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1月16日
書感です。
「たけまる文庫
怪の巻」
著者:我孫子武丸
出版:集英社文庫
定価:476円
初版:2000年2月25日
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前回紹介した「謎の巻」に続いて今度はホラーを集めた短編集「怪の巻」です。我孫子武丸ってグロい描写が得意な人なのでホラー向きかと思っていたのですが、読んでみると怖いのはむしろこの「怪の巻」よりもミステリ編の「謎の巻」かも。
我孫子ミステリの怖さって描写によるものかと思っていたのですが、こうして読むと本当に怖いのはその心理描写なのではないかと思います。
ホラーになると作者の油断からか、あまりその辺の心理描写がないような気がするんです。もう一つは、謎の巻にあったジェットコースターのような勢いがないからかも知れませんが、そちらはジャンルの問題ですね。
僕はじわっと来るようなホラーが好きなのですが、我孫子ホラーはそのタイプじゃありません。
なんとなく古典的な話が多いなと思っていたら、実はこの作品群、そういった作品を我孫子武丸流に焼き直して書いたものだというのが解説にありました。元は笑い話だったりするのでなかなか興味深いですね。多彩な面を見せつけてくれるという点では「謎の巻」とセットになっているかいがあるかも知れません。
ただ、この人のホラーって映像にしたとき映えるものが多いですね。描写がグロいというのはただ気持ち悪いのではなく読者にその場面を具体的に想像させる力があるということです。
我孫子武丸が原作の「かまいたちの夜」はサウンドノベルというジャンルのゲームで、画面に映る文字を読んで進める小説でしたが、ちょっとした音や演出が入るだけで臨場感抜群でした。この人は器用にそういったものを計算できるという印象があります。
さて、近頃はジャンルってだんだんあいまいになって来ていますよね。元々便宜的に分けていただけなのかも知れませんが、最近の作家は特にそういう枠にとらわれないのでしょう。
「怪の巻」にもミステリ要素が多い作品はありますし「謎の巻」だってホラーと紙一重の作品もあります。収録されている巻が逆でも違和感はないでしょう。
恋愛小説だって人間の心理を深く掘り下げていけばホラーになり得ます。例えばストーカーを扱った小説はサイコホラーとジャンル分けされている場合もありますね。
我孫子武丸はまだまだ招待が不明といった感じです。
これから数冊、読んでみるかも知れません。
1月17日
書感です。
「恋のくすり」
著者:内舘牧子
出版:角川文庫
定価:520円
初版:平成5年10月25日
脚本家、内舘牧子のエッセイ集です。実を言うとこの人の作品で見たことがあるドラマは「愛しすぎなくてよかった」と「」くらいでしょうか。あ、あと「千代の富士物語」がありました。
あれは面白かったという記憶があります。
脚本家って僕にとっては割と謎の領域なので興味を持ったのかも知れません。ちなみにこのタイトルって中身とはほとんど関係がなくて雑誌に連載していたころは「ベティちゃんの地味なくらし」だったそうです。内舘牧子は漫画のベティちゃんに似ているとか。
さて、タイトルの通り「地味で思慮深い女」を自称する内舘牧子はその普段の生活ぶりを面白おかしくレポートしています。でも、正直言うとあまり「地味」ではありませんね。
テレビという華やかな世界に生きている割には地味なのかも知れませんが、歌手や俳優など普通では出会えないような人々と交友関係を持ち、誰もが見るようなドラマの脚本を書いてしまうわけですからね。
さらに言えば、自分の失敗談などを書いておきながら、文章では本当はいろいろと考えているのに表には出さないといった雰囲気を持っているため「思慮深い」というのがあまり冗談には見えなくてかえって嫌みかも知れません。
ただ、逆に言えば普通にさらっとしたエッセイを書いてしまうような人こそ世界が違っていて、テレビの世界を魅力的と感じそれを正直に伝えてしまうような人こそ我々に近いのかも知れません。内舘牧子は13年も普通にOLをやっていて、若いころからどっぷりと芸能の世界に浸かっていたわけではないので、「素人」だったころのミーハーさが感じられます。
いろんな事に感心したり、どんな事でも面白がったりと内舘牧子の生活はなかなか楽しそうです。
芸能界にあこがれたりはしないのですがちょっと嫌みに見られても「地味で思慮深い」男になって楽しい生活を送りたいところです。
1月18日
書感です。
「楽園」
著者:鈴木光司
出版:新潮文庫
定価:514円
初版:1996年1月
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鈴木光司が「リング」「らせん」でベストセラー作家となるのはこの本よりだいぶ先の事です。新潮社のファンタジーノベル大賞を受賞したものの「楽園」はメジャーな作品とはなりませんでした。
人間が自然と共に生きていた頃に結ばれた一組の男女。
部族の争いによって引き裂かれた二人は北と南からそれぞれ東の地を目指す。生涯出会えなくとも世代を越えて受け継がれた思いの結末は……。
鈴木光司は発想を広げるのが好きな作家なのかも知れません。この「楽園」は一万年前のアジアから始まる「神話」の章と18世紀の南太平洋の島を舞台にした「楽園」の章、そして現代のアメリカ大陸を舞台にした「砂漠」の章に別れています。
一つの物語の中にこれほどの時間と距離を隔てたものは滅多にないでしょう。
大ざっぱに言ってしまうとこれは恋愛小説なのかも知れません。しかし、ただ一組の出会いと別れで終わらせる事なく、部族の中に脈々と受け継がれていく血の流れに沿った歴史を展開していくことで、壮大な物語となっています。
先に読んだエッセイ「家族の絆」でもマッチョなフェミニストを自称していた著者ですが、そんな人物でもなければ書けないだろうと思うくらいこの小説には力が満ちています。
小説の登場人物達が発揮する力の源は、人を好きになる感情です。その力は不可能を可能にしたりはしませんが、人間をねばり強くし、いつか目的を達成しようという強い意志を与えます。しかも、一人の持っていた感情がその子孫へと受け継がれ部族全体を動かすだけの原動力となるのです。
男女が惹かれ合う感情が家族愛の始まりであり、その結びつきが部族の団結につながっていきます。人間ははるか昔からそういった事を繰り返したきたのでしょう。
人を好きになる感情はどこから来るのだろうか、とこの本を読んでいると思います。
現代のアメリカを舞台にした「砂漠」の章ではただ一瞬の出会いから惹かれ合う男女が出てきます。そこに、理由はないのです。二人は一万年前に生き別れた男女の末裔ですが、それを運命という言葉で理解しようとは思いません。人類の長い歴史の中ではどんな二人だって祖先のどこかに交わりがあったのではないでしょうか。
人類とそのものが一つの生命体だと考えたとき、それを生かしているのが人と人との結びつきです。例え個々の細胞が滅びても生命体としての存続は続きます。想いは長い時間巡って再び形になることもある……。
「楽園」にはそんなメッセージが込められているような気もします。人生という百年足らずの中では見ることのできない夢を、鈴木光司は描いたのです。
1月19日
まぐまぐサーバ障害のためお休みしました。
1月20日
書感です。
「今夜はパラシュート博物館へ」
著者:森博嗣
出版:講談社ノベルズ
定価:800円
初版:2001年1月10日
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お馴染みのミステリ作家、森博嗣の短編集です。
この人の短編集はかなりバリエーションが豊かでいろいろな楽しみ方ができるのですが、実験的だったり難解だったりすることも多いです。
今回は犀川創平&西之園萌絵シリーズの話が2つで、瀬在丸紅子シリーズの小鳥遊練無と香具山紫子が出てくる話が一つでファンサービスはなかなか旺盛。ただ、逆に森博嗣ファンではない読者にはあまり優しくないです。
シリーズものは割とコミカルなタッチのものばかりです。日常にミステリを追うとこうなるのかも。真面目に考えるとおかしいことってたくさんありますよね。
読み切りの短編で最近ミステリ雑誌「メフィスト」に掲載されたばかりの「ゲームの国」は今までの森博嗣になかったタイプの話で、最初は金田一もののように始まるのですが読んでいると脱力してきます。元々、森博嗣には意味のない冗談を楽しむ性質があるようです。最初からその調子だったら誰もついて来られないのでしょうが、最近はコアなファンがついたので遊びとして書いてみた、という感じでしょうか。森博嗣的「不思議な国のアリス」かも知れません。
読んでみて良かったと思ったのは「卒業文章」
生徒が先生について書いた卒業作文を集めたもの、という設定です。短編集で必ず頭にあるのが「これはミステリなのか、違うのか」ということですね。別にどちらでも面白ければいいのですが、ミステリだと思って読むとあらゆるどんでん返しを念頭に置いて読むわけです。そういう意味でミステリ作家の書くジャンル不明小説はスリリングです。
ちゃんとオチはありました。
「恋之坂ナイトグライド」はファンタジックな恋愛小説。出てくる二人がどこに行きつくのかドキドキしながら読めます。最後が本当にすがすがしいです。なんとなくお洒落な題名のセンスが森博嗣っぽいです。
最後の一編「素敵な模型屋さん」はなんとなく作者の幼少を想像させます。男の子なら誰でも一つはこういう夢を持っていたのではないでしょうか。または今でも持っているのかも。
今回の一冊はいまひとつ物足りなさがありましたが、それだけ作者に期待するものが大きいということですね。3ヶ月に1冊のペースで確実に本は出ているので次に期待です。
1月21日
書感です。
「おまえは世界の王様か!」
著者:原田宗典
出版:メディアファクトリー
定価:1300円
初版:2000年7月7日
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結論から言うと、今まで読んだ原田宗典のエッセイの中ではこれが一番でした。これまでのものも面白くはあるのですがいかにも「面白く書こう」という意図が見えるように感じてしまい違和感があったものです。
照れのようなもので、作者がつい真面目に真面目な意見を言いきれずそうなってしまったのだと解釈しています。それはそれで一つの味なんですけどね。
さて、この「おまえは世界の王様か!」は企画と若い頃の努力という2つがなければ決してできない本です。著者が大学時代に書きためた何百枚かのカードの中から、様々な作品の読後感をメモしたものを選んで今の原田宗典がつっこみを入れるというのが主旨。タイトルを見れば想像できますが、20歳の原田宗典は実に偉そうに文学者達を批判しています。
僕もメルマガで書感を配信しているわけですからまるっきり人ごとではありませんが、それなりに読者の目を意識してしまうのか読み返してみるとどうにも無難だったりします。対して原田宗典のカードはそもそも人に見せるものですらないのでかなり強烈。「ドヒャーと叫んでムネノリ卒倒しそう」というようなものがたくさんあります。若いから率直に意見を書いている、というものでもないんですね。とにかく批判したくてたまらない、といった印象があります。
映画でもなんでも、その道の通を称する人が辛口になるのと同じ原理でしょうか。文学青年であろうとした原田宗典の若い頃が想像できますね。
さて、20の原田宗典の読書ラインナップを見て感じたのは僕が文学作品を全然読んでいないということでしょうか。別に嫌いなわけではないんですが、明らかに「面白そう」な本が山のようにあるのでつい後回しになってしまいます。
通勤電車の中でドストエフスキーを読みたいとはあまり思いませんしね。日本文学だと明治の集中、外国文学だと教科書の載っているくらいメジャーな作品しか読んでいません。
そう言えば、僕が読んでいるような本がカードに登場するとたいてい批判が少なく、誉められている事が多いです。
単純に読んでいて面白いものが多いからなんでしょうね。難解で分かり難い作品を褒めちぎったりするほど原田少年も見栄っ張りではなかったという事だと解釈しています。
さて、この書感もずいぶん増えたものですが、後で読み返してみて「ドヒャー」という事がなければいいと思います。
あんまり無難で当たり障りのないことばかり書いてあったらそれはそれで恥ずかしいですからね。
1月22日
書感です。
「からくりサーカス 16巻」
作者:藤田和日朗
出版:小学館少年サンデーコミックス
定価:390円
初版:2001年2月15日
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からくりサーカスもいつの間にか16巻。人形使い同士の戦いだった第一部からずいぶんと展開が変わったものです。
人間を苦しめる病原菌をまいてまわる自動人形たちが生まれた経緯が明らかになった前巻に引き続き、自動人形を狩るしろがねたちが近代兵器を使わず、人形を操って戦うのかという理由が明らかになります。
しろがねたちが拳法や人形を使うのは決してこだわりだけではなく、自動人形たちの出生理由に根ざしているのです。
もっとも、その設定はむしろ肉体を使っての戦いを描きたいという藤田和日朗のこだわりによるかも知れません。
「うしおととら」のときと違い、割と明るい雰囲気で始まったこの「からくりサーカス」ですが、白面の者という絶対的な悪を敵として戦っていた前者に対し、「からくりサーカス」ははるか過去の因縁によって始まった戦いが現在にまで続いています。もともと人間ではない自動人形もただ主人の命令を実行するために動いているだけの存在。それを追うしろがねたちも自動人形を滅ぼすという使命のためだけに生き、人間を捨ててしまっています。
第一部でことさらに鳴海やマサルの人間性を強調し、機械のようだったヒロインのしろがね、エレオノールがだんだんと人としての感情を育てていくという展開が当時はあまり面白くなかったのですが、多数のしろがねが登場し、ドラマを繰り広げている現在、その話運びが生きています。
これまで「しろがね」を名乗っていたエレオノールはやはりルシールやギイたちと同じ「しろがね」の一員でした。ギイがエレオノールの師匠だと明らかになった今、鳴海たちと再会する日は近いように思われます。自動人形を狩るものたちと、日本を回るサーカスはどのような形で関わるのか。
また、マサルは自動人形達との戦いにどう関わるのか、先の展開が気になります。
1月23日
テレビ朝日系の特撮ドラマ「仮面ライダークウガ」が21日に最終回を迎えました。僕が特撮番組を好きだっていうのはこれまでに何度か書いた事ですが、どちらかと言えばそのくだらなさを楽しむという感じでひねくれた見方をしていることが多いです。
しかし、この「仮面ライダークウガ」だけは全49回を心から楽しんで見ることができました。特撮番組はどれだけいいシナリオを書いてもそれを表現するだけの技術と予算がなければ陳腐なものになってしまいますが、クウガは派手すぎずちゃちにならず、視聴者を魅了するだけの映像でシナリオに説得力を持った番組でした。
長野県の奥地から発見された古代の遺跡。調査に入った研究者たちが何者かによって虐殺されたその日、遺跡に眠っていた二百数体の怪物たちが世に解き放たれる。民間人、五代雄介は怪物の一体と遭遇した際、遺跡から発掘された石を持ったときに浮かんだイメージに導かれ、古代の戦士クウガに変身。力の使い方もわからぬまま戦いに巻き込まれる……。
仮面ライダーと言えば、悪の組織に改造されながらも脱出しその力を正義のために使うというのが定番。しかし、今回のクウガは人間とは異質の生命体が相手。警察は未確認生命体を狩るために捜査本部を置きますが、彼らを追いつめる事が出来ても倒すことはできません。クウガとなった五代雄介は一条刑事と協力して密かに未確認生命体たちを倒していきます。
人間の姿から変身して力をふるうのはクウガも未確認生命体も同じです。人々の目には同士討ちとしか見えません。
悪と正義の違いは力の使い方の違いだけ、というコンセプトはここにも生きていますが、この主人公はひと味違います。
最終回で警察のオペレーターが「五代雄介以外の誰がクウガでも未確認生命体を倒しきる事はできなかった」と言います。
クウガは強力な力を持っていますが、それでも未確認生命体と互角に戦えるというだけに過ぎません。五代雄介の力は何より、誰よりも前向きに生き、周囲にあきらめさせないと言うことなのです。捜査を重ね、未確認生命体を発見する刑事たちや敵の弱点を分析する科学警察研究所の研究員達の力がそのままクウガの力となるのです。
ボロ切れをまとい、うなり声をあげていた未確認生命体たちはやがて、人間の言葉と文化を身に付け、社会に溶け込んでいきます。バイクを乗りこなし、パソコンを使う彼らは力が強いだけの獣ではなく、だんだんと強力かつ巧妙になっていく未確認生命体にやがて人間達は恐怖を感じ気力を失っていきます。
目的が世界征服だったり大規模な破壊活動を行ったりしなくてもいつどこに現れて人を殺すかわからない存在は社会を揺るがすのに十分です。「みんなの笑顔のために」という五代の言葉は決して偽善ではない説得力を持っていました。
熱血漢でも、バカではない。優しくても軟弱ではない。悩みがあっても外には出さず、自分のできない事は言わずにできることだけ頑張ろうとする五代雄介はたとえクウガという力を持っていなくてもヒーローです。
最後に立ちはだかったのは長野で最初に発見された未確認生命体の第0号でした。究極の強さを持つという第0号にクウガは歯が立たず、五代雄介はクウガがすべての力を使い切り、憎しみによって戦うときに現れるという究極の戦士への変身を決意します。究極の力を得たら、戦うためだけの怪物になってしまうかも知れないという周囲に対し、ただ一言「大丈夫」と言い切る雄介。戦いが終わったら昔のように冒険に出るという最終決戦前日の回はあくまで明るく描きながらも雄介の死を漂わせていました。ヒーローが誰かのために命を捨てるという展開は、美しいかも知れませんが、これほどまでに主人公の帰還を望んだ番組はありませんでした。
そして最後の決戦。互いに重症を負い、人間に戻ってもなお殴り合いを続けるクウガと第0号。口から血を吐きながらも嬉しそうに戦い続ける0号に対し、雄介の顔は苦痛と悲しみのためにゆがんでいます。他人を助けるためにでも拳を使う事に喜びを見出せない雄介はクウガの仮面の下にずっとその表情を隠していたのかも知れません。
常に他人のために笑顔を絶やさなかった雄介は、最終回でもその笑顔を見せてくれました。生きて帰ってどこか南の島に行ってしまった彼は今度こそ自分自身のために笑えるのでしょう。番組が終わってしまうのは寂しいですが、どこかほっとしたような気分もありました。
ヒーローものというのは、戦いを肯定しているともとられかねません。子供が暴力事件を起こしたりしたときに真っ先に非難の対象となるのはこういった特撮だったりします。
でも、こういう番組を見た子供達が五代雄介のような主人公にあこがれてくれるといいな、と思います。理想をきれいごととして片づけてしまわない強さを持った人間に自分もなりたいものです。
1月24日
書感です。
「三月は深き紅の淵を」
著者:恩田陸
出版:講談社
定価:1800円
初版:1997年7月7日
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「球形の季節」や「六番目の小夜子」など、都市伝説をテーマに作品世界を構築するのが恩田陸。
タイトルもまた幻想的です。
「三月は深き紅の淵を」は作品名であると同時に作品中に登場する本の名前です。全四章からなっているのですが、それぞれの物語にはこの本を除いて関連性がなく、同じ世界でもなさそうです。作中の本も同じで、幻想的な4つの章から成り立っています。
世の中に200冊しかなく、その本の所有者は一人に一晩だけ貸すことが許されるという「三月は深き紅の淵を」
高名な作家が無記名で書いたとも、作者はその1冊しか書かなかったとも言われ、多くの人間がその本そのものや作者を負っている、と説明されるのが第一章。登場人物達は様々な推理を巡らせます。
第二章はその作者を追いかける編集者の話。第一章とは微妙に設定が違うのです。別世界であるのか、それとも時間がずれているのかはわかりません。
第三章には「三月は深き紅の淵を」というタイトルがまったく出てきません。二人の少女の死を巡る物語で、片方の少女が残した日記のタイトルが第一章、第二章に出てくる「三月は深き紅の淵を」の作中タイトルに重なります。もしかしたら本が書かれる前の話なのかも知れませんが、ここは恩田陸らしい青春路線が感じられます。
第四章は「三月は深き紅の淵を」という本を書こうとしている作家の話。構想を練りながら旅行をし、現実と小説世界が頻繁に入れ替わって読者を混乱させます。ここに出てくる作家の主人公が作者とかぶります。
いずれの話も本にかける想いがつづられています。読者として本を愛する者、編集者として本を残したい者、自分の内心を形として残したい者、そして作家として傑作を書こうと努力する者。語る者も語らない者もいます。
本と言うのは、人の精神が込められたものかも知れません。
また、本を読むときには読者もそこに精神を込めるのでしょう。日本では長年使ってきた道具に魂が籠もると言いますが、本にもまたそれを作った人間と手にした人間の想いが蓄積していくように思えます。
「三月は深き紅の淵を」は作中だけでなく、読者を翻弄し、混乱させるでしょう。
ここに解決などというものはありません。読んだ人はいつまでも不思議な気分でいられます。幻想小説というのはこういうものを言うのかも知れませんね。
1月25日
ずっとポストペットを使っています。もう3年くらいになるでしょうか。一日一通はポストペットでメールを書いていたらぺとの運んだメールは合計1200通くらいになっていました。
最初に飼っていたのはウサギで、アリスと名付けていたのですが今考えてみるとナンセンスなネーミングですよね。三月ウサギと主人公が混然となっています。ウサギから「不思議の国のアリス」を連想することは割と自然かも知れませんが。
とりあえず説明しておくと、ポストペットというのはメールソフトの一種でポストペットを持っている人どうしでメールのやりとりをするとお互いのペットが相手にメールを届けてくれるという形になります。自分の飼っているペットが相手のメールソフト上に現れて机の上に手紙を置いていくんです。手紙を届けている間、ペットは自分のところからいなくなっていて相手がポストペットでメールを受け取ってくれるか、一定時間が経過するまで戻ってきません。
届けた手紙を受け取ってもらえると「ひみつ日記」というメールが飼い主のところに届きます。
「○○のところに遊びに行った。
△△と遊んだ。
今日は□□した。
××だと思った。」
と、いうような感じです。ランダムで決定されるようなので
かなり突拍子もないことを書いてきます。今、出ているポストペット2001では8種類のペットがいてそれぞれ性格などが微妙に違い、書いてくる日記にもそれが出ます。
メールは返事が来ると嬉しいものですが、ポストペットだとさらにペットのリアクションもあるわけです。はまると楽しくなって特に用事がなくてもメールを出してみたりします。
非実用メールのきっかけとなるわけですね。
また、「ひみつ日記」が帰ってくるため、相手が読んでくれたというのがわかって便利でもあります。返事が来ないと読んでくれたのかどうだかわからないものですが、ひみつ日記がとりあえずの返事になります。
こういうのって普通は飽きが来ると終わってしまうものでしょうがすっかり習慣となってしまったので今でも使い続けています。ただ、メールソフトとしての機能はあまり高くないので多くのメールをやりとりする場合、ポストペットだけではどうしても不足します。僕の場合は、ポストペット専用にメールアドレスを用意しています。ポストペットのメールもいつも使っているソフトで整理したいので、Eudoraでメインとポスペのメールをチェックし、ポストペットでのメールが来たときだけポストペットを起動しています。長年の積み重ねによる工夫というところでしょうか。
さて、突然ポストペットの話題を書きました。
実を言うと先日、飼っていた2匹目のポストペットのネコが寿命でいなくなってしまったんです。初代のアリスは700日くらい、2代目のパスカルは400日ほどでした。デスクトップ上で飼っているペットとはいえ、毎日のようにメールをやりとりしている形になっているわけですから、いなくなったときのショックはなかなか大きいです。ネコのパスカルはなかなか生意気なキャラクターで自分の事を「ただのデータ」とか言っていました。こういうときの感情って生き物が死んだときとはまた違うかも知れませんが、例え何のリアクションもない道具だって壊れてしまえば悲しいですよね。
ポストペットはSONYの製品です。SONYと言えばロボット犬のAIBOなども出していますよね。なんとなくですが、共通するものが見えますね。AIBOもポストペットもおそらく本物のペットにとってかわろうと言うのではないのでしょう。それは普通より愛着のわくおもちゃであり、道具なのです。
小さい頃、本当に自分の持っているおもちゃを大切にしていた記憶が蘇ります。
1月26日
僕は割と夜型なので、夜遅くまで起きています。メールマガジンを書くのはたいてい12時を過ぎてからだし、たいていのメールは夜11時を過ぎてから来るので返事を出すのもそれからです。だいたい夜の2時頃寝て8時頃起床となります。
ですが最近、早寝早起きする癖がついてしまいました。
早寝といっても大した事はないのですが、夜12に前くらいには寝てしまい、起きるのは6時頃から7時半くらいです。時間の使い方としては寝る前にいろいろするか、起きてからするかという違いでしかないんですが、起きてから行動するとなんとなく清々しいような気分になるから不思議ですね。
寝る前の行動は長引くと睡眠時間を圧迫することになります。今は絶対に必要な事以外は起きてからするのでとりあえず一定の睡眠が取れますし、起きてみて眠かったらもうちょっと寝るという余裕もあります。
夏にドラクエが手元にあった頃は、よく始めたドラクエがやめられなくなって徹夜に近くなってしまったりということがありましたが、今みたいな生活だったら家を出るまでの時間きっかりやっていたかも知れません。
寝る前と後、どちらに自分の時間を取るかというのは単に順番の問題のようでいて、そうでもないんですね。確実に一定時間の睡眠を取るか、自由時間を優先するかという選択肢でもあります。
ただ、例えば寝坊してしまってメルマガか書けないかも知れないという心配はありますが、たいてい目覚ましが鳴る数十秒前に眼が覚めているので今のところ大丈夫です。
一日の締めくくりとして書くメルマガと、一日の始まりとして書くメルマガでは微妙に文体とか内容とか違うかも知れません。特に本来寝るはずの時間を過ぎてから書いているときはなんとなくですが焦りがでます。これは朝、起きたときでも家を出るギリギリに書いていたら同じかも知れませんが、起きて最初にするのがメルマガの作成なので今のところ時間に追われる事はないです。
書感も読み終えてからすぐ書くものと、時間を置いて落ち着いて考えてから読むものではずいぶん書き方が変わってきます。すぐに書けば読んでいるときそのままの感覚が表現できますが、時間を置くといろいろに気づかなかった事に気づいたりしますね。ただ、丸一日とか経ってしまうと別な本を読んでいたりするので印象が薄れてしまいます。
ただ、ネタがないときなどは夜の方が明らかに書けますね。
寝ることで頭の中が整理されてしまうのか、何も考えていなくてもとりあえず書き始めるということが朝ではできません。
人間の頭は起きてから働き始めるのに数時間かかるともいいますからそれも含まれているのでしょう。
以上、恒例の自分観察でした(笑)
1月27日
書感です。
「十月はたそがれの国」
著者:レイ・ブラッドベリ
訳者:宇野利泰
出版:創元推理文庫
定価:240円
初版:1965年12月24日
「華氏451度」や「火星年代記」などのSF小説で知られるブラッドベリですが、これは幻想小説の短編集です。
正直言って、読むのにかなり時間がかかりました。初版を見ると三十年以上も前の本なので訳のせいもあるかも知れませんが、全体に漂う重苦しい雰囲気のためになかなか新しい一編を読み出せないのです。
前にもブラッドベリの「とうに夜半を過ぎて」を同文庫で読んでいたのですが、ずいぶん昔の事だったので印象が薄れていました。でも「十月は〜」を読み出したとたんに思い出しましたね。やっぱり重いと言うか暗い雰囲気が漂っています。
そもそもブラッドベリを借りてきたのはアシモフで海外作家の短編に興味をもったからでした。でもアシモフは特別に読みやすいしわかりやすいということの再確認をしたという感じです。ブラッドベリの場合、現代的なエンターテインメント性ってあまりないかも。
さて、この短編集は謎を持った不気味な人間の登場率が非常に高いです。気味が悪いと言ってその相手を恐れている主人公が周囲にそれを告げるが相手にされず、最後は超常的な相手の正体に気づいてたいへんな目にあう、というのが割とパターンかも知れません。ハッピーエンドだったり笑えるオチがついたりということはまずないです。
僕が物語として怖いと思うのは、何の罪もない人が巻き込まれて恐ろしい目に合うというもの。読んでいてどうしても理不尽さを感じます。考えてみれば実際はそれが当たり前なのでしょうが、物語などにおいて因果応報というのは読者に安心を
与えています。つまりは自分が物語り中の人物のような運命にはないという事ですね。
だからホラー映画などではバカな行動をしたために追いつめられる被害者たちを笑って見られるわけです。正しい行動を取った主人公はたいてい救われます。
そういうのはホラーであってもエンターテインメントなんですねスティーブン・キングなどもその範疇に入ると思います。
ブラッドベリの短編はひたすら怖いです日常を浸食する恐怖という意味では荒木飛呂彦の漫画化が似合いそうです。文章の描写などからも場面が映像として頭の中に浮かぶことが多いのですが映画よりは舞台といった印象があります。
せっかくだからブラッドベリの長編も読んでみたいところですが体力を消費しそうなのでしばらくは敬遠。読むものがなくなったらですね。
1月28日
書感です。
「聖闘士聖矢 1〜2巻」
作者:車田正美
出版:集英社文庫(コミック版)
定価:590円
初版:2001年1月23日
関連書感はこちら
懐かしいタイトルです。小さいころから夏休みはいつも札幌で過ごしていました。そのとき、行きの飛行機の中で読んだ週間少年ジャンプに「聖闘士聖矢」の第一回が掲載されていたんです。この頃のジャンプって「キン肉マン」「北斗の拳」「シティーハンター」など人気漫画ばかりでまさに黄金時代でしたね。当時、コミックを買っていて聖闘士聖矢もかなり揃っていたはずなのですが本棚を整理したときに漫画を大量に捨ててしまったので今はありません。
最近は「リングにかけろ」の続編がやっていたりとなんとなく車田漫画が懐かしくなっていたため、文庫版が出たときについ買ってしまいました。
車田漫画は熱血というテイストに加え、登場人物達が美少年ばかりということで女性人気も高い作品でしたが今に鳴ってみてみると造形が古いです(笑)
僕はつまらないことばかり憶えている質なので、聖闘士聖矢に関しても自信ありましたが、読んでみると話の前後関係とかけっこう忘れています。憶えているのが勝敗の行方とその決めてとなった必殺技ばかりで、当時どんな風に読んでいたかがよくわかります。
まあ、とにかく必殺技を打ち合うというのが車田漫画の基本ではありますけど、その間にかわされる気障な台詞や語りが今となっては面白くて仕方ありません。
最近の漫画なんかでもとく「笑止な」とか使っていますよね。普通は使わないような言葉がこれだけ普及しているのはやはり車田漫画の影響ではないでしょうか?
当時は大人に見えた13、14歳の主人公達はもう自分よりはるかに下です。そのくらいの子供が命をかけて戦うっていうのは確かにすごいことですよね。
昔は「なんだ子供か」というような台詞に主人公と同じくらい憤ったものの、今となっては油断しない方がおかしいと思うようになりました。
さて、肝心の中身ですが、やはり聖闘士聖矢は面白いです。
あれだけヒットしたのもわかるような気がします。戦いながら成長していく主人公達が次々と強大な敵を倒していく少年漫画の王道ですね。第一部の黄金聖闘士編までは揃える予定。
1月29日
書感です。
「ぼのぼの 20巻」
作者:いがらしみきお
出版:竹書房
定価:533円
初版:2001年2月27日
関連書感はこちら
何にでも疑問を持つラッコのぼのぼの。いじめられながらもたくましく生きるシマリス。いつの間にかぼのぼのも20冊になりましたが登場動物(?)たちもずいぶんと性格が変わったような気がします。
最初の頃はぼのぼのもシマリス君もどこか不気味な存在でした。元々いがらしみきおはブラックなものを描いていたためか何を考えているかわからないキャラばかりで怖かったです。
最初はただぼーっとしているだけだったぼのぼのも最近は何か確信犯的にぼけているような気もするし、シマリス君などはもはや「いじめられキャラ」ではありません。ツッコミを期待していろいろやってしまうというところでしょうか。
今回はシマリスくんのお姉さんの結婚や、ぼのぼののお父さんの友達登場など家族関係の話が目立ちました。
この作品でいつも強調されているのが「子供と大人」という違いです。子供にとって大人とは、自分たちと違う存在でありながらいつかは自分が「なる」ものです。大人だから結婚するとか、大人になると友達がいなくなるとかぼのぼの達は考えます。このぼのぼのワールドは大人もあまり働いているようには見えないのですが、だからこそ子供と大人の本質的な違いが気になってしまうのかも知れません。
ぼのぼのの疑問に対して、出てくる大人たちは割といい加減な、わかったようなわからないような答えを返します。誰もが一度は考えていながら説明するのが難しい、または説明するのが恥ずかしいような質問だからですね。
「生きるって何?」とか、「楽しいってどういうこと?」などという質問に対し、作者は様々な登場動物たちに語らせます。
独特のいがらしワールド。いつまでも壊れずに続いて欲しいです。
1月30日
ゲームのレポートです。
「スカイオデッセイ」
発売:SCEI
定価:6800円
機種:PS2
ジャンル:フライトアドベンチャー
僕は飛行機が好きです。旅行なんかでも離陸の瞬間を待ってワクワクしてしまいます。このスカイオデッセイは「飛ぶ」という事の楽しみと「冒険」のワクワクを併せ持ったゲーム。
「天空の城ラピュタ」なんかが好きな人にはかなりお薦めです。フライトシミュレーターってけっこう難しかったりマニアックだったりして敷居が高いです。このスカイオデッセイもけっこう難易度が高いのですがいろいろな楽しみ方があるのでのんびりできるでしょう。
主人公は飛行気乗りの冒険家。伝説の土地「ヴィルドバル」を目指して峡谷や雲海、森や洞窟を飛行機で進みます。
燃料不足で汽車から給油を受けながら飛んだり、降りられなくなった気球におもりをつけたり、滝の裏側を飛行したり、謎の遺跡を発見して着陸したりとシチュエーションが面白いです。
最初は使える機体が3機しかないのですが、いろんなモードをクリアしたりしているうちに増えて最終的には10機くらいになるらしいです。僕はまだ5機ですが、性能の高い機体は操作するのも難しいので複葉機なんかでゆっくり飛んだ方が楽しめたりもします。
リアルなシミュレーターというタイプではないので、飛行機の性能に「?」という部分もたまにありますが、その辺は微妙なバランスです。リアルな飛行では狭い洞窟の中を飛んだりはできませんからね。
ステージの多彩さもありますが、このゲームを面白くしているのが天候です。突風や気流、雷など自然の驚異がプレイヤーを翻弄します。大波で揺れる空母の甲板に着陸したときの興奮は忘れられません。
ストーリーを進めるアドベンチャーモードの他にもポイントを競うポイントチェックモードや大空に図形を描くスカイキャンパスモードなどがあって遊びがいがあります。最近のPS2は7800円が標準ですがそれより少し安いのも魅力かも知れません。ほとんど宣伝などもなく、発売してからテレビCMが始まっただけというマイナーソフトですが遊ばせてくれるのはさすがSCEIというところでしょうか。
PS2を持っているもののやりたいゲームに困っている方などにお薦めです。
1月31日
書感です。
「月光ゲーム Yの悲劇'88」
著者:有栖川有栖
出版:創元推理文庫
定価:583円
初版:1994年7月15日
こういうのを「本格」というのかも知れません。
奇妙な舞台装置も怪しい登場人物もいない。奇想天外なトリックもない。探偵もいない。恋愛や哲学で読者に訴えかけたりもしない。「推理して犯人を当てる」という結末に向かって脇目もふらずまっしぐらという印象の小説です。
山奥のキャンプ場で偶然一緒になった3グループ、十数人の大学生たち。英都大学推理小説研究会の有栖川有栖たちもその中にいた。盛り上がったキャンプの夜、彼らは突然の火山噴火に巻き込まれ、山中に孤立してしまう。閉ざされた状況で起こった殺人は、それだけで終わらなかった……。
雪に閉ざされた山荘や嵐の孤島など、閉ざされた空間で事件が起こるミステリは山のようにあります。脱出できず、外からも侵入不可能な空間で事件が起こった場合「この中に犯人がいる」ということになるわけです。犯人を見つけるための推理が趣味ではなくなります。犯人を見つけなかったら誰かが殺されてしまうかも知れない、殺されるのは自分かも知れない。追いつめられた焦りが推理の難しさに拍車をかけます。
主人公、有栖川有栖は名前こそ派手ですが至って平凡な青年という感じです。推理小説が好きではあってもマニアというほどではなく、性格もおとなしめ。ホームズで言うところのワトソン役でさえもありません。ただ一つ、読者が気になるのは作者と同名という事だけ。
そういう主人公って何かに巻き込まれたり犯人に仕立て上げられたり殺されかけたりといった見せ場(?)があるものですがそれすらなし。本当に語り手としてだけ存在する希薄な主人公です。
主人公が魅力的じゃない小説ってなかなか読む気がしないものですが、それは登場人物全体に言えるかも知れません。登場人物が十数人いても誰が誰だか忘れてしまいそうになるほどで唯一「格が違う」と思わせるのは推理小説研の先輩、江神くらいでしょう。
以上のように、あまり特徴がないんです、この小説は。
それでも最後まで読めてしまうのはこれが王道だからではないでしょうか?
奇をてらわず、王道を行くのは難しいし度胸もいるのでしょうが著者はデビュー作でそれをやってのけたわけです。
主人公の有栖川有栖と共に、以降の作品がどうなっていくのか楽しみです。
そうそう、書き忘れました。
この小説、出てくる人間がみんな関西方面の人なので登場人物のほとんどが関西の言葉で話します。これは本当に珍しいかも。
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