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2月1日
書感です。
「20世紀少年 4巻」
作者:浦沢直樹
出版:小学館スピリッツコミックス
定価:505円
初版:2001年3月1日
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2巻を読んでいたあたりではイマイチという印象しかなかったのですがだんだんと面白くなっていくこの「20世紀少年」
くたびれた日常を延々と描いたのは後でそれを壊してしまうためだったのですね。
浦沢直樹はビッグコミックに「MONSTER」を連載中ですがこれと両方こなしていると思うと恐れ入ってしまいます。
かつてロック青年だったケンジはコンビニの店長として冴えない日常を送っていた。しかし、世紀末が近づくにつれて奇妙な出来事が日本を襲う。その事件が自分たちの子供時代の空想と酷似している事に気づいた彼は昔の仲間を訪ね歩く。
自分の知っている誰かが「ともだち」として日本を滅ぼそうとしている。無事に21世紀を迎えるため、ケンジは立ち上がった……。
主人公のケンジと世界を救うという事のギャップ。いくらマンガとは言え、トントン拍子で進むドタバタコメディのようなものしか最初は想像できませんでした。しかし、浦沢直樹の描いたシナリオはそんなに生やさしくなく、世紀末の日本という不気味な世界を出現させています。
さえない日常の中のちょっとした冒険ではなく、本格的に何者かとの闘争を始めたケンジの眼光は物語開始当初のくたびれたものと大違いです。
さて、3巻あたりから物語の視点は一時バンコクへ。タイの日本人社会で密かにトラブルを処理する謎の日本人が主人公となります。
これまでのパターンから読者が考えるのはそれがケンジの少年時代で誰にあたるのか、ということです。これまで出てきた様々な人物もどこかで関わりがあり、登場してそれまでということはまずありません。すべては十数年も前から始まっているのです。そろそろパズルのピースは出そろっています。あとはそれを一つ一つはめていくだけなのです。
さて、少し残念だったのは作品が20世紀中に終わらなかったということです。いや、ひょっとすると連載は終わっているのかも知れませんが。
彼らが「世界を救う」というのは1巻の冒頭で明らかになっています。20世紀少年の最終回を読んで21世紀を迎えたかったですね。しかし終わらなかったのでせっかくだからもう少し楽しみます。
2月2日
書感です。
「今夜は眠れない」
著者:宮部みゆき
出版:中公文庫
定価:552円
初版:1998念11月18日
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宮部みゆきは少年を主役に持ってくることが多いですが、この小説のように完全に子供の視点で書かれたものは珍しいです。中学一年生の主人公を「子供」と言ってしまうかどうかは微妙ですね。主人公とその親友の島崎ほどではなくても、中学生くらいになるといろんな考えを持って日々を過ごしているものだと思います。
ここに出てくる子供たちだって決して大げさなものではないのです。ただ、少し早熟かも知れませんが。
ある日、主人公「僕」の家にやって来た弁護士は「放浪の相場師」と言われた男が母親に5億円を遺贈したと告げる。マスコミなどに追われ、一家の生活は破綻。父親は浮気相手と家出してしまう。
「僕」は親友の島崎と共に真相究明に乗り出した……。
「大人になったら小さな男の子になりたい」というジョセフ・ヘラーの引用文がまず印象的です。しかし「僕」も島崎君も普通のかわいい男の子ではありません。大人の言ったことの裏を一つ一つ読み、皮肉なコメントを付け加えずにはいられない彼らは、子供扱いされるのが嫌なわけではなくそういう立場を余裕を持って楽しんでいるようにも思えます。
子供にとって、親の過去ほど謎のものはありません。
出会う前のお互いなんて、夫婦でさえ知らないのかも。
人の歴史というのは他人にしてみればミステリなんですね。
やんちゃでもナイーブでもない、またはその両方を持った少年は母親の過去から両親の絆を見つけだそうとするのです。その探索の途中で、ドラマチックなことはあまり起こりません。
しかし、あらゆるものに注目し、耳をそばだてる少年にとってはそれぞれから強い刺激を受け、想像力をかき立てられるのです。
もちろん、宮部みゆきは少年の心を描くだけでこの一作を
終わらせたりはしません。どんどん謎が深まっていくわけでもなく、かといって解決されるということもない展開の後には誰もが驚く結末が用意されているのです。
宮部作品はあざやかさに欠けている、と常々思っていましたがそれは単に穏やかに終結していく書き方が好きというだけであるのかも知れません。
「僕」のように、誰もが一つくらい、誰かに語って聞かせたい自分の物語があればいいですね。
2月3日
書感です。
「光の帝国 -常野物語-」
著者:恩田陸
出版:集英社文庫
定価:495円
初版:2000年9月25日
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恩田陸を読むとまた恩田陸が読みたくなる。
そういった魅力がこの人の本にはあります。
「光の帝国」といういかにもファンタジーな題名に添えられたサブタイトルの「常野物語」が恩田陸らしいですね。この本は「常野」という一族をキーワードにした連作短編集です。
膨大な量の本を記憶する。過去や未来を見通す。時間や空間を飛び越える。常野という一族に生まれた人間はみな、何かの力を持っている。彼らは群れず、しかも散らず、その力を何のために使うわけでもない。人に紛れて暮らす常野一族の物語。
人が本を読むように、物を見るように、常野一族は自分の力を使います。ただ、それが人と違うというだけで、彼らは用心深く生きなければなりません。その力を使うことの意味は読んでいてもなかなか見えてこない。本人達にもよくわかっていないのです。何故、何のために彼らは存在するのか。その答えは語られません。
短編集の最初は、風変わりな家族の話に過ぎません。ですが一編二編と読んでいくにつれて、常野という一族が見えてきます。人間の中に溶け込んで暮らしながらも、普通の人間の様に暮らすことはできない。中には力を持っているがために決して安心することのない日々を過ごしている人物もいます。
昔から、超能力を持った者の悲劇というのは数多く語れています。しかし、この「常野物語」のように自分たちの力をありのままに受け入れて社会の中でひっそり生きていくというのは珍しいですね。
世界中に散らばって暮らしていながらも彼らが常野という一族であるのと同様に、一つ一つの短編は独立していても大きな物語の流れを作っています。
孤独に見えた彼らもやがて出会い、寄り添って一族の土地へと帰っていくのです。
彼らにとって、生きることは穏やかな戦いです。常野という形のない故郷が彼らを支えています。
特別な人間を描いていながらもどこか郷愁を感じるのは、そこに常野一族の安らぎを感じるからでしょう。
僕らの日常にも不思議な事ってありますよね。ただ聞き流してしまうような事でも、つきつめていけばもしかして……。
そんなふうにファンタジーを身近に感じさせて暮れるのが恩田陸の作品なのです。
2月4日
書感です。
書感です。
「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン 5巻」
作者:荒木飛呂彦
出版:集英社ジャンプコミックス
定価:390円
初版:2001年2月7日
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カバーの折り返しのところに作者のコメントってありますよね。荒木飛呂彦のはあれが面白いんです。ホラーマンガを書いているということとのギャップのせいかも知れません。写真などでも見たことありますが、荒木飛呂彦は割とさわやかな感じですね。青春マンガとか描いていてもおかしくないです。
さて、ストーンオーシャンも第5巻です。
父、承太朗からCDの形で奪われた「能力」と「記憶」のうち「能力」を取り戻した徐倫。そこに女囚ミラションのスタンド能力「取り立て人マリリン・マンソン」が襲いかかる……。
「スタンド能力」とはいわゆる「超能力」
テレキネシスやテレパシーなど使い古されたものも、荒木飛呂彦にかかれば人の形をした何かが物を持ち上げたり、相手の記憶が本として読めたりといった表現に変わります。
それぞれの持つ能力は非常に限定的で弱点もあります。だからその力をどうやって使うのか、どうやって破るのかという駆け引きが戦いの主眼。正々堂々という言葉はありません。
まして「ストーンオーシャン」の舞台は刑務所なのです。人脈や金さえ駆け引きには使われます。
スタンド能力は本人の性格や願望、欲求に深く関わるという設定があります。細い糸を自在に操る徐倫の能力には父親との絆が託されているのかも知れません。今回の敵、ミラションの場合は「相手の借金を強制的に取り立てる」という能力で、金に対する執着がそのまま表れています。ただ、その能力を駆使するには相手に借金を作らないといけない。そこでミラション本人の狡猾さが発揮されるわけです。
一時期、能力が非常に複雑化してわかりにくくなっていたスタンド戦ですが最近はまた開始当初の第三部のようにシンプルな能力が増えたように思えます。その場で自分の能力を使うという戦術だけでなく、自分に有利な場を作り出す戦略を駆使して次々襲いかかってくる敵に対し、常に受け手である徐倫は圧倒的に不利。増して刑務所という閉鎖空間では逃げ場もなく、自分の安全を確保するのも難しくなっています。
余談ですが荒木飛呂彦は実際にアメリカまで刑務所を取材しに行ったとのこと。そこで刑務所長に聞いた「男性と女性では犯罪の種類も性質もほとんど変わらない」というコメントが興味深かったです。
キレていながら冷徹な計算も忘れない荒木キャラに、取材の結果がどう活かされていくのか楽しみですね。
2月5日
書感です
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「グランド・バンクスの幻影」
著者:アーサー・C・クラーク
出版:ハヤカワ文庫SF
定価:640円
初版:1997年10月15日
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今年はクラークの年と言っても過言ではないでしょう。
何しろ今は2001年。21世紀最初の年なのです。
「2001年宇宙の旅」に込められた人類が新たな段階へ進むというテーマは彼の多くの作品に見られますが、この「グランド・バンクスの幻影」はある意味、それと対称的なものかも知れません。
西暦2012年、タイタニック沈没100年を記念してその船体を引き揚げるという一大事業が始まった。沈没時に二つに折れた船体をそれぞれ別なプロジェクトチームが引き揚げ、海中を曳航してそれぞれの場所へと移すという前代未聞の作業に、世界中が興奮する。技術だけでなく財力や政治力まで駆使した二つのチームの駆け引きと、そこに関わった人々を描く海洋小説。
タイタニックをテーマにした映画はいくつもあります。
最近ではもちろんレオナルド・ディカプリオ主演の「タイタニック」が挙げられるでしょう。作品中でもいくつか有名なものが出てきます。
沈没するタイタニックを舞台にした『SOSタイタニック』や海洋冒険小説のクライブ・カッスラー作の「レイズ・ザ・タイタニック」などです。後者は新潮文庫から「タイタニックを引き揚げろ」というタイトルで出版されています。アメリカ海洋調査機構、通称「NUMA」に所属するサルベージの専門家、ダーク・ピットを主人公とした傑作シリーズですが、こちらの紹介はまたいつか。
さて、僕にとってSFの原点はクラークです。物語重視のハインラインやとにかく面白くて読みやすいアシモフなどに比べて深遠なテーマが見え隠れするクラークの作品は読むのにエネルギーがいります。しかしこの作品は次々と新しい技術が出現し、人間関係が変化し、引き揚げ作業が進行して常に緊張感を保った作品に仕上がっています。クラークも「宇宙の旅」のクラークとはひと味違ってきているのかも知れませんね。
クラーク作品の優れたところはその科学知識を実際にありそうな技術としてきちんと描いている事でしょう。現実に通信衛星などは実用化のはるか前に作品に出現しています。
近未来小説というのは少し時間が経つと時代遅れになってしまうものですが、クラークの場合はむしろ現実がそこまで追いついてこないというイメージがあります。
また、登場人物の一人一人が大変に魅力的です。大きな事業には大きなエネルギーが必要ですが、登場人物達にはみな、そういうものに必要な力を感じます。組織や人の関わり合いがプロジェクトを動かしていくという展開には感動がありますね。
宇宙ではなく海洋での探索というテーマですが、スケールが小さくなったという印象は微塵もありません。むしろ場所が近いだけに登場人物も多く、人間はより大きな力を注いでいるように見えるのです。
こういった小説は仕事というものに対しての意欲を換気させます。2001年に宇宙の旅はできませんでしたが、2012年の世界はどうなっているでしょう?
2月6日
最近、運動不足を痛感しているので自転車を使うのやめました。僕はサイクリングが好きなのでどこへ出かけるにも自転車を使います。うちは埼玉県ですが池袋くらいなら40分で行けますし、行こうとすれば新宿くらいまで行けるわけです。
何かと便利なのですが、家から駅まで1キロくらいしかないので自転車で行っても歩いて行ってもそんなに変わるものではありません。駐輪場に寄って自転車を止め、駅まで向かうのに約10分ですが、歩いてもせいぜい12、3分それだったら歩きの方が運動量多いよなと思ったわけです。
先週から始めてまず、感じたのは暇だと言うことですね。
自転車に乗っているときは特に暇だと思ったりしません、当たり前かも知れませんが。自転車はある程度スピードも出ているし、周囲に気をつけなければ加害者になってしまうため、それなりに神経を使います。しかし、歩いているときは自分にさえ気をつけていればほとんど問題ないですよね。
僕はヘッドホンステレオがダメなので歩きながら音楽を聴いたりはしませんし、本を読みながら歩くのは危険です。そのため毎日毎日ぼーっとしながら歩いているのですがこれがけっこうストレスになります。
今までの傾向から考えてみると、歩いているときに暇だと感じるのは両手とも何の作業にも使っていないかららしいです。
部屋にいるときも何か手に持ってにないということは滅多にありません。どうやら、家から駅までというのが一日のうちで最も長い徒歩の時間らしいです。あとは駅と学校、駅とバイト先の間なんですが大学は駅前で、バイト先に行くときはたいてい誰かが一緒なので気になっていませんでした。
何か手を使っていないと落ち着かないというのはどうにも落ち着きがない感じですね。よく人から「落ち着いて見える」と言われるのはどういうわけでしょうか。
「歩く」というのはどうやら行動のうちに入らないらしいですね。とにかく他に何か別な事をしたくなります。
と、いうわけで朝の通学時間には友達に携帯メールを打ったりしています。250文字しか打てませんが、入力しにくいので10分で使い切る事はあまりないですね。
電車に乗ったりするとひっきりなしにメールを打っている人がいるものですが、あれも同類でしょうか?
僕はあまり「ゆっくりしたい」とは思わない方ですね。ゆっくりするのが嫌いなわけではありませんが。
2月7日
書感です。
「さくら日和」
著者:さくらももこ
出版:集英社
定価:1000円
初版:1999年7月20日
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いきなり離婚の話で始まるこのエッセイですが、そんな深刻な話はあっという間に終わってしまい「ちびまる子ちゃん」の持つ独特な下町感覚そのままに笑える作品になっています。
この人の面白さはその庶民っぽさにあるんでしょうね。それでも読んでいると芸能人との交流などがさらっと書かれていたりして有名人なんだということを再認識させられます。
さくらももこは友達とわいわいやるのが好きらしく、食いしん坊同盟という妙なグループを作って食べ歩いたり、お世話になった人にお礼をするために意味もなく立派なパーティーを開いてみたりと、ばかばかしいながらも素敵な日常を送っているようです。
そして、さくらももこを語るうえで絶対に切り離すことができないのは父、ヒロシ。
「ちびまる子ちゃん」でも主人公の父親として登場していますが、父親の威厳などはまるでなく、いい加減でいつもへらへらしていてワガママというすごいキャラクターです。
もちろんモデルは作者の父親で、まるで珍種の生き物のような書かれよう。さくらももこが自ら出している自分の雑誌「富士山」では写真付きで登場し、長嶋監督との対談もしています。
これがまた、マンガや文章に出てくる「父ヒロシ」のイメージそのまんまなんですね。
「ちびまる子ちゃん」がエッセイ漫画と言われているようにさくらももこは自分の身近なところからテーマを持ってきて書くのが得意。しかし「面白おかしく書く」という能力も去ることながら、周囲に変わった人間が集まっているような気もします。類は友を呼ぶ、とはこの事でしょう。
エピソード中で最も笑えたのは、作者が息子に自分がさくらももこであるというのを隠している、という事でした。一度や二度ではなく、毎日の生活の中で息子が疑惑を感じてはなんとかそれを否定するという攻防が繰り広げられています。
作者がちびまる子以外のキャラクターもうまく描けるということを証明するために描いたドラえもんののび太としずかちゃんのイラストには爆笑しそうになりました。
僕はあいかわらず電車の中で本を読んでいるので、あんまりおかしい本は笑いをこらえるのに一苦労。腹筋と顔面の筋肉を酷使する一冊でした。
2月8日
書感です。
「見える見える」
著者:天野祐吉
出版:筑摩書房
定価:1500円
初版:1994年10月12日
天野祐吉は自分の事を「大ざっぱな人間ですることは雑で書いているものは雑文、一人旅なんかできず帰ってゲームをしたくなる」と書いています。
ちょうど2日前に「落ち着きがなくて常に何かをしていないと気が済まない」と書いた自分としてはこの天野さんが他人とは思えず、嬉しくなってしまいました。
父が昔から天野祐吉が編集長を務める「広告批評」を買っているため、天野祐吉の書く文章には小学生の頃からなじみがあります。朝日新聞でもテレビCMについて書く「CM天気図」というコラムを持っていますね。
この人もなんとも言えず、とぼけた味の文章を書く人です。
批評するのが本職ですが、鋭いというよりはとにかく感じたことを正直に書く、というイメージです。広告は最初からばかばかしいものとして捉えているためか、真面目な広告をバカにしているようなところがありますが、広告とはそもそも何かを伝えるものですから正面からまともな言葉で伝えようとするものは批判の対象にならないのかも知れません。
本の最後にある初出誌一覧を見ているとまた感心します。
5年分のエッセイをまとめてあるとは言え、60近くの書籍や雑誌が並んでいます。あとがきや解説、帯のメッセージなどいろいろです。まさに雑文書きのプロと言えるでしょう。
中身も日常のちょっとした事や自分の思想を書き、本職の広告費批評といろいろこなしながらその仕事ぶりは決して「雑」ではないです。
文章が面白くても読者の感覚とまったくかけ離れていては批評になりませんし、かと言って誰もが考える事ばかりでは読む気がしなくなってしまいます。そのどちらにも偏らず微妙なバランスを保った天野祐吉の文章は天性のものなのか、それともベテランならではの計算なのか、興味あります。それも半々なのかも知れませんが。
2月9日
書感です。
「ピュタゴラスの旅」
著者:酒見賢一
出版:講談社
定価:1300円
初版:1991年1月18日
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短編集です。
酒見賢一って哲学者が好きなのかも知れません。新潮社ファンタジーノベル大賞を受賞した「後宮小説」でも主人公、銀河の先生として魅力的な学者が登場します。
最後の一編「エピクテトス」も哲学者の話です。この本はハードカバーなので解説もあとがきもなく、自分で考えなければならないのですが、その方が哲学というテーマにはふさわしいかも知れませんね。
哲学というのを一言で説明するのは難しいですが、哲学者を扱った二編に限らずこの短編集に出てくる主人公達は自分の存在というものを追求します。
「哲学的」な結論というのは極端に感じるものが多いです。
劇中でエピクトテスやピュタゴラスは真理を発見した人間としては描かれていません。彼らは確かに一つの生き方を見つけているのですが、それがただ一つと信じているわけではなさそうなのです。ただ、自分が見つけた一つを追求しながら日々を過ごしているんですね。ピュタゴラスは合理的な事を追求しながらもあえてすべてをそれで割り切ろうとはしません。
エピクトテスにとっては自分の信じたように生きることだけが重要で、その結果がどのようになろうが気にしません。
哲学というのは生きるということと必ずしも相容れません。
シンプルな「真理」は人間一人には当てはまっても、それらが絡まり合った社会でそれを実践するには社会と戦うだけの力が必要です。日々の生活から哲学を導くのではなくて、自分の哲学に沿って生きたのが哲学者なのだと語っているようでもありました。
だから彼らは自らの弟子達に自分の生き方を伝えされる事で自分の哲学を後世に残したのでしょう。そして弟子達もそれが哲学だと思ったからこそ、語り継いだのでしょう。
ここでは、哲学とは考える事ではありません。
行動すること、ひいては生き方なのです。
それだからこそ、一生をかけて追求できるものなのかも知れません。
2月10日
書感です。
「セッション」
著者:綾辻行人
出版:集英社
定価:1600円
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綾辻行人の対談集です。
とにかくミステリについて語るというこの企画、顔ぶれ宮部みゆきや北村薫、養老孟司、瀬名秀明や漫画家の楳図かずお、ミュージシャンの大槻ケンヂなどとかなり豪華です。
出てくる人はみなミステリファン。当然ですけど、ミステリ作家はみんなミステリ好きですよね。自分にとってミステリとは何か、どんなミステリが書きたいか。そういう事を彼らはひたすら語ります。
ミステリは批評の対象になりやすいジャンルです。作家にとっても過去に自分が読んで影響を受けてきた作品が絶賛できるものとは限りません。
しかし、どんなに論理がおかしくても納得できなくても、読んで面白い作品は面白い。理屈でいろいろと考えてみたからって傑作が面白くなくなるわけではないんですね。だから、出てくる人たちは自分が好きなものについて話します。
ミステリ作家の好みってやっぱり作品に出ていますね。作家は普通、自分が誰々の影響を受けているという話をしたがらないものだと思っていましたが、みんな嬉しそうにそれを話すのが印象的でした。
あと、読めて良かったと思うのが北村薫と宮部みゆき、綾辻行人との対談です。この対談では宮部みゆきの影が少々薄かったのですが、今まであまり描けなかった北村薫の人物像を覗く事ができました。
北村薫の作品は割と文学よりと言うか、小説だけどミステリ要素もあるといった印象なのですが、本人はかなりミステリ好きで、ミステリ作品に対する目も厳しいです。
そういうように、いろんな人からミステリに関する話を引き出していくのも対談のホストである綾辻行人が誰よりもミステリ好きだからではないかと思います。
綾辻自身は無邪気で真面目な青年といった印象。もう青年という年齢ではないかも知れませんが……。
巻末には綾辻行人と交流のある漫画家、西原理恵子の描いた「それゆけあやつじくん」があり、こちらでも真面目で気が弱いという感じの「あやつじくん」が登場します。ミステリ談義も面白かったのですが、言ってしまえば普通のファンが語っているものとあまり変わりません。でも、その中に見え隠れする対談者の個性がいいんです。
結局のところ読み終わって綾辻行人という作家は好感の持てる人間であるというイメージが加わっただけなのですが、自分が心ゆくまでミステリ談義をしたような気分にさせてくれました。そうしてやっぱりミステリは面白いと再確認する一冊だったのです。
2月11日
Macの雑誌を読んでいたら、何故かWindows用会計ソフトの広告が載っていました。変だなと思って見ても、Mac版が出たと言うわけではないんですね。広告には「Macじゃなくてすみません。でもこのソフトは素晴らしいのでどうぞWindowsパソコンと一緒にお買い求め下さい」とありました。
これはなかなか大胆な広告ですよね。
もちろん、わざわざWindowsパソコンを買ってまでソフトを使おうとする人はいないでしょうが、個人的にMacを使っていて仕事でWindowsパソコンを使っている人は多いでしょうから会社などでソフト選びをするときには間違いなく頭に残るでしょう。
僕はCMとか広告って好きなので、面白いものがあるとつい注目してしまいます。
専門誌などでは真面目に製品の特徴などを説明したものが多いですが、読者が求めていないジャンルのものなどは簡単に飛ばされてしまいます。
しかし、上記のようにMac雑誌の中にWinのソフトがあったりするとそれだけで目を引きます。が、それだけではどっちかと言えば印象悪いですからね、工夫されています。
製品に限らず、企業のイメージ広告やキャンペーンの広告などもあります。コンピューター関係のメーカーはやはりスマートなものが多いですね。Appleの広告は少しひねってとぼけた感じのものになっていたりします。
最近はそうでもないですが、昔はパソコン雑誌と言うと半分以上は広告でした。大げさな表現ではなく、本当に広告が大部分を占めているんです。パソコン雑誌はそんなに部数が出ないからそのぶん多くの広告を載せて値段を抑えていたようです。
広告はメーカーや店舗のものなどいろいろありましたが、ほとんど製品カタログの状態。でも、これがけっこう役に立っていて、そういうところから具体的な値段などを得て買い物をするんです。
今は製品レビューを見て情報を得るのが一番ですね。
しかし、店舗ごとの情報でないと価格が「オープンプライス」などとなってしまってわからないという難点があったりもします。
読んでいるだけでいろいろ欲しくなってしまうことにかわりはありませんけどね。
2月12日
友達との会話で「死後の世界」というのが話題になりました。そう言えば昔、丹波哲朗の「大霊界」って本が話題になって映画にもありましたね。
もちろんですが、死後の世界があるかないかなどという話は全く無意味です。だから話題は死後の世界があった方がいいかどうかという話に終始しました。
死後の世界があった方がいいというのはそこに救済を求めている場合がほとんどなのではないでしょうか。努力などが報われなくてもあの世で必ず報われる、と信じていればましというものなのでしょう。悪いことをすると極楽に行けないというものもありますよね。
しかし、ひねくれている僕としては例えば、報われるという場合どう報われるのか、努力というのをどう判定するのかなんて考えてしまいます。人が人を正しく判定するのは難しいことです。ですから、こういった判定を信じるならそこに人を越えた力を信じなければならないでしょう。だから、無宗教の人間には死後の世界って信じにくいと思います。
最も、特定の宗教などを信じていなくても漠然とした神というのを思い描いている場合ってありますよね。日本人にはそういう人が多いかも知れません。
僕は神も死後の世界も信じないというだけではなくて、ないほうがいいと思っています。もし、自分の身に降りかかる不幸や理不尽な事が誰かのせいだと思ったら、それを恨まずにはいられないでしょう。
僕は失敗の原因って言ってしまえば努力が足りないか、能力がないかのどちらかしかないと思っています。前者の場合は、全力で打ち込むことで、後者の場合は能力を磨くかあきらめるかで折り合いをつけるわけです。すべて自分の中で完結しますよね。最も、神様の思し召しなのだから仕方がないと考えてあきらめられるということもあるのでしょうから、単に考え方なのかも知れません。
さて、死後の世界というものを考えるとき、これまでに死んでしまった人間はどうなるんだろうという疑問が生じます。
もし、人間が死んでもどこかで見ていて、考えたり何かを感じたりするんだったら、自分の生き方自体を考え直さなければって思います。死んだ人はもう何も感じないし、考えないと思うからこそ決断して前に進むことができます。
死んだ人に対して「あの人も喜んでくれる」とか「あの人が悲しむ」と考える事こそ余計なおせっかいではないでしょうかと思います。
それは結局、生きている人の想像でしかありません。
ただ、人間の想いって人に伝わりますよね。だから、死んだ人に変わって何かを成し遂げたりする事は否定しません。
それは単に死んだ人にためにすることなのではなく、生前に共有していたものを達成するという行動だからと思っているからです。
もしかしたら、自分が歳をとって死というものを意識するようになるとまた考えは変わるのかも知れませんね。
もし、その頃までこのメルマガが続いていたらそのときにまた書いてみようかな、と思います(笑)
2月13日
映画を見てきました。
「バトル・ロワイアル」
監督:深作欣二
主演:北野たけし 藤原竜也 前田亜季
原作:高見広春
問題小説として話題になった「バトル・ロワイアル」の映画化です。すでに様々なところで感想は読んでいるのですが僕はまだ原作を手にしていません。いつもの事ですが、原作を読んでから映画を見るとたいていがっかりするからです。
と、いうわけで映画を先に見ました。
全国の中学校から選ばれた一クラス全員を最後の一人になるまで殺し合わせる新世紀教育改革法、通称「BR法」
無人島に運ばれ、一人一つずつ武器を渡された中学生42名。
3日以内に最後の一人にならなければ全員死亡というルールのゲームが始まる……。
正直に言うと、この映画は見ない方がいいです。
お薦めしません。
出来がいいとか悪いとか、そういうレベルの問題ではないのです。個人的に嫌悪感を抱いたわけでもありません。
ただ、平凡な中学のクラスが相手が敵か味方かも判断できないまま恐怖のままに殺し合うという内容があまりに辛い。
僕はホラー映画などでも平気ですし、アクション映画などでは人が死んでも映画として割り切って見られます。しかし、殺す側も殺される側も覚悟もなにもなく、ただそういう環境に放り出されるというようなものって他にはないですよね。
主人公だけではなく、出てくる人物達の苦悩や恐怖が伝わります。自分だったら映画の中の誰のような行動をするのだろうかと考えます。そして、殺されていく主人公のクラスメイトたちが自分の友人などとかぶってしまうのです。
見ている間中、早く終わって欲しいとばかり思っていましたし、見終わった後は汗が出て喉がカラカラ。
こんな風に映画を見たことは未だかつてありません。
そこにどんなに友情があっても、恋人同士でも、最後に生き残れるのはたった一人。もし、相手を殺すことができないのならば、他の人間を殺して最後まで生き残るという価値はあるのでしょうか?
「このゲームを今すぐ終わらせるには、二人して自殺すればいい」と登場人物の一人も言います。
希望を信じるとかあきらめないというのはポジティブな印象を受けるかも知れませんが、バトル・ロワイアルは生き残った者こそ後悔するゲームです。
この映画を見たら、恋人や友達の事を考えるでしょう。
人を信じるという事が何のか考えるでしょう。
しかし、この映画を見て衝撃を受けてまで考えることはないと思います。
もし、見ようかどうか迷っているならやめた方がいいです。
見ても、得るものはありません。
そういう映画です。
原作も読むかどうかはわからないですね。
でも、見た衝撃が去るまでは読めないと思います。
2月14日
書感です。
「地球の緑の丘 -未来史2-」
著者:ロバート・A・ハインライン
出版:ハヤカワ文庫SF
定価:583円
初版:1986年7月31日
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また2巻からという中途半端な借り方をしてしまいました。
最も、これは一つの世界観に沿った連作短編なのであまり問題はありません。今よりはずっと未来、人類が宇宙へ進出し、火星や金星は植民地となった時代。様々な人間が宇宙へ出、地球に帰ってきます。そんな彼らの日常、起こった事件の数々や活躍を描いたのがこの短編集です。
出てくるのはたいてい技術者やパイロット。彼らは自分の職業に誇りを持ち、宇宙という危険な領域で安全を保つために仕事をしています。そして何かが起こった時にはそれまでに培った自信と判断力で危機に対処します。
しかし、登場人物たちはみんながみんな命がけで挑む人間ばかりではありません。月の植民地が嫌になって地球に帰還したのに今度は地球の埃っぽさに不平を言う主婦や、宇宙にあこがれる少年など様々。
表題作の「地球の緑の丘」には宇宙船乗りを引退して船から船へと自作の歌を歌い歩く老人なども出てきます。
クラーク、アシモフと並び称されるハインラインはストーリーテラーとして知られています。彼の作品はSF雑誌に限らず一般の小説誌などにも連載され、SFそのものを広めたと言います。ハインラインには設定やSF的なしかけに凝った作品はあまりないです。しかし、その世界に暮らす人々を生き生きと描写し、物語を作り上げていく様子を読んでいると、彼の頭の中には箱庭として未来世界が広がっているように思えます。
遠い未来、人間が宇宙に出ていっても存在する人間の種類は変わらないでしょうし、主婦の悩みは尽きないでしょう。少年は遠くのものにあこがれるし、老人は昔を想いだして愚痴を言うでしょう。そういうのがある限り、ハインラインはどんな世界を舞台にしても彼自身の作品を紡ぎ出せるのです。
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