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ついに部屋の回線がADSLになりました。 一人暮らしをしているのですが、よくセールスなどの電話がかかってきます。相手をするだけ時間の無駄なので出来るだけ話を聞く前に切ってしまうのですが、けっこういろんなパターンがありますね。 「スメルジャコフ 対 織田信長家臣団」 著者:村上春樹 出版:朝日新聞社 定価:1500円 初版:2001年4月1日 関連書感はこちら 村上春樹が作っていたサイト「村上朝日堂」からエッセイ「村上ラヂオ」と読者とのメールのやりとりや質疑応答などを抜き出したものです。実は本の方は全体のごく一部に過ぎなくて、付録のCD-ROMには単行本10冊文におよぶ文章がつまっているそうなのですがあまりに膨大なので、本の部分だけ読みました。CD-ROMにはイラストを書いている安西水丸と村上春樹の対談なども収録されてなかなか楽しそうです。こういったCD-ROMの欠点と言うのは腰を据えて見なくてはいけないことでしょうね。じっくり見られる利点というかも知れませんが、それは環境次第です。村上春樹の作品をいろいろと読んでいてファンだという人にはけっこうお薦めだと思います。ちゃんと「村上朝日堂」をチェックしていた人もけっこう買っているんでしょうね。僕の場合、こういったエッセイは、作家の面白いところや自己主張の部分などのつまみ食いをするような楽しみを求めて読んでいます。 村上春樹はけっこう大作家というイメージが強く、そのせいでなんとなくうがった物の味方をし、毒のこもった強い論調の文章を書くというような偏見を以前は勝手に持っていましたがいろいろとエッセイを読んでみるとけっこう素直に物を書く人だなという感想を持ちます。 中には皮肉っぽい事を言っていたりするのですがそれも全然嫌みではないですね。本当にそう思っているから書いた、とうい雰囲気です。 読者とのやりとりも面白いですね。アメリカを旅行しながら本を書いたりする人なので集団活動とか好きじゃないのかと思っていたら意外といろんな適当な団体を作るのが好きだったり、仕事関係の知人を集めてマラソンに出たりと活動的です。 村上春樹は僕の読書生活の中ではけっこう微妙な位置で、絶対に読もうとは思わないけど読めば気持ちよく読めるという人です。小説はけっこう昔に読んだものだけなんですけどね。 でも、スポーツ観戦記などはなかなか絶品。 日常を飄々と過ごしているような力の抜け具合は、ある意味自分の目標でもあります。 あ、タイトルは村上春樹が勝手に作った団体の名前に由来しますが深く気にしない方がいいです。念のため。 書感です。 「陰陽師 付喪神ノ巻」 著者:夢枕獏 出版:文春文庫 定価:476円 初版:2000年11月10日 関連書感はこちら 「陰陽師」シリーズはもはや完全に定番と化しました。新しい本が出たらすぐに買うと思います。何よりも晴明と博雅のキャラクターが魅力的です。 さて、短編集である「陰陽師」ですがどうやら各巻ごとに微妙な傾向があります。前回は博雅の「いい漢」ぶりを描いた話が多かったようですが、今回は呪というものに対して深くつっこまれる話が多かったように思います。呪とは形のないもの。 人がものに名前をつけるのも呪。神や仏は大いなる力に名前をつけて実態を持った呪だと言います。相手を殺したいと深く念じ続ければそれはやがて形あるものとなって人を襲うし、恋心が変じて相手をとり殺してしまったりもします。 今回初登場となったのは主人公である安倍晴明に対し、同じだけの力を持つ陰陽師、芦屋道満。自らが強い力を持ってしまい、多くのことを理解してしまったがために、何事も暇つぶしとしか見ることの出来ない人物です。座興と称して死人を蘇らせたり、藤原兼家に呪いをかけてみたりと悪役ぶりを発揮していますがそのどれもが憎めないと言うか、稚気にあふれた印象があります。道満にとって、自分は神仏に近いもの。誰かが強く何かを望んだ時、その善悪に関わらず気が向けばそれをかなえようとします。その結果にはこだわりません。単に本人が望んだ事をしてやった、という事なのです。 この世は全て人の心が作り出したものに過ぎない。人が感じなければ美はなく、人が介在することによって初めて善悪が生まれる。無情の世界観に道満は生きています。 ですが、道満はこの世に見切りをつけてしまったわけではないようです。色々と余計な事に首をつっこむのは、安倍晴明の ように自分と同類の人間に関われるから、ではないでしょうか。晴明と道満の大きな違いは、晴明自身が人を面白い存在と思っているところではないでしょうか。 様々な怪異を解決しようと歩き回っているのは決して博雅の希望だけではありません。怪異のあるところに必ず人間があって、様々な心が交錯しています。宮廷という陰謀に満ちた空間でももしかしたら晴明には面白いのかも知れません。 これまでの短編集でずいぶんと登場人物が出ているため、今回は再登場となる人間も多く、前回登場話との間に流れる時を感じさせます。晴明と博雅の話はまだまだ続く、と作者本人が言い切っているのでひとまずは安心。 しばらくしたら夢枕獏も絶賛の漫画「陰陽師」も読んでみようと思います。 書感です。 「最終兵器彼女 5巻」 作者:高橋しん 出版:小学館ビッグコミックス 定価:505円 初版:2001年8月1日 関連書感はこちら 「この星でいちばん最後のラブストーリー」というサブタイトルのついたこの物語は元々、3巻で完結するはずだったとか。 「もう少しだけ」と書かれたあとがきが3、4巻と続きました。 今回、ストーリーが伸びたのはもしかしたら出てくる脇役たちのせいかもしれない、と思いました。 恋人ではなく、クラスメイトに戻ろうと約束したシュウジとちせ。ある時からちせは学校に姿を現さなくなります。戦争が続くと共にだんだんと失われていくシュウジの日常。そして戦場に立って最終兵器として任務をこなすちせ。 5巻では離れてしまった二人の話が交互に語られます。 高橋しんは実にきれいな絵を描く人ですが、それだけに戦場と化した日本や地震で被害を受けたシュウジの街が痛々しいです。そして、登場人物たちの恋愛もきれい事ではすみません。 一番好きな人ではなくても、そばにいてくれればすがってしまう。自分にとってそれが一番の相手でないと気づいていても、その心地よさから離れる事はできません。相手もまた、自分が一番でないとわかっていて、それでも好きという気持ちを抑えきれずにいます。 シュウジたちだけでなく、読者にも未だ「戦争」がなんなのかわかっていません。戦場でのちせが断片的に描かれていて彼女自身がいろいろと知っている事だけはわかっています。 「真実」を知って死んでいく者、発狂してしまう者。段々と変わっていくちせ。日常の崩壊と共に、いろんなものが失われていきます。 ちせが自分のよりどころとするのは、シュウジへの恋心だけです。そしてシュウジも、消えていく日常になんとかしがみつきながらちせを求めています。 物語の雰囲気から考えても、世界はもうすぐ終末を迎えそうです。そして、それを救える者はいないと言います。 ちせが強大な力を持っていても、シュウジとの恋愛がどれだけ強くすばらしいものでも、それは世界の終わりとはたぶん無縁な事。二人の恋愛で救われるものは、二人の恋心だけなのでしょう。 5巻のラストは、この物語のラストなのだと思って読んでいました。しかし、あとがきにはまだ「もう少し」という言葉があります。 高橋しんはどんな結末を見せるのでしょうか? 書感です。 「どすこい(仮)」 著者:京極夏彦 出版:集英社 定価:1900円 初版:2000年2月10日 関連書感はこちら 京極夏彦の書く、パロディ小説と言うか、ジョーク小説と言うか、とにかく冗談もここまで来るとすごいです。 まず、装幀。挿画はマンガのしりあがり寿で、表紙には汗をかいた巨大な力士。本そのものはハードカバーでありながらなんと500ページを越える大作です。 ページのカットは角が丸く、それぞれの短編の著者(京極夏彦の変名)紹介やページについているサブタイトルは微妙に傾いていて違和感を感じます。 各短編に共通なのは、とにかく力士が出てくるということ、そしてどの作品も有名作品のパロディだと言うことですね。本の帯にはパロディにの題材にされた作家たちのコメントが載っていて笑えたものです。「別に怒ってないですよ」「太めの夏、書いてもいい?」など、京極夏彦との交友を感じさせるコメントばかりでした。 京極夏彦はどちらかと言えば理屈をひねって小説を書く、というイメージだったのですが、バカな事を書こうとすると果てしなくバカバカしくなっていくのかも知れませんね。要は、どういう小説を書こうとするか、ということなのかも知れませんがとにかく徹底しています。 「四十七人の力士」「パラサイト・デブ」「すべてがデブになる」「土俵(リング)・でぶせん」「脂鬼」「理油(意味不明)」「ウロボロスの基礎代謝」など、タイトルを見ただけでもネタのわかる人は多いかと思います。残念ながら「理由」と「ウロボロスの方程式」だけは未読。雰囲気はなんとなくわかりますけどね。ただパロディというだけでなく、最初の「四十七人の力士」から力士の四十七人という数と相撲の四十八手に妙にこだわります。 何度も繰り返されるどぎついギャグに、暑いときにさらに暑苦しくなるような描写。そして持ち運びに不便な本。 京極夏彦やパロディ元の作品のファン以外には絶対におすすめしません。でも、笑える人にはこれ以上ないくらいおかしな作品です。 書感です。 「夢にも思わない」 著者:宮部みゆき 出版:中公文庫 定価:648円 初版:1999年5月18日 関連書感はこちら ちょっと大人ぶった少年を主人公にしたミステリ「今夜は眠れない」の続編です。この主人公の「大人ぶった」ところは何より自分が子供だということをはっきり認識している事でしょう。頭の切れる皮肉屋の親友、島崎と共に自分の家族にまつわる事件を解明した彼ですが、今回もまた事件に巻き込まれてしまいます。 主人公「僕」はクドウさんという女の子が好きだった。 その子の従姉、亜紀子さんが殺されてしまう。彼女は少女売春組織と関わりがあったため、白い目で見られるクドウさんをなんとか元気付けようと「僕」は親友の島崎と共に事件の捜査に乗り出す。恋と友情、事件を取り巻く様々な人間模様。 その中で「僕」が見つけたものは……? 少年が好きだという宮部みゆき。彼女は絶対になる事のできない少年というものに、物語の中ではなりきっているのかも知れません。主人公「僕」は割と考えこむ事が多いという以外はごく普通の少年です。これといって特別に誉めるべきところはないかも知れません。行動力があると言えばありますが、これはちょっと同年代からは抜けた存在である親友の島崎によるところが大きいでしょう。しかし、その少年が、実に魅力的に描かれています。 今回は自慢であるはずの親友、島崎が「僕」にとって少し疎ましい存在になります。女の子が側にいるとき、頭のいい島崎がいると自分は道化になってしまうのではないか? そんな疑心暗鬼もあっていつも一緒のはずの二人は少し離れ気味。でも、女の子にとっての魅力って「僕」が考えるようなものとは少し違うんですね。そして、読者から魅力的に見える「僕」に女の子が惹かれてもそれは少しも不思議な事ではありません。 恋か友情か、という展開になるのが僕はあまり好きじゃないですがそうならなくて少し安心。「僕」にはともかく島崎にはそんな事、十分にわかっているんです。「よくあることさ」となんとも生意気な中学生ですが、読者からすればこんな親友が「僕」にいると安心してしまいます。 読者がどんな目で「僕」を見るのかは人それぞれでしょうが、僕はかつての自分と言うよりは後輩という感覚でしょうか。応援してやりたいけど余計なおせっかいはしないよ、というところです。 そんなふうに身近でいて、肌ではないキャラクターとの距離が絶妙な作品でした。 「恋愛」ではなくて「恋」という微妙なさじ加減が宮部みゆきらしくて良かったです。 書感です。 「月に呼ばれて海より如来る」 著者:夢枕獏 出版:廣済堂ノベルズ 定価:800円 初版:平成11年10月1日 関連書感はこちら 夢枕獏の山岳冒険小説、と読み始めた時は思ったのですが実はちょっと違ったようです。 ヒマラヤの未踏峰に学生時代の仲間と挑んだ主人公、麻生徹は悪天候に見舞われ、メンバーの一人と共に立往生してしまう。仲間の死を目にし、テントごと雪崩に巻き込まれた彼は自力でベースキャンプまで降りようとするが、その途中、無数のオウムガイの化石を目にした。 東京へ帰ってからもオウムガイの螺旋を忘れられない彼はやがて、同じように螺旋に取り憑かれた人間と出会う事に……。 はるかな過去から海の底に生息していたオウムガイの化石がヒマラヤの山頂に……というファンタジックな出だしで始まるこの小説。冒頭にアーサー・C・クラークの引用で「五億年前、月は生命をその最初の住処である海より呼び出し、まだ誰もいない陸地へと導いた」という文があります。 海の底にいながら、月の周期と共にゆっくりと成長を重ねていくオウムガイはさながら月の光を食べて生きているかのような生き物だと語る登場人物。オウムガイの螺旋を進化の象徴として捉えています。主人公の麻生徹が上へ、上へという意識を持って次々と高い山に挑んだのはそもそも「月に呼ばれて」地上へと上がってきた進化の記憶によるものなのでしょうか。 麻生が体験する様々な現象。それは極限状態を体験したがための幻覚なのか、それともオウムガイの導きなのか。 物語はかなり盛り上がるのですが、かなり残念な事にこの本は未完となっています。面白かっただけにかなりショックです。雑誌が休刊してしまったためこうなったようなのですが、アイディアは多作品に引き継がれているのでそちらを読むしかないですね。 ところでこのタイトルの「如来る」の読み方が不明です。 当て字で「きたる」と読むのかな、と思っていますが。 ……と思って、紀伊国屋で検索したらやはり正しかったようです。 書感です。 「三国志 3、4巻」 原作:寺島優 作画:李志清 出版:メディアファクトリー 定価:590円 関連書感はこちら 香港の人気漫画家、李志清の作画による劇画「三国志」のコミックです。 3巻は漢の高官である王允が打倒董卓のため娘を送り込んで三国志史上最強の武将とも言える董卓の義理の息子、呂布と董卓を仲違いさせるという「連環の計」が中心。その話と平行して武勇、戦略のみならず政略にも優れた曹操の出世の様子が描かれます。最初から天下を自らの手に収めようという野望に満ちた曹操は人々からその冷酷さを恐れられながらも多くの優秀な武将を惹きつけます。一方、義の人と言われる劉備は自分の領地を持ち、そこを平和に治めようと思いながらも相次ぐ戦乱にままなりません。 さて、この劉備と曹操の対決を描いていくという三国志ですが、もちろん忘れてならないのは魏蜀と並ぶ呉の存在です。 1、2巻で武勇と知略を兼ね備え、義を重んじる孫子の子孫として描かれた孫堅は不運にも命を落としてしまうのですが、その息子、孫策が4巻で台頭してきます。若いながらも父親の能力を受け継ぎ、部下の人望もある彼はこれまでの武将たちの中でも一番魅力的に見えました。 劉備は義の人というだけあって武将だけでなく民の人望も篤い人物ですが、逆にそれが仇となる事もあります。明らかに危険な呂布を恩人だからと無下に扱えず、ひたすら礼をつくそうとするところなどは張飛でなくともいらいらします。一方、曹操はと言うと、能力が十分にありながら時々短気を起こしたり勝手に劉備を疑っては目論見を外したりと完璧でない部分が垣間見えたりもします。 しかし、これは完全な作り事ではない三国志という歴史ものならではのものなのでしょうね。もとより人は完璧でなく、様々な過ちもあります。 三国志の世界は非常にクールです。裏切りも卑怯な作戦もれっきとした策であり「卑怯な」と歯がみして悔しがったところでそれは負け犬の遠吠えに過ぎません。日本では昔から敗者に肩入れする傾向があるかも知れませんが、三国志では勝たなければ何にもならない、という危機感のようなものが見えます。それだけに手段を選んではいられないのでしょうね。 深い思慮なくその圧倒的な武勇で多くの武将を恐れさせた呂布も、次巻あたりではおそらく終わりでしょう。浮かんでは消えてゆく数多くの武将達。三国志の舞台にはまだまだ数多くの役者が出番を待っています。 書感です。 「そして私は一人になった」 著者:山本文緒 出版:KKベストセラーズ 定価:1200円 初版:1997年5月20日 関連書感はこちら このタイトル、山本文緒の作風、そして暗めの装幀を見てこれは小説だと判断し、借りたのですが読んでみるとエッセイ集だったので驚き。 山本文緒は20代後半で結婚し、離婚して32になり初めて一人暮らしをしたそうです。その一人暮らし生活を淡々と書き綴ったのがこのエッセイ集。 出版用の日記と言うことで、いろいろと意図が含まれているのかも知れませんが、クールに現実を見つめる小説の登場人物のイメージと作家本人のイメージがうまく一致します。 僕自身、アパートに一人住まいではありますが実家はごく近くてちょっと中途半端です。だから本当の意味での一人暮らしというものにあこがれます。ただ、毎日きちんと起きて通勤しなければならない僕と違って、山本文緒は作家生活。〆切以外何にも縛られない生活が続きます。 自由と言ってしまえば自由ですが、自分を律する力がないとどんどん深みにはまってしまうという厳しさがありますね。 特に大きな環境の変化や事件もなく(あっても書いていないように思われる)2年の月日が流れていますが、適度に寂しく適度に自由という生活が山本文緒には合っているように思えました。 コンビニ通いや病気、旅行、実家への帰省など一人暮らしをしている人間ならば誰もが体験するようなごく当たり前の事が書いてあり、特にこれが面白いということもないのですが、読んでいると自分も淡々と一人暮らしの生活をしているような気になってきます。 読者に構えさせることなく、レポート的に自分の生活を伝えるエッセイという感じですが、その合間に作家という職業に対する姿勢や人生観などが垣間見られました。 エッセイって誰でも書けるようでいて、読めるものに仕上げるのは難しいと思います。この淡々としたエッセイはやはり山本文緒という作家の実力を感じさせるものでした。 書感です。 「攻殻機動隊2」 作者:士郎正宗 出版:講談社ヤングマガジンコミックス 定価:1500円 初版:2001年6月28日 何年ぶりでしょうか、士郎正宗の「攻殻機動隊」の続編です。 非合法すれすれの活動によって国家の安全を保証する公安九課の隊長、草薙素子は全身を義体(サイボーグ)化した人間だった。ある事件を追った彼女は自我を持った新種のプログラムと出会い、融合する事によってネットワークに生きる新しい存在となった……。 というのが前作「攻殻機動隊」のあらすじ。今回はそこから4年半後に始まります。舞台となるのは草薙素子が去った公安九課ではなく、軍需産業とも密接に関わる国際的な複合企業ポセイドンが舞台。主人公の名は荒巻素子。やはり全身を義体化し、世界中にスペアの身体を置く彼女にとってもはや物理的な距離はほとんど意味がありません。万能とも言える彼女は、作品中でいったい何に遭遇するのか? 士郎正宗の漫画は何回ですが、必ずしもそれを隅々まで正確に理解する必要はないと思っています。作者自身がかなり細かい事を念頭に置いて舞台設定をしており、欄外などに細かい解説が入っているのは楽しめますが、それはあくまでおまけとしての楽しみです。 人類の大半が電脳化し、自らの感覚としてネットワークを体験することができる未来。それでも人類は様々な観念や肉体という制約に縛られています。攻殻機動隊の主人公はある意味でそこから解放された存在ですが、逆に言えば人としての身体を失ってしまったという考え方もあります。彼女たちは超人的な能力を駆使してネットワークの海を泳ぎます。ネットワークの世界と個人はもはや切り離せず、人間はネットワークの一部となっているとも言えますが、それでも個々の存在は健在で、全体として一つの生き物にはなりません。 対して不思議に描かれているのがプログラム。プログラムが力を行使するためにハードウェアがあるのか、ハードウェアを動かす為にプログラムがあるのかという境界がこの世界で非常に曖昧です。ハードウェア自身もネットワークでつながっている限り、物理的な距離はあまり意味を持ちません。自分の他に優秀なハードを持っている人間がいたらそちらを乗っ取ってプログラムを走らせる事も可能なわけです。電子化された人間もまた、プログラムによって操られてしまう危険があります。 今回、新たに出てきたのが霊という概念です。 日本の中枢で様々な職務を果たす霊能局という存在が、荒巻素子の周囲に見え隠れします。コンピューターを持っても認識できない存在ですが、全身を義体化した素子にも関知する事ができるのは不思議です。電子化された存在でも、そこには魂と呼べる存在があり、電脳空間の中に動き回る自我もまた同じなのかも知れません。士郎正宗は電脳空間の中での人格を「ゴースト」と呼んでいます。 科学知識の浸透によってコミックの見せてくれる未来観はずいぶんとおとなしくなりました。しかし、士郎正宗のように現実が発展すれば想像力がさらにその先を行く漫画家ってちゃんと存在するのですね。 攻殻機動隊は読みにくい漫画ですが、このとんでもない、そして来るかも知れない未来は大きな魅力です。 書感です。 「ルー・ガルー 忌避すべき狼」 著者:京極夏彦 出版:徳間書店 定価:1800円 関連書感はこちら 京極夏彦の新作「ルー・ガルー」は本屋に並んだときから注目していました。これまでの京極堂シリーズや又一シリーズのようなおどろおどろしいものではなく、サイケデリックな装幀。 表紙に並ぶ4人の少女、そして帯には「近未来少女武侠小説」とあります。正直に言うと京極堂シリーズの「塗仏の宴」があまり納得のいく出来ではなくて少し京極熱も冷めていたのですが、この本には強烈に惹かれました。やはり装幀は大事ですね。 京極夏彦の作品はたいてい、前半に蘊蓄や思想に関する語りが多くて後半に行くに従って加速します。この本も800ページの対策ですが1日目に300ページ、2日目は500ページとやはり加速してます。本当は1日270ページのペースで読むつもりだったのですが2日目はやめられず、読み切ってしまいました。 近未来、全ての食料が人口食材に移行し、思想的的な壁が取り払われ、プライバシーの保護など人間の権利が均等に保護された日本で起こる少女連続殺人事件。コミュニケーションの授業以外で人とあまり接触を持たない主人公、牧野葉月はさして親しくもないクラスメイトが殺されかけるという事件に遭遇する。いまだかつてなかった事態に「リアル」なコミニケーションを持ち始める主人公達。そして事件は意外な方向に……。 この作品の設定は、読者公募によって集められたそうです。 読者達が考える未来観を集めて出来た近未来都市は清潔で、何より人間の権利が守られた都市です。普通に暮らしている限りは安全だし、教育も過剰ではなくなっています。それはいわゆる「理想郷」ではありません。ですが読者は違和感を覚えるでしょう。 主人公の葉月は特にそれを不満とも満足とも思わず生きています。世界も「異常」だという主張を持って書かれているわけではありません。葉月の生まれ育った当たり前の日常を、当たり前と感じさせるために京極夏彦は多くのページを費やしています。 一方、主要登場人物の一人で警察官の橡は年代的に僕の世代くらいだと思いますがその「現代社会」に違和感を抱き、適応しきれません。理屈で言えばもっともでありながら釈然としない橡。その世界を当たり前に生きる少女達、理屈で納得しながら暮らしているカウンセラーの不破。それぞれの視点から見ても作品世界は現在と「違う」だけだけであって良くも悪くもないんですね。 登場人物達はそれぞれが自分の捉え方で世間を見て生きています。SF映画などで描かれる未来は否定的な側面を強調したものが多いですが、結局のところ主役として書かれる人物がどう感じ、どう行動するかが問題なのではないでしょうか。 それはまた、我々自身が今の社会をどう感じるか、という問いかけでもありそうです。 明日も引き続き「ルー・ガルー」の話題を書きたいと思います。 書感です。 昨日に続きます。 「ルー・ガルー 忌避すべき狼」その2 「ルー・ガルー」の主人公、牧村葉月はおそらくこの世界でごく一般的な少女であると思われます。こういった小説ではよく家庭環境に悩んでいたり、何かしらある人との差異をコンプレックスに持っていたり、社会になじめなかったりしますがそういうものも一切なし。没個性的です。実は故事で、県議会の議員の養女として育てられていますがそもそも親が教育を手がけないこの世界ではあまり大きな違いではありません。 「ルー・ガルー」の日本では教育問題には配慮が行き届いています。それは過剰な教育ではなくて、あくまで学習をさせるというスタンスによるもの。奨励される学習時間はあってもするかしないかの選択は個人に任されます。 葉月は冒頭で、それまでに関わらなかったクラスメイト、神埜歩未と都築美緒という二人と端末を通さない「リアル」なコミュニケーションを持つことになります。 神埜歩未は人と関わるのが苦手だ、と自称します。一人称が「僕」という彼女は論理的で常に冷静。しかし、コミュニケーションが苦手というのは決して外に出ないという事ではなく、自分の身で様々な現象を感じ、自分の足で歩くというその世界では珍しい行動パターンの持ち主です。 歩未は人と関わるのが苦手なため、逆に人というものを研究しています。その行動は清々しく、特に後半では活躍が目立ちました。 都築美緒は感情の起伏が激しく、行動的な少女。その知能は同年代を凌駕し、世界レベルの天才と言われています。彼女の場合、その頭脳のレベルが正確の形成にほとんど影響していないというやはり小説にはあまりないパターン。また、知能が高いというのは決して知識があるという事ではありません。必要な時には必要な事をあらゆる手段を使って調べられるし、行動も自由自在です。すべてが記録に残る情報化社会において、情報を自由に操作できる彼女のような存在は魔法使いとも言えるほどの力を持ちます。 と、主役となる3人の少女を紹介しました。京極堂シリーズなどがそうですが、京極夏彦の小説には能力の異なる人物が大勢登場して断片的に事件を解決していくというパターンを持ったものがあります。 しかし「ルー・ガルー」にあるのは逆にディスコミュニケーションです。特に主人公は、きちんとした意志の決定によらず動きます。歩未と美緒の二人はきちんと独立した存在で、それぞれの世界を形成し、独自の行動がとれます。最初は葉月のような人物が普通で、美緒や歩未が変わり者なのかと思って読んでいたのですが他の少女たちを見ていると、それぞれに強い自己主張を持っているのです。 葉月の没個性がその世界の一般代表でないとすれば、主人公の役割というのは一体なんでしょう? 葉月は性格的に特にマイナスという部分を持っていないません。ですが、行動できない、決断できない場面が数多くあります。それは、葉月自身がそういう決断や行動を迫られた事がないからです。能力の欠如ではなく「リアル」の不足。それが葉月を一歩遅らせる原因となっています。 この「ルー・ガルー」は小説で、割とありそうもない近未来を描いています。ストーリーも特に斬新ではありません。京極風と言えば京極風なので好きな人には間違いなく面白いです。 しかし、読んで感じたのはその「京極」という部分ではなく、物語中にある新鮮さなのです。 なぜならば、この物語は葉月が初めて感じる「リアル」だからなのだ、と思います。大きな魅力のない主人公は、この物語にとって絶対に必要な人間なのです。読み切って初めてわかる、パズルを解くような楽しみ。これが京極夏彦の本領ではないでしょうか? 書感です。 「陰陽師 1、2巻」 作者:岡野玲子 原作:夢枕獏 出版:白泉社 定価:771円 関連書感はこちら 原作者、夢枕獏も絶賛のコミック版「陰陽師」です。 小説「陰陽師」を元にしたオリジナル作品と言っても良いかも知れません。 ゆったりと流れる平安の時間の中で繰り広げられる晴明と博雅の活躍を描いた小説版の魅力はあえて細々と蘊蓄や顛末を語ったりしない事です。それが逆に雰囲気を引き出します。 しかし、コミックにおいて、絵で描かれない事、語られない事は「なかったこと」になってしまいます。 岡野玲子は原作を読んで、どんな世界を思い描いていたのか。それがコミック版の出来を決めることになりますね。 絵として表現された陰陽師の世界は、あっさりとしていながら怖さがあります。特に夜の場面になると、光の届かぬ隅には何かが潜んでいて、怨霊などが出なくても闇というものの怖さが伝わります。 原作とはまた違う、魑魅魍魎と同居する世界観。それだけに飄々とした晴明のキャラクターが引き立ちます。 特に平安時代という事にこだわらず、カタカナの言葉を使ったり晴明と博雅のかけあいをコミカルに描いたりする事によって表現された二人の気安さ楽しいです。 コミック版の一巻は晴明が賀茂忠之の愛弟子となるまでのファーストエピソードと原作の最初の話「玄象といふ琵琶〜」ともう一片を収録。「玄象〜」は原作だと短編ですが、コミック版では様々な解説やオリジナルの会話なども加えて割と長いものになっています。物語の顛末などを加えたり、話の細かい点を変えたりというところも多く、原作を読んでいてもまったく新鮮に読むことができます。 2巻では「鬼のみちゆき」「天邪鬼」を収録。前者の方は原作に比べると話が大きくふくらんでいて、京を脅かす大怨霊である菅原道真などオリジナルの鬼が多く登場し、緊張感のある話となっています。原作版ではあまり晴明の公務について触れませんが、陰陽師の役割が伺い知れるエピソードも多いです。 また、その時代の背景や京の成り立ちなどに対するアプロートはむしろ原作より細かいくらいで驚きでした。 面白いのは百鬼夜行や登場する怨霊などを「わけのわからぬもの」として描かない事です。怨霊になるには理由があり、鬼たちにはそれぞれの人格があります。わらわらと現れる魑魅魍魎質は陽気です。平安の夜は人外の者たちの世界なのですね。 原作にはいない登場人物、真葛などがこれからどう話にからんでいくのか楽しみです。小説と漫画、両方を楽しめる作品はそうそうないので、得をした気分です。 書感です。 タイトルからはドキュメントを想像するのでしょうが、これは架空のテニス界を舞台にしたサスペンス小説です。 しかし、何より素晴らしいのがそのテニス描写で、登場する主役二人のテニスに魅了されました。 ソ連の誇る若きテニスプレイヤー、ヴァサリオン・ツァラプキンはオーストラリアの大会で地元のチャンピオン、ゲイリー・キングに敗れる。これをきっかけに二人の間には友情が芽生え、ツァラプキンは祖国を捨ててオーストラリアに亡命した。プライベートでは親友、ダブルスでは無敵のコンビ、そしてシングルスではライバルという二人は、ウィンブルドンのシングルス決勝で顔を合わせた。その頃、大会事務局には要求を呑まなければ観戦中のイギリス女王とウィンブルドン勝者を狙撃するという脅迫が舞い込む。事情を知ったツァラプキンは決勝の試合時間を引き延ばすため、自分の技術の全てをつぎ込んでキングと戦うことを決意した。ウィンブルドン史上空前の決勝戦が始まる……。 試合に勝つ事ではなく、テニスを楽しむ事が目的というツァラプキンは試合を通じて観客だけではなく、相手選手や審判までをも魅了するプレイヤーです。しかし、そのためになかなかタイトルを手にすることができません。そんな彼がキングにはもどかしい。 キングは24歳にして老獪とまで言われる完璧なテニスを身に付けたプレイヤーですが、ツァラプキンほどテニスを楽しんでプレイすることはできません。ツァラプキンこそまさに、テニスを楽しむ天才なのです。 この小説、事件が起こって警察がそれを解決するというプロセスはありますが、中心となるのはあくまでテニス。物語の半分はウィンブルドン決勝戦のコート上で進みます。もしツァラプキンがキングに負けてしまえば、キングは殺されてしまう。 それを防ぐため、まさにツァラプキンはテニスに命をかけて戦います。 彼らにとっては、コート上での一球一球が会話なのです。相手のミスに怒り、良いプレイを喜び、ボールに同様を見いだしたり、自分のプレイで相手を安心させたりします。 これほどまでに清々しい友情を描き出した小説は今までに読んだ事がありません。 スポーツ界が舞台となる小説は珍しいですよね。ドキュメントでは胸を打つような作品が数多くありますが、それだけに想像で書くというのが珍しいジャンルなのだと思います。 著者、ラッセル・ブラントンはよほどのテニスファンで、頭の中でテニスができる人なのでしょう。おそらく、ツァラプキンやキングこそが彼の理想のプレイヤーなのです。 しかし願うなら、現実が想像のプレイヤーに勝って欲しいものですね。 |
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