてそれを敏感に感じてしまうちせ。想うが故に苦しい、二人の恋の行方は……?

 世界はどうしようもない方向へ向かっていて、それは二人のせいではない。ただ平凡に恋愛がしたかっただけのシュウジとちせを巻き込んだ戦争は「運命」などという言葉が生やさしく思えるほど二人を引き裂いていきます。
 これまでの2巻ではシュウジとちせの生活環境を中心に描いていましたが、この巻からはシュウジの知らない、戦場でのちせが登場します。
 戦場でも、ちせはちせらしさを失わず、健気です。しかし、そんなちせを彼女にしたシュウジは、毎日のようにいろいろと悩みます。兵器として、軍人として生きていかなければならないちせが人間としていられるのはシュウジがいるから。
 ただ平凡な女の子としてシュウジに受け止めてほしいのに、彼にはちせが変わってしまったようにしか見えていないのです。好きという気持ちはあるのに、どこかで兵器として人を殺しているちせを恐れているシュウジ。そのシュウジを傷つける事を恐れるちせ。
 お互いの感情はあるのに、それがすれ違ってしまう二人はこの先、どうなっていくのでしょう?
 当初は3巻くらいの予定だったというこの作品ですが、3巻のあとがきを見る限りではまだ数巻続きそうです。
 次が出ないかと待ってはいるのに、読むのが怖くなってしまうような作品は、これだけでしょう。
 二人に幸せが訪れるように、願うしかないですね。

12月03日

 今日は観戦記です。

 サッカーJリーグチャンピオンシップ
 鹿島アントラーズ VS 横浜マリノス
 横浜国際総合競技場
 12月2日15:00キックオフ

 僕は地元、浦和レッズを応援しているのですが、バイト先の同僚からチケットが余っていると言われ、二つ返事で行くことにしました。
 どちらかと言えばアントラーズ派ながら、会社が横浜にあるためかみんなマリノスサイドなのでにわかマリノスファンとして応援に臨んできました。
 JR横浜戦の小机駅を降りるとすぐそこに横浜国際総合競技場が。レッズのホーム、駒場競技場は住宅地の中心にあるためあまり目立たないのですが、周囲に何もない横浜国際は迫力十分です。実を言うと、国立競技場と駒場競技場以外でサッカーを見るのは初めてでした。
 自由席だったので早めに入ったのですが、以外と席があっていてゴール裏の見やすい場所を確保できました。駒場は座席というものがなくて、コンクリートの段に座る事になっていますが横浜国際は普通のスタジアム。駒場に席がないのは、始まってしまうとみんな立って応援するからです。そのかわり、立ったままもたれかかるのに丁度良い手すりがついています。さすが熱狂的と言われるレッズサポーターのホームですね。しかしこの日は決勝だけあって、マリノスサポーターも総立ち。傍観のために持っていった膝掛けも役に立ちませんでした。
 試合前にはマリノスのイメージキャラクター、マリノスくんが試合場の周囲を回っていたのですが、その後には新イメージキャラクター「マリノスケ」のお披露目も。着ぐるみに入ったままリフティングをして見せる姿がユーモラスでしたがそのテクニックに感心もしました。
 さて、試合が始まってみると、両者とも堅実な試合運び。
 前半はどちらかといえばアントラーズ優位で、スロースターターのマリノスゴールに柳沢が迫ったりとピンチの場面も見られましたがゴールキーパー川口の好守によって守りきりました。マリノスのフォワード、城は体調不良のためかあまり目立たず。それでも、スペインで鍛えた粘りでロングボールをポストプレイ、その後自分が走り込んでシュートまでという場面もあって復調すれば強力な攻撃を見せてくれるだろうという予感を感じさせました。
 後半になると疲れの見える木島が永山と交代。木島のドリブル突破を見られないのは惜しいと思ったのですが、マリノスが日本代表の中村俊輔を中心とした得意の攻めを展開し、アントラーズゴールを脅かします。
 やはりと言うか、もはや当たり前の事なのですが、中村俊輔の動きが素晴らしかったです。遠目に見ても華麗で流れる水のようによどみない動きに感動しました。
 試合は膠着状態で両者無得点のまま終了。互角ではありましたが死闘という程ではない応援側にはいささか消化不良な試合でしたが、それなりに楽しめました。
 次はアントラーズのホームですが国立競技場。
 サポーターも五分で、その一試合で優勝が決まるため、かなりの激戦になることが予想されます。
 そちらの試合も見たいところですが、テレビ観戦で我慢するしかないですね。

12月04日

 書感です。
「弦の聖域(いとのせいいき)・上」
 著者:栗本薫
 出版:講談社文庫
 定価:440円
 初版:1982年3月15日
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 栗本薫の名探偵、伊集院大介シリーズの第一作です。
 すでに長編、短編合わせて数冊を読んでいるので、登場編となるこの作品はたいへん感慨深いです。
 優しげな好青年、伊集院大介はいつも好奇心旺盛で人に警戒心や敵意を抱かせない人間です。
 無邪気で子供のようだと言われる彼は、普通の人間より遙かに多くの憎しみや悲しみを知っているのです。

 人間国宝の長唄家元の屋敷で、一人の女弟子が殺される。
 捜査に入った警察はその愛憎渦巻く人間関係とに圧倒されてしまう。現代社会に孤島のように残された古来からの伝統世界に、学習塾の教師、伊集院大介が入り込む……。

 芸能界や水商売、モデルなど、栗本薫は玄人の世界を描くのが好きな人ですね。伊集院大介の始まりとなるこの作品も舞台は伝統芸能の世界。
 強い光を当てればそれだけ闇も深くなる。何もかも明るみに出てしまう現代の警察では、その奥を探る事はできません。
 伊集院大介は、シリーズの中でもなかなか登場しない探偵です。今回も捜査に当たった山科刑事の視点で事件の推理が展開し、探偵の登場はまだかとやきもきさせます。
 探偵と言われるキャラクターには、それぞれ推理のパターンがあるものですが、伊集院大介というのは探偵然としたキャラクターではないんですね。何となく「こうじゃないか」という意見を言うと、それが当たっていて周囲が驚くのです。
 もちろん、それには理由があって、きっちり説明もつくものです。しかし、それがすっと口から出てくるのは彼が生まれながらの探偵だからでしょう。
 まったくの余談ですが、僕が最初に読んだ「仮面舞踏会」において伊集院大介は40歳前後。そうなっても少年らしさを保った彼は、なんとなく美男子というイメージがありました。
 しかし、この「弦の聖域」ではなんと「歌手のさだまさしに似ている」とはっきり書いてありました。
 これはなかなかショックかも(笑)
 さて、上巻で謎の一言を残して消えた伊集院、後半の結末はどうなるのでしょうか。

12月05日

 書感です。

「弦(いと)の聖域・下」
 著者:栗本薫
 定価:440円
 初版:1982年12月15日
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 ミステリは様々な舞台で語られます。
 それは旅行中に起きる事件であったり、芸能界で起きる事件であったり、京都の寺で起きる事件であったりします。
 物語に必ず必然性を求めるわけではないですが、ただ舞台を移しただけの凡百な作品では満足できないとも思います。
 例え舞台がどこであっても、人間の怨恨による殺人は皆、同じです。人が人を殺すというのはもちろんたいへんな事ではあります。しかし、そのテーマは語り尽くされ、例えば連続殺人や猟奇殺人、密室殺人などというジャンルの細分化が起こっていくわけです。
 しかし、この「弦の聖域」はひと味違うのです。
 栗本薫は玄人の世界を描くのが好きだと前回、書きましたがこれは「玄人の世界を舞台にする」のが好きなのとは微妙にちがいます。「玄人」と言われる人間がどう生き、どう考えるのか、そしてそういった人間が集まった結果、どういう空間と時間が生まれるのか。まさに世界を描くわけです。
「弦の聖域」は伝統芸能、長唄の世界。普段の生活ではまず触れることのない三味線と唄を、栗本薫は文章の力によって再現してみせました。
 捜査に当たった山科刑事はその世界のあまりの深さ、暗さに「芸とはなにか?」という問いを発します。もちろん、そんなことは滅多な人間が答えられるものではありません。
 ですが、殺人事件を通して、芸というものにかけるのではなく芸という怪物にとらわれ、逃れる事の出来なくなった人間達の凄惨な姿が描かれるにつけ、恐ろしくも魅力的な芸の輪郭が見えて来ます。
 探偵役の伊集院大介は何にでも首を突っ込んでいくように見えますが、周囲が考えるように殺人事件そのものに興味を持っているわけではないのです。誰が誰をどうやって殺したか、などという推理は彼にとって小学生の足し算引き算をするに等しいのです。
 彼が本当に知りたいのはその奥、人の心の底知れぬ部分によどむなにかなのでしょう。倉知淳の猫丸シリーズに出てくる探偵、猫丸も同様に人の心の闇をのぞき込んでしまう人物でした。彼がそのためにある種、他人を拒絶するような生活を送っているのに対し、伊集院は誰の内側にも入ってしまうし、自らは壁を作りません。誰もが油断し、引き込まれてしまうほうな笑顔は、いったいどこから出てくるのか?
 このシリーズの一番大きな謎は、そこなのだと思います。

12月06日

 最近の家電製品ってたいてい時計がついてますね。
 タイマー機能を使用するものが多いためでしょう。
 ビデオの録画予約なんかは時計を正確に合わせていないと最初や最後が切れたりするので気分が悪いです。
 今の季節はガスストーブのタイマー機能を使って朝、起きたときに部屋が暖まるようにしています。夏にはクーラーで同じことをしています。寝起きって重要ですからね。
 さて、この時計合わせには苦労します。
 時報が一番メジャーなやり方なのでしょうけど、電話代がかかるのがネックです。昔は仕方ないので使っていたのですが、
今はPCの時計を一番信頼しています。
本来、PCなどの電子機器にはそんなに正確な時計は入っていません。しかし、MacOSにはインターネットのタイムサーバに時計を合わせる機能があって、ネットにつなぐたびに時計が修正されます。ですから、タイムサーバが正確である限り、PCの時計も正確なわけです。
 ちなみに、いつも持ち歩いている電子手帳、PalmはMacの時計にシンクロするため、やはり時間は合います。
 さて、ここからは手動の世界。
 時計がついているのは、電話、携帯電話、ビデオ、テレビ、MDコンポ、ストーブ、目覚まし時計、壁掛け時計です。
 このうち、テレビでタイマー機能を使うことはほとんどないので除外。ビデオは録画予約のために正確に合わせます。
 壁掛け時計は物理的に面倒なので後回しです。しかも、アナログなので正確な時間はあまり気になりません。目覚まし時計も同様なのですが、何故かセットした時間より20分ほど早くベルがなるので使っていません。もちろん、わざと20分遅くセットする事も可能ですが、信頼性が揺らいでいるのでそれはしません。夜中に枕元に置いて時間を見るためだけに使っています。目覚まし代わりに使っているのは電話です。僕は電話の音に敏感で、眠っていてもワンコールで出られます。
 ですから、目覚ましに電話を使うと確実に起きられるので、とても便利。使用頻度が高いので正確に合わせます。次に携帯電話。僕は時計の類を持ち歩いていません。先に書いたPalmは持ち歩いているものの鞄から取り出さなければならないのですぐに見るのは無理です。だから携帯電話の時計を参照します。
 特に通勤通学時は電車の関係で正確に時間を把握しておきたので表示が合っていないと困ります。で、時計を正確に合わせておくと電車って以外と時間通りには走っていないということがよくわかります。僕は乗り換えが多いので数十秒の遅れによって困ることもあるのです。まあ、早目に家を出ろという事ですね。
 さて、長々と書きましたが、こうやって時計を合わせるのはたいへん面倒です。確か電波によって時刻を修正する時計があったとは思いますが、普及しているんでしょうか?
 どうせ世の中にはこれでもかというほど電波が飛び交っているのですから、テレビ、ビデオ、携帯電話などはそういうものを利用して時刻を正確にして欲しいです。
 僕自身はそんなに時間にこだわる人間ではないつもりですが、こんなことを書いていたら信じてもらえないでしょうか?
 時計を合わせるのは、エネルギーの消費を押さえるための第一歩だと思っていますけどね。

12月07日

 書感です。

「ヒカルの碁 10巻」
 出版:集英社ジャンプコミックス
 原作:ほったゆみ
 作画:小畑健
 定価:390円
 初版:2000年12月9日
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 10巻の帯によると「ヒカルの碁」は世界で唯一の囲碁漫画だそうです。囲碁を楽しむ人は数多くいるかも知れませんが、ジャンプを読む世代の人間にはほとんどいないのでしょうね。
 この「ヒカルの碁」で中学、高校の囲碁部はかなり人数が増えているのではないでしょうか?
 僕は1巻からずっとこの「ヒカルの碁」を読んでいますが自分ではルールしか知りません。それでもこの漫画が楽しめるのは碁というものの特殊性に頼らず、正面から勝負にかける少年達を描いた王道の展開にあると思っています。スポーツ漫画などにありがちな天才主義や根性論に陥らず、日頃の努力と才能と精神の強さにその時々の運をプラスしたリアルな勝敗にはたいへんな読み応えがあります。
 10巻の舞台はプロ試験の本戦。予選では苦戦したヒカルも本戦に入って自分の碁ができるようになり、連勝街道を突き進みます。しかし、その強さはまだまだ安定したものではありません。浮き沈みする仲間達と共に、ヒカルもまたプロ試験の重圧を意識するときが来るのです。
 また、姉弟であり、友人である背後霊、藤原佐為との関係にも緊張感が漂っています。自信をつけてきたヒカルはただ教えを請うのではなく、いつしか佐為をライバルのように意識しだしています。。
 そして、ヒカルに取り憑いた佐為によって手痛い敗北を喫している少年プロ棋士、塔矢アキラも佐為を背後に持つヒカルに入れ込んでいます。塔矢アキラの執着は、周囲の棋士たちにも同様を与え、図らずもヒカルを注目させる結果となっているのです。
 これまでヒカルの成長を中心に描いてきた本作ですが、この巻ではとにかく周辺人物にスポットが当たります。勝負に集中し、迷いがなくなってきているヒカルを見て逆に焦ってしまう仲間達。それまで一緒に戦ってきた彼らも、ここでは敵同士になってしまいます。
 友人であっても、常にその相手より強いか弱いかという意識がつきまとうプロ試験。この先、終盤を迎え、ヒカルとそのライバルたちがどのように成長していくのか楽しみです。

12月08日

 書感です。

「聖者の行進」
 著者:アイザック・アシモフ
 訳者:池央耿
 出版:創元SF文庫
 初版:1979年3月9日
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 巨匠、アイザック・アシモフの短編集です。
 相変わらず短編の合間に作者のコメントが入る構成ですがこの語り口調が実に面白く、ラジオのDJが曲を紹介するような気分で短編を楽しめます。
 さて、表題「聖者の行進」は収録作品の一編なのですが本来は「The Bicentennial Man And Other Stories」となっています。直訳すれば「200歳の男」
 こちらも収録作品の一編でこの短編集の目玉とも言うべき作品だけに、なぜタイトルを変えてしまったのか謎です。英語題名の耳慣れなさと日本語訳の難しさが原因でしょうか。
 さて、アシモフと言えば代表的な短編集「わたしはロボット」とロボット三原則が有名です。その作品群を後年の熟練したアシモフの手でより発展させたのが「聖者の行進」に囚虜黒くされている一群の「ロボットと人間」テーマの作品です。
 ロボットの性能が上がり、人類の貢献度が大きくなるにつれて人間は種としてロボットに負ける事を恐れます。「ロボット三原則」によってロボットが人間に害をなすことがあり得ないというにも関わらず。
 それぞれの中短編は独立していますが、並べてみるとUSロボットという会社を中心のロボットの歴史が綴られます。
 ロボットがより人間に近づいていく過程。ロボットの人間に対する意識の変化。人間よりも賢いロボットは決して人間を支配しようなどと思わないのです。それでも人間の恐怖は消えません。それをアシモフは「フランケンシュタイン・コンプレックス」と名付けています。創造物が創造主に反逆するという強迫観念。人間はロボットの敵ではありません。しかし、この強迫観念がロボットの最大の敵となります。ひどい扱いを受けるわけではなくてもロボットは人間を尊重しません。自由も人権も認められはしないのです。
 さて、先にも挙げた「バイセンテニアル・マン」は映画化もされている作品です。
 ロビン・ウィリアムス主演の「アンドリューNDR114」ですね。映画自体は見ていないのですが、この原作ほど心を動かされたのはハインラインの「夏への扉」以来です。
 木彫り細工が得意という得意な電子頭脳を持った主人公のロボット、アンドリュー・マーティンはそれによって人間性に目覚め、ロボットとしては世界で初めて自分が自分の所有者となります。しかし後に続く者もなく、人間として完全には認められず、百年を遙かに越して生きることになります。
 USロボットが世に送り出してきたロボットたちの中で偶然にも生まれた最高の傑作。その彼がロボットによる「ロボットの歴史」を作るのです。
 アシモフにとってロボットを描くということは、人間を描くのに等しい事です。誰もが自分自身の事を追求しきれないように、人間自身には人間の本当の事はわからないのでしょう。
 もし将来、人間と同レベルまたはそれ以上にものを考えるロボットが出てきたとき、人間というものに対して答えを出す、または答えを出すヒントをくれるのかも知れません。

12月09日

 書感です。

「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン 4巻」
 作者:荒木飛呂彦
 出版:集英社ジャンプコミックス
 定価:390円
 初版:2000年12月9日
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 これまでの「ジョジョの奇妙な冒険」にサブタイトル「ストーンオーシャン」を加えてスタートしたこの新シリーズ。
 これまでの1〜5部を振り返れば第1部と第2部は「波紋編」第3部以降はスタンド編というところでしょうか。
 これまで読んでいない人のために解説すると、呼吸によって生まれるエネルギーを全身の血液に蓄え、その力を操るのが「波紋」です。水や生き物などを伝わり、水面を歩いたり他人を操ったりするとができ、第1部の敵であった吸血鬼を完全に消滅させることができる力。しかし、それは大きな破壊力を持つものではないため、十分な力を発揮するためには工夫が必要でした。そしてまた、敵となる吸血鬼にも十分な知能があるため、戦いは壮絶な頭脳戦になっていきます。
 それが「ジョジョの奇妙な冒険」の基本的な魅力なのです。
 第3部になって新たに登場したのが「幽波紋」
 通称「スタンド」と言われるその力は、超能力が何かの形をとって現れたものです。「スタンド」はその力を持った「スタンド使い」にしか見えません。その力は様々で「早く正確に動ける」「炎を操る」「狭いところに入れる」などとなっていますがそれぞれの能力は決して絶対ではなく、スタンド使い同士の戦いはジャンケンにも似た優劣があります。
 第3部以降は常に「誰がスタンド使いか?」「スタンドの能力は何か?」「どうやって倒すのか」という疑問との戦いになります。いつ、どこから、どうやって襲ってくるのかわからない敵に対するサスペンスが話を盛り上げます。
 おそらく最も人気があったと思われる第3部から続く第4部はそれまでの旅という要素を捨てて日常生活の中の恐怖に切り替えたせいか少々不人気。第5部は魅力的な味方キャラクターと仲間を活かすという主人公としては珍しい性格によって盛り上がったものの、終盤では何故かストーリーに破綻をきたしていた感がありました。5部終了後、荒木飛呂彦が休載に入ったときにはジョジョも終わりかと思ったのですが雑誌のインタビューなどの「ジョジョはライフワーク」という発言や短期連載の「デッドマンズQ」では復活の兆しがあり、高まる期待の中始まったのがこの「ストーンオーシャン」です。
 これまでのジョジョシリーズから比べると多少大人しい感じがするものの、それだけ丁寧にストーリーを組み立てており、それでいて物語が進むにつれて徐々に全体の謎が出てくる展開にも今のところは満足しています。
「命をかけるとはこういうことだ!!」と帯にありますが、このシリーズの主人公達は玉砕覚悟の突撃などはしないのです。
 勝利を得るためには自分の命を危険にさらす事もある。そして、勝利とは必ずしも相手を倒す事ではありません。
 第一部から脈々と受け継がれてきたジョジョの系譜がストーンオーシャンには確実に生きています。

12月11日

 観戦記です。

「サッカーJリーグ チャンピオンシップ
 鹿島アントラーズ VS 横浜F・マリノス」

 浦和レッズがJ2に降格してからしばらくJ1も見ていなかったのですが、先週のチャンピオンシップ第一線を見て一気に熱が戻ってきた感じです。圧倒的にアントラーズ優勢という予想に反し、マリノスは善戦。特に後半では何度もアントラーズゴールに迫って試合を白熱させました。
 どちらかと言えばアントラーズ寄りだった僕もこの試合では思わずマリノスを応援してしまい、その期待を第二戦に引き継いだというわけです。
 残念ながら第二戦はテレビ観戦になってしまいましたが、7時半からは実家のテレビの前に釘付け。満員の国立競技場を見ると行けなかったのが非常に惜しいと思います。
 純粋に観戦という意味ではテレビの方が面白いかも知れませんがスタジアムだとグラウンド全体が目にはいるし、試合の流れもわかりやすいです。
 試合開始と同時にマリノスは好調な立ち上がりを見せ、敵陣をかき回します。しかし、アントラーズ守備陣はマリノスの攻撃をしのぎきり、前半中頃にはアントラーズのフォワード、鈴木が粘ってボールをキープ。そのままドリブルで突破し、柳沢へのワンツーを挟んで強烈なシュート。マリノスのキーパー川口はボールに触ったものの止めきれず、アントラーズの先制となります。さらにその後、セットプレーのこぼれ球をディフェンダー秋田がマリノスのディフェンスライン裏に放り込み、それを同じくディフェンダーの奈良橋がワントラップ・ボレーシュート。アントラーズの攻撃力を象徴するかのような芸術的ゴールでした。
 サッカーは2点差が要注意と言われます。追う側はあと1点入れられると逆転はほぼ不可能。追われる側が失点すると勢いを失い、逆転を許してしまうケースが多くなります。
 ここで追いつけばまだまだと思った矢先、アントラーズ左サイドの中田が上げたセンタリングがそのままゴールへ。予期していなかったのか川口がこれをファンブルし、ボールと共にゴールへ入ってしまいます。
 後半は試合の勝ち負けよりもマリノスがいかに1点を入れて面目を保つかというところだったのですが、余裕のあるアントラーズには通用せず。そのまま3-0で試合は決着してしまいました。
 チャンピオンシップは前半戦の優勝チームと後半戦の優勝チームが戦うというシステム。しかし、試合は後半戦終了直後にあるのですから、後半戦勝者が強いのは当たり前ですね。
 結局のところ、年間を通して強ければ文句なしなのですがこれだと前半戦は何のためにあるのかという疑問が出てきます。
 さて、これでアントラーズは優勝3回目。来シーズンはどこのチームが来るのでしょうか?
 もう一つ、気になるのは天皇杯の行方。
 昇格したばかりの浦和レッズには上位に残って欲しいところです。

12月12日

 書感です。

「'THE SCRAP'懐かしの1980年代」
 著者:村上春樹
 出版:文藝春秋
 定価:1019円
 初版:1987年2月1日

 このエッセイ集は「スポーツ・グラフティ・ナンバー」に連載された村上春樹のコラムを集めたものです。余談ではありますがこの「ナンバー」は「ダ・ヴィンチ」と並んで僕が最も面白いと思う雑誌です。
 雑誌は情報を得るために買うということが多いですが「ナンバー」や「ダ・ヴィンチ」は興味を持っていない事に関する記事でも楽しんで隅々まで読んでしまいます。
 コラムが連載されていた時期、村上春樹はまだ日本で生活していました。ナンバー編集部は毎月合衆国から何冊かの雑誌を取り寄せて村上春樹に届け、それを呼んだ氏がその中から好きな話題を選んで書くというもの。
 ですからその時々の話題というものが多いです。
 まえがきにも「マイケル・ジャクソンが絶好調だった」などと過去形で語られています。そもそもサブタイトルが「懐かしの1980年代」ですからね。僕は1976年生まれなので、80年代というのは小学生として半分以上を過ごしています。
 村上春樹はコラムで特に変わった事を書いているわけではないのですが、軽快で飾らない口調が読んでいて心地よいです。
 ナンバーの連載だと月に一度しか読めないので物足りないかも知れませんね。
 80年代の話題として僕自身も印象に残っていたのはロザンゼルス・オリンピックと東京ディスニーランドの開園でした。
 村上春樹はディズニーランドのプレビューオープンにも呼ばれたとかでうらやましい限りです。オリンピックの方はなんとまるで見ていないとか。僕は開会式のロケットマンとカール・ルイスを強烈に憶えています。
 こうやって自分の80年代が、氏の語りにオーバーラップします。雑誌を読んで、思った事を書き連ねているだけなのにそこには村上春樹の80年代が保存されているのです。

12月13日

 書感です。

「プレゼント」
 著者:伊集院静
 出版:小学館文庫
 定価:590円
 初版:1998年1月1日

 伊集院静の短編小説、エッセイ集です。
 氏は大変有名な作家ですが、僕はこの人の事をほとんど知らずに読みました。いかにもといった感じの気取ったペンネームから受ける印象とは違い、いかにも「作家らしい」放蕩さを持っているように感じました。
 短編集の方は「ひょっとすると実体験?」と思わせるような話が多いです。作ったという感じではないんですね。現実に着想を得て小説化したものなのかも知れませんが、その辺の境目を感じさせないのがむしろ面白いと言えます。
 さて、表題作の「プレゼント」や京都の芸妓との交流を描いた「宵の花」、ソ連抑留兵の思い出話を題材にした「靴」を除くとほとんどすべてがギャンブルの話で占められています。
 作者も小説の登場人物も日常的に賭をし、そこに何かを見いだそうとしている人間ばかりです。
 賭け事というのはあまりに多くの人間を魅了します。伊集院静は自分にとっての賭け事というものを全て伝えようとするかのように、様々なエピソードを淡々と綴っていきます。
 ギャンブルというのがまた僕とは無縁の世界です。
 競馬も競輪も、テレビの中でしか知らないしそれすらまともに見たことはありません。伊集院静の小説には具体的な描写が少ないのですが、それでも競馬場の様子やそれぞれの賭師の生き方などが想像できるのです。
 こういった欄外の楽しみを持ったのは実に久しぶり。これが小説の力なのでしょう。
 北方謙三は小説の中で、酒や車に男というものが出ると書いています。同様に、この小説群はギャンブルの中に登場人物達の内面を描き出しています。確率や情報分析だけではない、損得を越えたところに賭けるという事の意味があるのです。
 金が賭けるという行為は、自分の頭、目、度胸を賭けた行為であり、文字通り「勝負」
 一人で賭をする人間がいないのは、これがコミニケーションの一種だからではないでしょうか。
 人間は何かの選択をするとき、必ず賭をしています。ギャンブルというのは「自分はこれに賭けた」と宣言すること。
 賭の一つ一つが、ギャンブラーにとっては人生です。
 同様に、本の一冊が作家にとっては一つの人生なのかも知れません。
 そしてこの本は、崩した態度を見せながらも自分のスタイルを持った伊集院静の分身のようなものだと思っています。

12月14日

 書感です。

「アメリカ居座り一人旅」
 著者:群ようこ
 出版:角川文庫
 定価:480円
 初版:平成3年1月25日
 関連書感はこちら

 自分では旅行なんて滅多に行かないのに、または行かないからか僕は旅行記が好きで、いろいろと読みます、旅行記と言うか、外国の話を読むのは好きですね。日本人の視点で海外を書いたものが好みです。それで本当にその国の事を理解できるのかと言われればできないと言わざるを得ませんが。そもそも理解したくて読んでいるわけではないからいいのです。
 さて、この「アメリカ居座り一人旅」は群ようこが「アメリカには何かがある」と信じて渡米したときの体験を綴ったものです。旅行もせず、かと言って勉強するわけでもなくただ現地でアルバイトをしながらだらだらと過ごすというようなものを書いてしまうのは群ようこくらいでしょう。
 最初は英語もまるでわからず、当てにしていたニューヨーク在住の叔母は出張でパリへ行ってしまい、何も知らない土地に放り出されてしまうのですが、普通こういったものに書かれる不安などではなく叔母やアメリカ人に対する文句ばかり書かれているのがなんともおかしいです。
 普段から、普通に話をしているだけでおもしろい人っていますよね。群ようこのエッセイはまさにそのパターンだと思います。普通に困ったり文句を言ったりしているだけなのに、端から見るとおかしいという。
 そんなキャラクターだからこそ、アメリカでもなんとなく好意的に接してもらえたのではないかと思います。
 行った場所がアメリカだから、というのではなくそれが中国であってもイギリスであってもおそらく同じような幹事だったのではないでしょうか?
 文章から考えても別に暖かい人柄だったり、美人だったりするわけではないのにやたらとかまわれるのは、本人の素のリアクションが言葉の壁を越えて作用するからなのだと思っています。
 旅行記というのは異国情緒を味わったり、海外に対する知識を得たりするのが主目的で読むものかも知れません。
 ですが、この本に関してはそういう役にたつところはまるでないのです。書かれていることにも大分、主観が入っているだろうということが露骨にわかります。結局、群ようこのエッセイは群ようこが面白くて読む作品なのでしょう。
 一つ、役に立つとすれば海外へ行ってもこれだけマイペースでいられる人間がいるという事への安心感かも知れません。

12月15日

 書感です。

「時をかける少女」
 著者:筒井康隆
 出版:角川文庫
 定価:417円
 初版:昭和51年2月25日

 筒井康隆と言えば毒のこもった短編しか読んだことがなかったのですが、この表題作「時をかける少女」は実にオーソドックスなSF作品です。

 無人のはずの理科室でした物音の正体を確かめようと実験室に入った和子は、割れた試験管からこぼれた液体のラベンダーに似た香りを嗅いでしまう。その日から、和子の周囲で次々と起こる奇怪な現象。そう、彼女は時間跳躍の能力を身に付けてしまったのだ……。

 本自体は作品集で表題作を含め、3作が収録されています。
 調べてみたところ、「時をかける少女」はなんと4度も映画化・テレビドラマ化されていると知って驚きました。作品自体は至ってシンプルな造りで、能力の謎解きから解決までまさに2時間の映画を作るために書かれたような筋。しかし、今となってはこういう話が当たり前になってしまい、多少退屈に感じるかも知れません。それでも、そういった作品の原点を見るという意味では意義深いかも知れません。
 余談ですが高畑京一郎の「タイム・リープ(メディアワークス刊)」は明らかに「時をかける少女」が下敷きですし、つい最近読んだ宮部みゆきの「蒲生邸事件」でもタイムトラベルの話題の中にこの作品が出てきます。それだけあちこちに影響を与えていると言うことですね。ちなみに「タイム・リープ」は練り混まれたプロットで読者を引き込む傑作でした。
 さて、読んでいて一番面白かったのは二作目の「悪夢の正体」です。これはSF作品ではなく、ミステリに近いかも知れません。主人公の少女が自分の恐怖症を分析していくうちに周囲の人々の苦手の原因をつきとめ、解決していくというもの。
 ごく普通の日常の中に疑問を見つけ、いろいろと推理するというのは小説の主人公でなくても出来ます。逆にそういった当たり前のものを題材に傑作を書けるのは作者に力量があるからないのですね。
 三編目の「果てしなき多元宇宙」はいわゆるパラレルワールドものですが、子供だましという感の強い単純なパニックもので残念。どうやら3つともジュニア向けに書かれた作品らしいのでそのへんは仕方ないのかも知れません。
 先の「時をかける少女」の映画については検索エンジンを使って調べたのですが、その話題のページがかなりの数見つかって驚きました。僕はどの映画も見ていないのですが近々DVDも発売されるということで、少し興味は持っています。


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