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12月16日

 ここ数週間、通勤、通学、帰宅時の電車の遅れが目立ちます。僕は中学のころから電車通学をしていますが、今までこんなに集中して電車の故障や事故が続発した記憶はないです。
 先週も二回ほど山の手線が止まり、そのために渋谷ー新宿間の埼京線は大混雑でした。
 東京近辺は得に路線も運転感覚も密集しているのでどこかで何かがあると多くの路線に影響が出ます。
 朝などもそれなりに余裕を持って家を出ているのですが、電車一本の遅れによって連鎖的に遅くなり、遅刻してしまうこともしばしばです。
 いつも定刻通りに走っている電車ですが、こういう事が続くとそれがいかに難しいことか実感できますね。車両や信号機の故障などは会社側の点検の問題なのでしょうが、人身事故や踏切事故などは防ぐのが難しいですよね。
 普段はJR赤羽駅で京浜東北線を降り、埼京線に乗り換えて渋谷まで出ていますが、このとき、乗り換えの待ち時間はほとんどゼロです。毎日、埼京線のホームにつくと同時に埼京線が入ってきます。時刻表は分単位で書かれていますが、電車の先頭に乗って窓から運転席に置いてあるダイヤグラムを見たりするとやはり秒単位で書かれてます。電車の運転は人間がしているわけですから、この正確さってすごいですよね。まさに職人技です。
 僕は家から駅まで歩いていくとき、信号待ちをするのが嫌なので歩く速さを調節して歩きます。先に見える信号が赤だったらゆっくり歩き、青だったら急いで歩くわけですね。毎日歩くところなのでだいたいの感覚は把握しています。スタート時の信号の条件が毎回違っても経験から速度を調節することによって、信号で止まらずに駅まで歩くことができます。
 電車の運転もそれと同じようなものでしょうか?
 電車の場合は速度計があるので、場所を決めてしまってどこからどこまでは時速何キロ、というように走っているのかも知れませんね。どちらにせよ非常に微妙な調整が必要な事は間違いないでしょう。
 一時期、TAITOの「電車でGO!」という電車運転ゲームがはやったりしました。僕は数回チャレンジして散々だったのでそれでやめてしまいましたが、一見単純な操縦でもそういう微妙な要素があるためにゲームとしてヒットしたのだと思っています。
 電車が多少遅れたりしても仕方ないと思って流せればいいんでしょうが、学校や会社に行くときとか早く帰りたいときにいらいらするのは止められません。時刻が正確というのは素晴らしいことでも、それが当たり前となるとちょっと辛いですね。

12月17日

 書感です。

「新世紀エヴァンゲリオン(コミック版) 1〜6巻」
 作者:貞本義之
 出版:角川コミックス
 定価:540円
 初版:2000年12月15日

 一時、話題を独占した人気アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のキャラクターデザインをつとめた貞本義之が書き下ろしたコミックがこの作品。
 確かテレビ放映と同時期に始まったはずですが、進行の遅さが半端ではなく放映が終わってから数年経った今もまだアニメのストーリーを追っています。5巻が出てからもだいぶ経っているので作品の存在すら忘れていました。本屋で6巻を見つけたときも買うかどうか迷ったのですが、テレビ版でも話題になった結末がどう片づくのか興味があったので結局購入。
 話の大筋としては変わらないものの、登場人物の性格設定や人間関係などが微妙に違っています。結局のところ、コミックとアニメという表現形態の違いの他にも物語の見せ方というのはそれを作る人によってずいぶん違うんだなという印象です。
 主人公の碇シンジもコミック版だと割と普通の少年。
 疑問を感じてしまったらまるで前には進めない、何事にもポジティブにはなれないアニメ版とは対称的です。
 こうしてコミックで読んでいると、筋は同じなのにそれほど特異な感じがしません。アニメ版の方は演出の隅々まで他の作品とは違うという匂いが行き渡っていたのでしょうね。
 無難に多くの人に受け入れられようとしたのではなく、これでもかと言うほど自己主張することによってエヴァンゲリオンはあれだけの話題作になったのだと思います。
 さて、貞本義之はNHKで放映された「ふしぎの海のナディア」などのキャラクターデザインでも知られていますが、実にあっさりとした絵を描く人です。それだけに凄惨な場面や人物の表情などが映えています。ですが、作者独特の主張というものが見えてこないのはやはり既存の作品のコミック化だからでしょうか?
 結論というものを出さずに終わったアニメ版に対し、コミックのほうがどのような結末をつけるのかが楽しみです。

12月18日

 小説やエッセイと違って、コミックからはなかなか作者って見えてきません。コミックのインパクトって絵からくるものが大きいからなのでしょう。もちろん、絵柄にもある程度性格って出るのかも知れませんが、文字から読みとれるほどわかりやすくはないですよね。
 だからと言うか、巻末やカバーにある作者の一言やあとがきなどのコーナーが好きです。
 中でも面白いのは荒木飛呂彦です。荒木飛呂彦は「ジョジョの奇妙な冒険」などホラータッチのストーリーと独特の絵柄で知られていますが、カバー折り返しに載っている写真と文は内容から想像できないようなさわやかさ。作品の内容に触れているのは最初だけで、途中からは日常のささいな出来事や趣味の話、疑問に思っていることなどが書かれています。
 週間連載の作品でも単行本が出るのは2ヶ月か3ヶ月に一度だけ。ですから、年に4〜6回だけ連載するコラムといったところでしょうか。
 鳥山明の単行本にはその作品の苦労話などが載っています。
 氏の場合は、自画像がわりにガスマスクをつけたロボットのようなものがいつも描いてあって、それに親しみを憶えてしまいます。
 ファンサービス旺盛なのだと「うしおととら」「からくりサーカス」の藤田和日朗です。表紙見返しにはアシスタントとの日常(?)が描かれています。かなりギャグ調にデフォルメされていて、仕事に追われて疲れた人間が半分自棄になって描いているのではないかと疑ってしまうような内容。
 表見返しには作品に対するコメント、裏がスタッフ漫画で巻末には別におまけがついたりします。
 漫画家を描いた作品では藤子不二夫の「まんが道」などが有名ですよね。ずいぶん昔、分厚い愛蔵版で読みました。思えばあの作品で漫画家そのものに興味を持ったのかも知れません。
 また、島本和彦の「燃えよペン」は自らの漫画に対する熱い思いを描いたものです。これはあまりに熱すぎてもはや暴走していると言ってもいいくらいなのですが、この作品を作者に重ねる人はかなり多いらしいです。作品中でも漫画を描くために恋人を失ったり、自分のバイクを燃やしたりと大活躍(?)
 それでも「この作者は本当にやってそう」と思ってしまうような迫力があるんです。
 そう言えば「ヒカルの碁」もところどころに原作のほったゆみが描く漫画が載っています。
 連載だけではなかなか顔の見えないコミックでは、こういったおまけも楽しみの一つですね。だから僕はいつも単行本を中心に読んでいます。

12月19日

 書感です。

「ファインマンさんは超天才」
 著者:C・サイクス
 訳者:大貫昌子
 出版:岩波書店
 定価:2400円
 初版:1995年12月15日

 リチャード・P・ファインマンは1918年生まれの物理学者でノーベル賞、アインシュタイン賞を受賞。今日の物理学を作った人間の一人としてあまりに有名な科学者です。
 岩波書店はファインマンの著書「ファインマン物理学」をはじめとして「ご冗談でしょう、ファインマンさん」「困ります、ファインマンさん」などファインマンの著作を出しています。自伝や伝記は、いかにその人物が苦労したか、どれだけ優れた人物だったかなどで埋め尽くされているものですが、このタイトルを見ればわかる通り、ファインマンさんだけはちょっと違うなという感じです。どちらも原題の通りではありませんがタイトルに内容を込めたという意味ではかなりの傑作だと思います。ちなみにこの「ファインマンさんは超天才」の原題名は"No Ordiinary Genius"となっており、直訳すれば「並はずれて天才」とでも言うところでしょうか。
 著者であるC・サイクスはイギリスBBC出身のドキュメンタリー映画プロデューサーで、彼がファインマンについて多くの人間にインタビューし、その内容を編集してまとめたのが本書となります。
 ファインマンは1988年に亡くなっていますが、生前の彼のインタビューが三分の一近くを占めており、彼の主張と周囲の彼に対する見方を本当に生の声として読むことができます。
 僕は元々、物理が好きで理系に来た人間ですが、数学はとことんまで苦手です。この本を読んで共感を憶えたのはファインマンも物理をあくまで現象の連続として捉えており、それを表すために数学を使っていると言うことでした。それぞれの現象を理解していれば数学を使わなくてもほとんどの現象を説明することはできるわけです。
 もっとも、ファインマンは並はずれた数学能力を持っているからこそ多大な活躍をしたわけですから、数学が必要ないという事ではありません。
 科学者という言葉から思い浮かべるイメージは人によって様々でしょうが「研究に没頭する」という言葉からは研究室にこもりがちな人間を想像すると思います。
 しかし、この本で語られるファインマンはあらゆることに楽しみを見いだし、分析能力を発揮して実に愉快に生きています。詩を楽しみ、自ら絵を描き、様々な事を研究しようとするのです。そして、その中心には常に物理学があります。
 自己主張が強く、皮肉屋で、自由奔放な性格は敵をも作ったでしょうが、同時に周囲の人から愛される存在でもあったようです。
 少年時代から始まって原爆の開発、ノーベル賞の受賞、スペースシャトル・チャレンジャーの事故調査委員時代など様々な時期の彼の姿がインタビューの中に見えてきます。
 死の中にまで科学を見いだした生き方には激しい感動を憶えました。
 この本は、理科が好きじゃない人にこそ読んでほしいと思います。これで科学や理科が好きになるとかいうことではなく、科学や理科というものに対してこういう考え方をする人がいたんだと言うことを知って欲しいです。
 ファインマンの様な師に巡り会えた人は幸せでしょう。

12月20日

 書感です。

「聖域」
 著者:北方謙三
 出版:角川文庫
 定価:520円
 初版:平成5年3月25日

 ハードボイルド小説、ブラディ・ドールシリーズの第9弾です。このシリーズは10巻完結なので、そろそろ終わりに近づいてはいますが、今回は閑話休題と言ったところか、それまでの流れにはあまり触れずに話が進みます。
 高校の日本史教師、西尾は家出をした生徒、高岸を追ってN市にやってくる。捜索を妨害するやくざたちに殴られた西尾を助けたのは、バー、ブラディ・ドールの下村だった。
 戦う力を持たない西尾。教師として、ということではなく何かに駆り立てられた彼は、暴力団の抗争の中に巻き込まれていく……。
 第9作ともなると、出てくる人間は今までの主人公ばかり。
 出てくる人間は当たり前のように川中のバー、ブラディ・ドールで酒を飲み、秋山のホテル、キーラーゴに入り、キドニーこと宇野の法律事務所を訪ねます。主人公が街を試しているのか、それとも川中の仲間達が主人公を試すのか。
 これまでの登場人物たちは暴力に関わることがなくても医者だったり芸術家だったりと、どこか一般人とは違う存在。前作の主人公、立野も登山が趣味で生死に関わるような体験をしているということでどこか普通とは違う風格を持っています。
 しかし、今度の主人公は日本史の教師。それまでに喧嘩をしたことどころか殴られた事もないという人間です。
 冒頭、西尾は遊びで川中のポルシェを脅かそうとチューンナップしたカローラレビンを飛ばしたものの、予想を超える川中のドライビングテクニックに敗北します。
 直線でなければどんな車にも負けないと思っていた彼は、川中に「車と技術の限界までだな」と評されています。この時点で西尾はまだ川中たちと同じ世界に生きてはいません。
 しかし、自分の教え子がやくざの世界に身を投じたと知ったとき、彼の中にあった何かが燃え出します。いつもそうですが、ブラディ・ドールのメンバーたちは誰にも火をつけません。川中が周囲に影響を与えるわけではなく、火のついてしまった男達を川中が惹きつけているのです。
「男」ということにこだわった教え子、高岸。それを連れ戻そうとする西尾。師弟関係でありながら、ライバルのようでもある二人がN市を再び熱くします。
 今回、少々不満だったのが前作主人公の立野がまったく出てこなかった事。こんなことは初めてですが、東京在住という設定上仕方がないのかも知れません。
 自作「ふたたびの、荒野」が最終編。
 読むのが勿体ないです。

12月21日

 書感です。

「ARMS 15巻」
 作者:皆川亮二
 出版:小学館サンデーコミックス
 定価:486円
 初版:2001年1月15日
 関連書感はこちら

 主人公である高槻涼たち、通称ARMSは腕、足、眼などの各部分に埋め込まれた結晶によってナノマシンを制御し、人間の想像を絶する力を発揮することができる。その力を狙う国際的複合軍事組織、エグリゴリこそがARMSを生み出した元凶だった。
 ARMSは人類のテクノロジーの結晶などではない。ある時、宇宙から飛来した隕石から人類が取り出した禁断の技術だったのだ。過去から続く因縁に巻き込まれていくARMSの4人。
 しかし、彼らには運命という言葉などない。自分と仲間を信じてどんな敵にも立ち向かっていく……。
 一時期からずいぶんと長く続いた回想シーンも一段落し、いよいよ敵の本距離に乗り込んだARMSたち。未だ昏睡状態から冷めない巴武士の抜けた穴を埋められないまま最後の戦いは近づいています。ただ燃えさかるだけではなくなった神宮隼人。自分の力に怯えるのをやめた高槻涼。そして、自らの眼の役割を知った久留間恵。チームが健在である限り、彼らに敵はないというほど成長した彼らですが、エグリゴリの組織内にはオリジナルを元にしたアドバンストARMSの移植者、ブラック、シルバー、グリーン、バイオレットと4人のキースシリーズが待ち受けています。チームを組むことによって本当の力を発揮した涼達と同様、キースシリーズも4人そろって本来の力を発揮するのか?
 常に自信を持って一人ずつで行動する彼らは、性格も目的もまったくばらばら。主人公達と対称的な存在です。しかし共通するのは、キースシリーズもARMSも同じエグリゴリの中枢から生まれたと言うこと。そして、キースたちさえARMS最大の謎であるアリスの呪縛から逃れられずにいるのです。
 予想よりも早く、唐突に始まったこの最終決戦。
 この話がどこに向かうのかはまだまだ見えてきません。
 しかし、多少冗長に感じていたこのところの展開を一気に吹き飛ばすだけの緊張感があることは間違いないです。
 やはりこの作者は戦いというものを書くことに長けていて、物語も人物もその中にあるのですね。

12月22日

 仕事でも、ボランティアでも、部活でも働くには意欲って必要ですよね。もちろん、そんなものがなくてもなんとなくこなせてしまうものだってたくさんありますが、積極的に働くと言うことには一つの楽しみがあります。
 大学のサークル活動なんかって積極的になるのが一番難しいのではないかと思っています。楽しいことでも放っておくと人間はだらけがちです。上へ進もうという強い意欲があればまた別ですが、例えばだらけた集団の中で一人だけがんばるのは難しいことです。高校の部活などでは、生徒の自主性がすべてではありませんが、大学だと本格的な部活でもない限り監督などいません。
 はっきりした目的意識があって団結しないときちんとした活動は難しいですよね。もっとも、サークルは趣味の団体のようなものですからそれでいいのかも知れません。
 中学、高校時代に所属していた部活は学校行事に深く関わっていて僕らなしでは行事そのものが成り立たないような状況でしたが、割と先生なども指導を受けることもなく計画を立ててしっかりと活動していました。それでも、面倒を見てくれるOBなどがいたから出来たのかも知れませんが、自分たちで行動するということに深い満足感を憶えたものです。
 しかしそういう感覚は、自主的に行動するのが当たり前の世界になると得られないものですよね。ある程度は周囲との比較によるものなのかも知れません。
 アルバイトなどの場合って、主目的はお金をもらうことですが長時間職場で過ごす事になるのでやはり楽しかったりやりがいがあったりしないと成り立ちません。時給で働いているときは多少の残業などは歓迎したりもします。
 毎日、夜遅くなったりして生活が浸食されるとちょっと厳しいとは思いますが、それなりの評価が帰ってくれば嬉しいものです。
 アルバイトなどをしていてたまに感じるのは、社員だとある程度の事が保証されていてそれなりの給料の出るので定時で仕事してのほほんと過ごしている人もいるということですね。
 そういうのを見ていると、働く意欲というものをなくしたくないなって思います。つまらない仕事ばかりだと思ったらそれなりの需要を作ってやっていけば良いのではないでしょうか。
 もちろん、それぞれにそれなりの苦労はあるでしょうが。

12月23日

 書感です。

「鋼鉄都市」
 著者:アイザック・アシモフ
 出版:ハヤカワ文庫SF
 定価:560円
 初版:1979年3月31日発行
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 アシモフには「ファウンデーション」など、銀河を舞台にした歴史物と「われはロボット」のようなロボットと人間をテーマにした作品群があります。
 この「鋼鉄都市」はその2つの両方の要素を持つうえに、物語のメインは殺人事件の捜査でミステリ色が強く、かなり豪華な内容です。

 遠い未来、地球人類はシティと呼ばれる閉鎖空間に住んでいた。一方、はるかな昔に新天地を求めて宇宙に旅立った人類は銀河系に散らばり、地球人類より一歩上の技術と文明を有して宇宙人と呼ばれている。
 主人公ベイリはニューヨーク警察の私服刑事。ある日、親友でもある上官に呼び出された彼は宇宙人殺害という前代未聞の事件を担当させられる。
 宇宙人と、その技術の象徴であるロボットに劣等感を持つ地球人類だが、物理的に、政治的にも問題の大きい宇宙人殺害という犯罪を誰が実行するというのか。
 捜査の中、ベイリは人類の行く末に思考を巡らせる……。

 アシモフのロボットシリーズでおなじみなのがロボット三原則。そのために決して人間に逆らうことなく、人間のために奉仕する存在であるロボットに対し、何故人間は劣等感を抱くのか?
 科学の粋を集めた都市に住み、どんな人間でも最低限の生活が保証される未来で、何故人間は過去を懐かしむのか?
 この物語に出てくる地球人類達は、誰しもなにかのコンプレックスを感じています。ロボットは人類の発展に貢献しているし、シティの外に出たら人間は生きていけない。それでも、シティを破壊し、人類を昔の姿に戻そうとする解雇主義者達は存在します。
 登場する「宇宙人」たちは人間よりもむしろロボットに近い存在です。その思考は冷静で乱れがなく、無駄な感情に動かされる事はないのです。説明だけを聞くと冷たい人間のように思える彼らですが、アシモフはその思考の必然性を実にうまく説明しているため、読んでいて宇宙人やロボットの思考に納得してしまうのです。
 そして登場するのが宇宙人の側から捜査のために派遣された刑事ベイリのパートナー、R・ダニール・オリヴォー。
 究極のロボットとも言える彼はまったく人間と変わらない外見と話し方、立ち居振る舞いを身に付けています。
 その能力は有能なベイリをも嫉妬させ、彼にも自分の位置がロボットにとって変わられるという危惧を抱かせます。
 ベイリは割と直情的で、猜疑心も強い人間です。
 その思考は時に読者をいらいらさせるかも知れません。
 しかし、情熱を持って捜査に望み、トライ・アンド・エラーを繰り返すうちに段々とその性格に惹かれていきます。自分が能力を発揮しだすと共に、彼のR・ダニールに対する感情もまた編かしていくのです。ロボットと人間の、信頼関係は主従ではなく仲間として行動したときに初めて生まれていきます。
 人間とロボットで作る新たな世界が、地球人類に受け入れられるのか。この世界の未来は非常に気になるところ。
 「バイセンデニアル・マン」ではロボットの「進化」を描いたアシモフですが、今度は進化したロボットが人間を新たな世界へと導くという可能性を示します。
 アシモフの世界に、限界はないようですね。

12月24日

 23日は高校の部活仲間で集まっていました。
 僕は高校で合唱部と科学技術部というところで主に活動していて集まったのは科学技術部のメンバーとです。
 一応、部とは書きましたが僕の中学、高校は部活ではなく班活動と言ったので、合唱班と科学技術班なんですけどね。
 科学技術班、通称「科技班」はアマチュア無線や電子工作、コンピューターなどを使った活動をするところでした。
 僕は主にコンピュータープログラミングをやっていて、大学に入ってからもだいぶ役に立ちましたし、理科的な発想というのはみんな科技班で身に付けたものです。
 僕が中学生の当時はNECのPC-9801が全盛で、部室(何故か班室とは言わない)には数台の9801があり、みんなそれを使ってプログラミング技術を磨いて、自作のゲームで遊んだりしたものです。
 そういうところに集まっているメンバーだからみんな数学や理科が得意かと言うとそんなことはまるでなく、特にここ数年は文系の人間も増えているようです。
 今でもOBとして時々、学校には顔を出しています。僕が中高生だった頃もいろんなOBが部室に出入りしていて、いろいろと教えてもらったりしたものです。特に大学というのは未知の世界だったのでいろいろ話を聞きました。
 今回の集まりでも、今年大学に入ったばかりの後輩が何人かいました。割と情報系に行く人間が多い中、今年の後輩は美術系や文学系がいたりして個性的。
 なかなか興味深い話しも聞けましたが、この前まで高校の制服を着て歩いていたのに自分の専門についていろいろ語ったりするのは面白いですね。
 だいたい共通して言えるのは、みんな好奇心が強いので専門に限らずいろいろな知識を持っているし、勉強もするということです。
 だからこちらもいろいろと話しがいがあります。
 話した事をそれぞれが自分の言葉でかみ砕いて返してくるのが何よりも心地よく、つい何時間でも話し込んでしまいます。
 僕の学校は男子校だったので、男ばっかりクリスマスイブの前日に集まっていたのですが、とにかくみんな飲んだり遊んだりするより話すことに集中します。
 結局、飲み会の後はみんなで僕の部屋に来て、朝までいろいろ話したりしていました。
 なかなか集まる事もないですが、会ったときには濃い時間が過ごせる仲間たちとのつきあいはこれからもずっと続くんだろうなって思っています。

12月25日

 物事には因果関係がありますよね。学問というのはすべからく因果関係を見つける、または予想するものだと思っています。シャーロック・ホームズがワトソンに対して推理の道筋を説明するときに「1+1がなぜ2になるのか説明するのが難しいように、僕の推理の過程を説明するのは難しい」というような事を言っていました。結局、ホームズはそれを説明できるわけですがこれができないとただ勘が良い人か超能力者になってしまいますね。言葉で説明できて初めて、思考が人に伝わります。学問も同じで、それを他人に理解できる形にできなければ成り立ちません。
 ホームズシリーズの推理ってよくやり玉にあげられます。つまりは証拠が不十分だったり、推理そのものに疑問があったりと言うことが言われますね。もちろん、そういうのを指摘するのは熱心なファンですし、そういう不備があっても魅力が尽きることはないと主張するのですが、僕はそういう考え方ってあまり好きではないです。
 ホームズが「説明が難しい」と主張するように、物事の因果関係は一対一ではありません。プロの棋士が一般人を遙か越える数の手を読むのと同じように、普通の人間では考えられないほど多くの要素を計算に入れて推理しているのではないでしょうか。
 さて、話を元に戻すと、例えば理系の学問を説明するために数学を使いますが、数学というのは複雑に絡まり合った因果関係を全て一対一のものに分解して処理するためのものだと思っています。僕は一応、理系の学生ではありますが、数学がとにかく苦手です。小学校のときの算数はむしろ得意だったのでなかなか不思議ですが、高校数学で微分積分のあたりに入った頃から自分の直感で数式が把握できなくなったために苦手になったのだと思っています。
 僕にとって、理科っていうのもすべて普通の言葉で説明できるものなんですね。最もそれでは本当に意味で学問的な勉強はできません。知的好奇心レベルで止まってしまいます。
 だから、学問が面白いなんて言える立場ではないんですが、物事の因果関係がわかるというのは他に変えられないだけの刺激です。
 疑問に思うことがあって、それを調べて「なるほど」って思ったり「それは違うだろう」って思ったり。
 毎日の生活はそういうものの繰り返しです。
 学校にも、バイト先にも、そしてもちろんインターネットにも山のように転がっています。
 好奇心があれば、それは一生楽しめるでしょう。

12月26日

 書感です。

「愛をください」
 著書:辻仁成
 出版:マガジンハウス
 定価:1500円

 菅野美穂と江口洋介の主演でドラマもした作品ですが、ドラマの方は全く見ていません。この本は、メールフレンドに薦められたもので、僕はここに出てくる基次郎に似ていると言われました。実際に読んでみるとそんなに立派ではないので赤面ものですが、ある種の理想であることは間違いありません。
 この小説は主人公、李里香が突然舞い込んだ基次郎からの手紙に出した返事から始まります。養護施設で育ったということだけが共通点である李里香と基次郎は、手紙のやりとりを通じて互いに対する理解を深めて行きます。しかし、これはよくある恋愛ものとは違うのです。最初に交わされる「決して会わないで手紙のやりとりだけを続ける」というルールがこの物語を面白くしています。
 文字のやりとりと言うのは、不思議なもので、口では言えない事をいろいろ書けたりします。増して、遠くに住んでいる自分の知らない人だからこそ近くの人間には言えない真実を語れるのかも知れません。しかし、そういう条件だからこそ自分を偽って書くことが出来るというのもまた事実です。
 親から捨てられたという記憶のため、人を信じる事ができないという李里香は最初、基次郎の手紙にも疑いのまなざしを向けます。それが悪意でなくとも、自己満足やちょっとしたいたずらではないかという疑念はしかし、淡々と語る基次郎の手紙に溶かされていきます。
 最初は固かった文体がだんだんと柔らかくなり、女の子らしくなっていくにしたがって、ただ暗い気むずかしいという印象だった李里香が普通の女の子と同じような内面を持っているという事実に読者も気づかされるのです。
 そして、抽象的だった手紙の内容がが具体的になり日常生活を語るようになって生き生きと李里香が見えてきます。
 手紙というのは書き手の主観によって書かれたものです。しかし、神の視点とも言える三人称とは違い、それは書き手の気分や境遇に左右されるため、よりいっそう読者の想像力を刺激するのではないでしょうか。
 作品が二人の手紙のやりとりで構成されているのにも関わらず、この物語の主役は李里香なのだと思えます。
 基次郎は23歳の若者でありながら、どこか普通の人と違う大人びた視点を持っていて、ひたすら李里香を見守るような暖かさがあるのです。
 想像のうえでそういった人物を書くのは簡単に思えるかもしれません、しかし著者はこの文通に基次郎という人間の大きさを納得させられるだけの結末を用意しています。
 電子メールや電話で気軽に連絡をとれる時代に、手紙という手段でやりとりするだけの意味はとても深いです。
 メールでいろんな事を語り合うのに慣れてしまった僕にはまねできないなって思いますが、ここで語られるのは文通のすばらしさではないんですね。どこにでも、大切にできる人間関係はあるということではないでしょうか。

12月27日

 書感です。

「あずみ 20巻」
 作者:小山ゆう
 出版:小学館ビッグコミックス
 定価:505円
 初版:2001年2月1日
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 あずみが新章に突入してから3冊目。
 これまでの「生き残るために戦う」という状況から、隠密となって任務のために戦う事になり、違和感のあったストーリー展開でしたが、ようやく作者の意図が飲み込めてきてしっくり読めるようになりました。

 北国に独立国家を作り謀反を起こそうとする動きを探り、争乱の芽を摘むよう命令されたあずみ。これまではただ向かってくる相手を倒せば良かったが、自分で斬る相手を捜さなければならない任務に慣れず、戸惑うあずみはその国で様々な人物と出会い、想像以上に複雑な策謀の渦に巻き込まれる……。

 あずみの初恋の相手、俊二郎は武士の生まれでありながらも力を嫌い、医術の道を目指し、理想に燃える青年でした。一度は死んだと思われていた彼ですが、北国編で再登場。その志は身分の差別なく人々が暮らせる国を作るという一大事業に向けられています。優れた頭脳を駆使し、様々な策謀を巡らせる彼ですが、その大きな志のためには旧友を虐げ、邪魔なものを密かに葬るという非常手段すら平気でとる人間に変わってしまっています。おまけに、その志は争乱を望む者たちに利用されているに過ぎません。これまでもあずみと心を通わせたものたちは悲惨な最期を迎える事が多かったですが、この俊二郎の変わり様には驚きました。
 その俊二郎と対照的なのが争乱の旗印である静音。最初は疑いの眼を向けていたあずみもその無私な性格と質素な生活ぶりに心を打たれます。静音の「何が夢や望みか」という一言こそ、この第二部にとって最も重要なものなのではないでしょうか。第一部の逃亡の旅の途中、あずみは行きがかりで知り合った人々を苦しめる者を斬っています。悪を憎む心はあっても、あくまで親しい人々のために戦っていたのです。
 しかし、隠密として働く今、あずみは大義という抽象的なもののために働かなければなりません。何が正義で何が悪か。
 その判断は今、あずみに任されています。
 しかしそれがいつまでも続くのか。もし理不尽な任務が来たときあずみはどうするのか。そういった疑問が作品を面白くしているようです。

12月28日

 書感です。

「母なる地球 -アシモフ初期作品集3-」
 著者:アイザック・アシモフ
 訳者:冬川亘 他
 出版:ハヤカワ文庫SF
 定価:660円
 初版:1996年8月31日
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 多作と言われるアシモフだけあって「初期短編集」と題されている本(原題はThe Early Asimov)だけでも3冊あります。
 この短編集も同時にエッセイ集であり自伝とも言えるアシモフ独自の形式で、本人の境遇や苦労話と一緒に作品を読めるのが楽しいです。
 この作品群はアシモフが学生時代に小遣い稼ぎとして書いたものが中心です。SFというのは時代と共に古くなっていくようなイメージがありますが、まるで古くささを感じない傑作ばかりです。最初の「著者よ、著者よ!」は人気作家が自分の作品の登場人物に遭遇し、翻弄されるというコメディ調の小説。
 小遣い稼ぎのために読者に媚びた小説を書き続けたせいで他の小説を出版社に受け入れられなくなったという主人公の境遇にアシモフを思わせるようなところはまったくありませんが、出版界の様子などは実際の見聞を元にしているように思えます。もちろん、大げさにユーモラスに書いているのですがこれを笑えない人もいそうですね。
 他はすべてSF作品です。第二次世界大戦前後に書かれたものが多いせいか、戦争や人類の未来に言及した作品が多いです。
 しかし、そういうテーマを持ちながらも一つ一つに軽妙な話運びや強烈なオチを用意しているのでテーマというよりはネタとして核や戦争を使っているという感じがします。
「死刑宣告」や「関連なし」は途中までの平穏な様子と最後のオチとのギャップが面白い作品です。どちらも皮肉たっぷりに書かれています。こういった短編は何が面白かったのか説明するとつまらなくなってしまうので残念ですが、ある意味では映画「猿の惑星」にも似たものがあるかも。
「袋小路」はSFでなくても成り立つ作品ですが、SFにしたことによっておかしさが倍増しています。誰もあまり好感を持たないであろうと思われる官僚的な登場人物が読み終わった後にはヒーローとなっているのが面白い。
「赤の女王レース」はコメディと紙一重のような作品ですが読んでいくとだんだん事態の深刻さが増してくる作品。タイトルは「鏡の国のアリス」からです。
 そして表題作の「母なる地球」は前に紹介した「鋼鉄都市」の原型ともなる作品ですが、ただそれだけではなく完全に独特の味を持っています。これまでに僕が読んだ作品にはない政治的な要素があり、アシモフの多才という印象がより深くなりました。「ファウンデーション」シリーズはまだ未読ながら、こういったテイストの作品なのだろうと想像します。
 さて、3巻から読んでしまったこの初期短編集。
 逆順ということで次は2巻を借りてみようかなと思っています。

12月29日

 書感です。

「ふたたびの、荒野」
 著者:北方謙三
 出版:角川文庫
 定価:583円
 初版:1993年6月10日
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 ハードボイルド小説「ブラディ・ドール」の最終巻です。

 地方都市、N市にあるバー「ブラディ・ドール」は何かを無くしてしまった男達が集う場所。オーナーの川中良一は急速に発展するN市で、図らずも抗争の中心となっていく。政治家、大河内の手が伸びて多くの人間が死に、川中の最後の戦いが始まる……。

 1巻の主人公、川中良一が再び主人公「私」となる今作は、出だしで流れた歳月の長さを実感。2巻以降、川中は街の中心人物として主人公たちを惹きつけてきました。これまでの主人公たちが人なつっこい笑顔の裏には暗さを秘めていると表現した川中の内心が一人称でダイレクトに書かれると、これまでの物語で川中が失ってきたものの大きさに気づかされます。
 自分の店を持って成功し、釣りをしたりポルシェを飛ばしたり、好きなことをして過ごす生活。彼がそういったものを心から楽しんでいることは間違いないのですが、それでもどこかに違和感があるのです。
 ハードボイルドというと、とにかくかっこいい男が出てきてかっこいい台詞を言うというイメージです。この「ブラディ・ドール」シリーズはまさにそれ。酒や車にこだわるように自分の生き方にこだわり、理屈では割り切れない事をする。
 短い強烈な言葉で人生を語り、死んでいく。
 一歩間違えればキザなだけになってしまうのに、彼らが格好良く見えるのは「様になっている」からなのでしょう。
 ポーズではなく、本気でそう思っているからこそ踏みとどまったりこだわったりができるのです。
 作品中に出てくる女性に「バカな男」と言われるのが彼らの誇りであるかも知れません。
 この「ふたたびの、荒野」は政治家、大河内との対決を描いたものです。しかし、大河内は最初からブラディ・ドールの世界に存在していたキャラクターではないし、川中の宿命のライバルと言うわけでもありません。
 ただ、悪には一流の悪の大物がいるという事を示した人物なのでしょう。それまで、何が起こっても「あしらってきた」というのにふさわしい川中が、今度ばかりはすべてをかけて対決に望みます。
 彼にとって「すべてをかける」というのは「命をかける」ということではありません。どんな時でも、命はかけていて、それはポルシェで海沿いの道を飛ばすときさえそうなのです。
 そういう生き方が、同じように無茶をする男達を魅了します。「死ぬときは死ぬもの」という考え方を持つ人間ばかりの作品なのに川中だけは「死ぬとは思えないし、死んで欲しくない」と願われています。
 どのキャラクターも、いつか何かで簡単に死んでしまいそうな雰囲気を持っています。だからこそ読者の立場でも、一瞬一瞬の活躍を大事に思います。いつも生還するヒーローではなく、運が悪ければ死んでしまう。西部劇のような世界がここにはありました。
「決着」というほど決定的なものは、物語の中にありません。
 しかしこの巻以降「ブラディ・ドール」の周辺にもう死者は出ない、という気がします。

12月30日

 書感です。

「頭文字D 20巻」
 作者:しげの秀一
 出版:講談社ヤンマガKC
 定価:505円
 初版:2000年12月26日
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 深夜枠でアニメ化もされた「頭文字D」、今度は6月に映画化するそうです。CGによって表現されたバトル部分は多少ぎこちなさを残すものの原作の雰囲気を忠実に際限。レース中のエンジン音の心地よさは他のどの作品にも負けないでしょう。

 プロ同然の走り屋集団「東堂塾」に挑むプロジェクトD。
 主人公、拓海は高橋涼介の作戦に従って東堂塾のエース、二宮大樹をうち破る。まさかの敗北に色めきたつ東堂塾の二番手は駆け引きに長けた酒井。

 高橋啓介のRX-7 FDと酒井のインテグラ TYPE-R TURBO、大パワー、ヒルクライムバトルが始まる……。
 市販車をチューンナップして、きついコーナーと激しいアップダウンが連続する峠を走り、その速さを競う「公道レース」
 当然ですがこれは大きな危険を伴うし、スピード違反ともなります。これまでのコミックだとどうしても不良ものに傾いていた「公道レース」を頭脳と技術の限りを駆使したスポーツものとして書いたところが成功の理由でしょうか。
 第二部のプロジェクトD編に突入してからこれまで丁寧に描いて来た人間関係や主人公の葛藤などがなくなり、ただレースをするだけの話になってきたような気がして不満だったのですがここへ来て、レースの面白さが増しています。
 ドライバーとして人間的に未熟なことが弱点ともなっていた拓海は高校を卒業し、いよいよ本格的に成長を始めているのかも知れません。それでもまだ高橋涼介という指導者の下から抜けられていない拓海。一方、チームでのライバル、高橋啓介は見事なまでの成長をっぷりを見せつけています。
 さて、東堂塾とのバトルが一段落したと思ったら、次は東堂塾OB、トモとのバトルが待っています。峠を卒業し、プロとして活躍している人間に、高橋涼介率いるプロジェクトDは太刀打ちできるのか?
 また、同じ車に乗っている以上対決は無理と思っていた拓海の父親、文太が中古でもう一台の購入を考えているのが気になります。やはり父親は乗り越えていかなければならない壁として存在するのでしょう。高橋啓介、涼介、そして父。彼らとの対決ははるかに先の事かも知れませんが、どういう対決になるのか楽しみです。

12月31日

 書感です。

「そして二人だけになった」
 著者:森博嗣
 出版:新潮ミステリー倶楽部
 定価:2000円
 初版:1999年6月20日
 関連書感はこちら

 森博嗣が新潮社ミステリー倶楽部に書き下ろした長編ミステリです。

 日本のA海峡にかけられた世界最大の吊り橋。そのアンカー部分は「バルブ」と言われ、密かに対核戦争用のシェルターが作られていた。その設計に関わった6人の男女がその中で数日間を過ごした。そして生き残ったのは2人だけだった……。

 サブタイトルは「Until Death Do Us Part」つまり「死が二人を分かつまで」ですね。
 天才数学者である兄、勅使河原潤の影武者として「バルブ」に入った弟、そして姉、森島有佳と入れ替わって勅使河原潤のアシスタントである妹。二人の一人称によって物語は進みます。そういう形式をとっている事に対して、読者は必ずその意味を考えますね。2つの側面を眺める事で、もう1人にはわからない事が明らかになっていき、それが事件の解決につながるというのが普通のパターンでしょう。
 しかし、この物語を読み進めていくと、読者は必ず壁に突き当たります。二人の視点を総合すると、必ず矛盾が生じてしまうのです。二人のうち、どちらかが嘘をついていなければ絶対におかしい。でも、何故に読者に対して嘘の描写をしなければならないのか?
 それとも、二人とも見えていないところに別な真実があるのでしょうか?
 この長編は、恋愛小説でもあります。
 バルブの中で、お互い偽物として初めて出逢った二人。
 もちろん、最初から偽物だと知っているのは読者だけです。
 彼らが好きになったのは、誰なのか?
 もし、偽物として別なところで出逢っても好きになったのか。それとも、本物がいてその代わりに偽物を好きになったのか。
 それぞれの章には、アインシュタインの相対性理論からの引用がつけられています。絶対的で揺るがないと思っているものでも視点が違えば、それは相対的なものになってしまう。
 物理的な事実というのは、一つかです。
 しかし、真実は主観によって決まるもの。
 そこに人間の解釈を通すことにとって初めて出てくる曖昧なものです。
 不安定なのは、人の心ではありません。そもそも、物理の世界にさえ絶対というものがないのです。


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