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7月16日
書感です。
「Uの世界」
著者:神林長平
出版:徳間文庫
「戦闘妖精雪風」などで知られる国際SF小説界の大家、神林長平の初期作品短編集です。
性別も年齢も、住む世界も違う主人公達に共通するのはユウという名前だけ。そしてどの話でも、自分が現実だと思っていた世界が作られたものかも知れない、というテーマを持っています。
さて、読んでいて何より驚いたのは、最初の作品「虚蝉」の設定が映画「マトリックス」に似ていたという事です。
人間の肉体は偽物で、人の本体はどこかで管理されており、そこからの電波で動いている。世界は本当は砂漠になっていて目に見えているのは偽物だ。
精神を病んだ祖父から繰り返しそう聞かされていたごく普通のOLだった主人公は、祖父の死によってその話が本当の事だったと気づいてしまう。人を管理している何者かの妨害を受けながら肉体を取り戻した主人公は、本当の世界を作るために旅立つ……。
他の作品も似たようなもので、ある日突然に自分の住んでいる世界が偽物だと気づいてしまいます。新たな世界を求める主人公、そこから抜け出さずに何度も同じ人生をやり直す主人公と行動は様々です。物語そのものは古風なSF、という感じでそんなに名作ではないと思うのですが、こういうテーマは昔からあるのだなと感心しました。
夢か現実か、という話はコンピューターを使った仮想現実の実現によってファンタジーからSFになりましたがそのうちミステリに変わるかも知れませんね。
神林長平の作品は初めてではなく、以前に「敵は海賊・海賊版」などのスペースオペラを読んでいます。やはり本領はそちらでしょう。
なお、この本の文庫版はもしかしたら絶版かも知れません。
7月17日
書感です。
「陰陽師 3、4巻」
漫画:岡野玲子
原作:夢枕獏
出版:白泉社
定価:771円
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先週末に紹介したばかりのコミック版「陰陽師」ですが、早くも続きを買ってしまっています。原作で話は知っているのですが、コミック版ならではの魅力にも抗いがたいです。
普通のコミック化とは逆に、小説より深く陰陽というものに突っ込んでいるコミック版では今回も様々な解説がなされています。安倍晴明の親友、源博雅は世間の噂をそのまま信じて晴明の使うものはすべて式神だと思っていますが、実際に使役しているのは花や虫などの精霊たち。だからこそ晴明は庭の手入れをせずに放っておき、精霊たちの好きな状態に保っているのですね。文字通り花や虫の心がわかる晴明は並の風流人んではありません。
さて、本当の式神というのは十二方位に住まう十二神の事。
このコミック版「陰陽師」では各巻のタイトルに六合、勾神などとついていますがどうやらこれが式の名前らしいです。
なるほど、それで十二巻完結予定なのか、と納得しました。
3巻に収録されているのは「黒川主」「鬼やらい」の二編です。原作の「黒川主」は印象深い話で、鵜匠の娘に川獺が憑いてしまうという話なのですが、この川獺の黒川主が大胆でなかなか魅力的。コミック版ではただ化けて出るというだけではなく一ひねりした話になっています。晴明と渡り合えるほどの存在ではないのですが、黒川主の悪役ぶりが良かったです。
「鬼やらい」はおそらくコミック版オリジナルの話。宮中に出る佑姫の怨霊のたくらみを博雅と晴明が鎮めるという話なのですが、この佑姫や菅原道真などの怨霊他と一線を画していてたいへん人間的です。もはや復讐の事しか頭にないというのがかえってコミカルにも映ります。そんな佑姫に対するのが誰よりも真っ直ぐな気性の博雅だったからこそ、佑姫の思惑通りにいかないのです。
原作の「飛天の巻」が博雅の「よい漢」ぶりを強調していたように、コミックの4巻でも彼は中心に据えられます。笛の音を聞くと誰もがことごとく涙を流す、と古典に書かれたような文は漫画にしにくいのでしょうが、笛を吹きながら月夜を歩く博雅の描写は雰囲気たっぷりで原作を損なうようなものは何一つありません。4巻収録の「蟇」と「白比丘尼」はいずれも原作を大幅にいじっており、悲劇性の強い話に変わっていました。だんだんと岡野玲子は「陰陽師」を自分のものにしつつあるように感じます。
現在、コミック版「陰陽師」は10巻まで出ていますが、どうなっていくのかとにかく楽しみです。
7月18日
「華胥の幽夢」
著者:小野不由美
出版:講談社文庫
定価:648円
初版:2001年7月15日
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国産ファンタジーの最高傑作「十二国記」シリーズの短編集です。長らくの沈黙を破っての「黄昏の岸 暁の天」に続いて出版となったため、ファンとしては嬉しい限りです。
十二の国と十二の王、十二の麒麟。
麒麟は天命を得て王を選ぶ。国は王によって栄え、王は国の衰退によって滅びる。国が栄えている限り、王の寿命に終わりはない。しかし、仙籍を得て国政に携わり、長い時を過ごす者たちは知っている。滅びぬ王はいない。繁栄にはいつか終わりが来る……。
十二国記を読んでいる人間ならば誰もが感じるであろう疑問があります。主人公、景王陽子の治める慶や延王尚隆の治める雁にもいつか終わりは来るのだろうか?
国の終わりは人生の終わりと違います。王が死ぬとき、それは自身が道を誤って国を滅ぼしかけたときだからです。長く善政を敷いている者ほど道を誤る事は少ないでしょう。
十二国記に登場している国のうち、最も長い奏国宋王の治世は六百年。あと八十年で史上最も長い国となります。
しかし、やはりここで思うのが六百八十年も治世が続きながらやはり滅びてしまったのは何故か、と言うこと。
十二国記の物語はそれぞれが独立したエピソードですが、滅びかけた国に新たな王が即位したり、新しい王が国を立て直したりといった共通の要素を持っています。滅びる国は、みな王が悪政を敷いたとしか理解していません。
しかし、ここで今まで撒かれた疑問が短編集によって解消されました。この短編集に収録された作品の多くは国が滅びる物語です。天命によって選ばれたはずの王は、何故道を踏み外したのか。そもそも、道を踏み外すというのはどういうことなのか。そういう事が語られます。
国を動かすという事の重圧、王と家臣の行き違い、理想と現実との間での葛藤。国という大きな荷物を背負ったまま迷いや疑問を持った王は、やがて一人でそれを支え切れなくなって道を誤り始めます。
滅びに国はない、繁栄は永久に続かない。この物語はそう告げているようにも思えます。しかし逆に、現在長編で活躍している主人公達と滅びた王達はまったく違うように感じます。
「永久」という言葉と戦うにはどんな人間でも力不足かも知れません、しかし主人公達は一瞬一瞬で決して道を誤らない。たとえ誤っても自らを訂正する力がある。滅びの物語を読むことで、今までの物語はより強く希望を与えてくれました。
7月19日
書感です。
「日本亭主図鑑」
著者:井上ひさし
出版:新潮文庫
定価:240円
初版:昭和53年11月27日
井上ひさしのエッセイなのですが、タイトルに反して書いてあるのは女性に関する事ばかり。この本は亭主という立場から見て女性がどういう生き物に見えるのか、という事を痛烈に書き綴ったものです。
出版されたのがもう20年も前なので細かいところを挙げれば現代とは少しずれがあるものの、ほとんどの事は今においても変わりません。
全体的にユーモラスな文体で書かれてはいるものの、その舌鋒は鋭く、男性は笑って読めても女性は怒るかも知れません。
ただ、井上ひさしがここで言いたいのは女性の悪口なのではなくて、世間で言われている男女平等に対する疑問や、口先だけの男性女権論者に対する批判なのではないかと思います。
どれだけ理想を唱えても、実状を正しく認識しなければ何もできないのだ、と暗に言っているようです。
また、それと同時に書きたい放題いろいろと述べる事で本当に本人のストレス解消をしているような印象もあるから面白いです。何より楽しんで書いていそうな雰囲気。
基本的には女性をこきおろしておいて、最後に「じゃあその女性にしてやられてばかりいる男性は何なのか?」というオチをつけることによって、男性への警告を発しています。こちらが真の目的、と最後に添えてはいますが、結局読者としては煙に巻かれたような気分です。
あとがきによると、このエッセイの連載中、井上ひさしはずいぶんといろいろな抗議や脅迫を受けたそうです。そういう行動こそがエッセイの中では一番バカにされているのですが、そういう人たちは内容をよく読んでいないのでしょうね。
もしこの連載が今の新聞で行われていたら、どうだったんでしょうか?
当時、このエッセイを掲載した新聞社はなかなかシャレの効くところだったのだろうと思います。今でもそういった余裕を持っていて欲しいものです。
7月20日
書感です。
「ARMS 18巻」
作者:皆川亮二
出版:小学館サンデーコミックス
定価:486円
初版:2001年8月15日
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崩壊した「エグリゴリ」の本拠地の地下でキースシリーズの一人、キース・バイオレットと遭遇した高槻涼たちオリジナルアームズ。あからさまな「敵」ではないバイオレットとの戦いに戸惑いながらも神宮隼人は自分のアームズ、ナイトを発動させ、バイオレットを倒す。一方、兄ブラックの計画を止めるため戦いを挑んだキース・グリーンは瀕死の重傷を負いながらも最後の力を使って涼をブラックの元へと送り込む。ブラックの計画は、そしてカツミの運命はどうなるのか?
カツミを涼の目の前で殺し、その感情によって涼のアームズ、ジャバウォックを解放しようとするブラック。生体コンピューター、アリスから作り出されたキースシリーズでのリーダーであるブラックはアリスの意志の忠実な代弁者として憎むべき人類を滅ぼそうとします。しかし、アリスはまた昏睡状態の巴武士の元へ自分の分身を送り込んでいます。武士に過去を見せたアリスと、人類を滅ぼそうとするアリス。それはちょうど涼たちオリジナルアームスとキースシリーズの対立構図そのままです。
感情の高ぶりによってジャバウォックを発動させては制御できなくなっていた昔と違い、現在の涼はその強大なパワーを完全に制御しています。ジャバウォックを倒すべき存在として生まれてきた神宮隼人のナイトもまた一歩進化を遂げ、より隼人の意志に忠実に動く存在となりました。感情の起伏によってむらがあった隼人は今や神宮流古武術の継承者として生身でも恐ろしい程の戦闘能力を発揮します。パワーでは圧倒的なものを持つジャバウォックでも戦闘技術に関してはナイトに一歩譲るようです。
しかし、真に恐ろしいのはどんな作戦も技も通用しないジャバウォックのパワー。アリスと一体になったジャバウォックは貪欲に全てのアームズの力を求めています。ブラックのアームズ、ハンプティ・ダンプティが能力の吸収という力に特化していますが、涼とキース・シルバーの戦いを見ると基本的にアームズにはそういった力があるようです。
おそらくは全てを吸収して一体になろうとする、というのが今後の展開のキーワード。アリスの憎悪が全てを飲み込んでしまうのか、それとも涼たちの意志がアリスを押さえ込むのか。
次巻、戦いは再び精神世界へとなだれこみそうです。
7月21日
昨日は海の日で、海水浴場などはかなり混雑したようです。
しかし、7月20日が休みっていうのは学生にとっては中途半端かも知れませんね。僕の中学、高校時代はその時期、元々試験休みでした。海の日って確か平成に入ってから出来た休みでしたよね?
元々は昭和天皇の誕生日だったと記憶しています。
今日の朝刊でビーチにあふれるパラソルを見ましたが、あれは本当にすごい光景ですね。
僕はここ数年、海ってぜんぜん入ってません。いや、プールにも入っていないので水に入っていないんですね。海岸を歩いたりという事は何度かしていますが。アウトドアに行くとしてもいつも海になってしまいます。
小さい頃からどちらかと言えば海は苦手です。砂の感触があまり好きではないのと、生き物が苦手だからですね。別に魚なんかは嫌いじゃないんですが、虫とかあとは柔らかい海棲生物は好きじゃありません。
友達に誘われたりしたら行くのかも知れませんが、どうも友人関係はほとんど山指向です。暑いときに暑いところへ行きたくない、という人ばかり。
中学、高校にはプールがなくて、年に一度水泳合宿というものがありました。中学一年だけは全員参加となっていて、外房の海で2kmの遠泳をしたりします。泳ぐときは水泳パンツではなく白褌で、旅館から甚平を着て海岸まで行くと海水浴客の注目を集めてかなり嫌な感じでした。
水泳自体はどちらかと言えば好きです。思いっきり泳ぐというよりは水につかって浮かんでいるのが好きです。小学生の頃には水泳をやっていて、泳ぐのはそこそこ出来ますが、早くはないんですよ。とりわけ平泳ぎは遅いです。
高校の頃には毎年、豊島園のプールへ行っていました。豊島園にはかなり規模の大きいウォータースライダーがあってみんなそれが目当てなんですが、僕が好きなのは深いプールと流れるプール。あとは波のあるプールです。
深いプールが好きなのは、空間が3次元的に使えるからですね。せいぜい2.5Mくらいなのでしょうが、深く潜るのが何より楽しいです。
さて、たいていここに書くとそう遠くないうちに実行してしまうんですよ。戦意高揚のために書いている、というところでしょうか。久々に海に行きたいと思ってます。
7月22日
書感です。
「スウェーデン館の謎」
著者:有栖川有栖
出版:講談社文庫
定価:619円
初版:1998年5月15日
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有栖川有栖の国名シリーズです。
地元で「スウェーデン館」と呼ばれるログハウスに招待された作家、有栖川有栖。童話作家とスウェーデン出身のその妻、美人の画家姉妹、建築業者の社長。多くの人々が滞在するその館の人間関係は至って良好に見えたが、そこで殺人事件が発生する。事件は2年前、童話作家の息子が溺死したことに関係があるのか……?
山奥の館、癖のある住人、殺されてもおかしくない人間関係。こういったものが推理小説の定番と言えるでしょう。しかし有栖川有栖の小説はひと味違います。この作品の登場人物達は必ずしも好感の持てる人間と限らなくてもとても殺人に関わるようには見えず、殺された人間も何故殺されたのかさっぱりわかりません。謎もトリッキィではないのにどうしてもすっきり解決しないというものです。推理作家である有栖川有栖も必死に知恵を絞るのですが、いっこうにいいアイディアが浮かびません。
主人公となる作家、有栖川有栖は人のいい人物で、彼の目に好印象に写ると読者もついそれに好感を持ってしまいます。推理の課程で好感を持つ人物が犯人ではないかと思い始めると今度はそれを否定するための推理を組み立てようとしていてどうにも客観的ではありません。だから彼は主役の探偵には向かないのです。しかし、経験的に読者は有栖川有栖の人を見る視点がまるっきり間違う事はないと知っています。だからこそこのシリーズは恐ろしいのです。
人が良く、好感が持てる人物でも何かのはずみに殺人を実行してしまうような状況に追いつめられる事がある。事件解決間際の息苦しさは親しい人を告発するというラストに向かっていると薄々わかってしまうから起こります。
犯人を追いつめて行くのはご存じ、犯罪学者火村英生。常に客観的に事件を眺め、論理的な推理で人を追いつめていきます。しかし彼は決して冷徹な人間ではなく、人が殺人という犯罪に向かって追いつめられていく課程をよくわかっているだけに犯人を指摘する苦しみは有栖以上かも知れません。
人の良い有栖よりも火村の方が犯罪者に対して理解が深い。
だからこそ逆に、彼は犯罪者を許しません。どんなに追いつめられたからと言って、殺人という逃げ道を人が見いだしてはいけないのでしょう。
有栖川有栖の描く事件はどうにもやりきれないものが多いですが、その中にも主人公、有栖川有栖は救いを見いだします。
だからこそ安心して読み続けられるシリーズなのです。
7月23日
土曜深夜にやっていた映画「ウルトラマン ティガ」の劇場版「The Final Odessey」を見てしまいました。「ウルトラマン
ティガ」は「ダイナ」「ガイア」と続いた新生ウルトラマンシリーズの第一作で高い技術の特撮と練り混まれた脚本によりなかなかの仕上がりを持った作品となっており、毎週楽しみにみていたものです。
古代の遺跡から発掘された石像から光の力を得てウルトラマンへと変身できるようになった主人公、ダイゴは地球平和連合TPCの怪獣対策部隊GUTSに所属しながら、人間の力が及ばない時にだけウルトラマン
ティガとなって戦います。ただ怪獣を倒してしまうのではなく、何故怪獣が現れるのか、倒してしまっていいのかという葛藤が多く見られました。物語の最後で、古代から蘇った闇の邪神に破れ、力を失ったティガですが、人間の持つ光の力によって復活。邪神を倒し、ティガは今度こそ眠りにつきます。
主人公、ダイゴの最後の台詞「人は誰でも自分の力で光になれる」という言葉が印象的でした。
さて、劇場版はそれから2年後の話です。
ティガが最後の戦いを繰り広げた遺跡から発見された3体の石像はやがて闇の巨人として復活。そして復活した巨人はダイゴの精神にティガ誕生の秘密を語ります。3000万年前、超古代人はウルトラマンの力を手にしたものの互いに争い、ほとんどが全滅。最後に残ったのがティガたち4人の闇の巨人で、ティガは残りの3人を裏切って封印した、と。
「誰でも光になれる」と言い切ったダイゴ。しかし彼はまた、ウルトラマンの力をむやみに手にすれば人類が危なくなると薄々感じていました。だからこそ過去のいきさつに衝撃を受けます。遺跡は100年間封印されており、ダイゴは自らの力で彼らを倒すか、100年後の人類に託すかという選択を迫られますが調査隊の生き残りであるイルマ隊長を救出するため、単身島に向かいます。
再びティガの力を得たダイゴはウルトラマンへと変身しますがその姿は黒い闇の巨人。本来の力を使うことができないティガは苦戦を重ね、ついに止めを刺される、と思われたそのとき光の力の象徴である赤い色を、続いて青い色を取り戻します。
光の巨人に戻っても最強の闇の巨人には苦戦し、倒れてしまうのですが遺跡の各所から立ち上った光りによってティガは黄金のウルトラマンへと変身。闇の巨人をうち破ります。
ダイゴを始めとするGUTSのメンバーはその時、悟るのです。
3000万年前の戦いは闇の力によって相争い、共倒れになったのではなく力を得て闇になった巨人と光になった巨人の戦いであったのだ、と。
光と闇という二元論はアニメや特撮においてよく出てきます。ただ、ウルトラマンティガでは怪獣=闇ではなく、自然現象の一環として扱われている事が多かったです。人間や異次元人、古代人など知的生命体が絡むとき、ウルトラマンの光に対して闇という要素が強調されます。テレビシリーズでもウルトラマンの力を手にした人間が破壊衝動に負けて暴れ回るという話があり、誰もがウルトラマンになれるわけではないという教訓めいた回になっていました。
TPC内でも、怪獣に対する武装強化を叫ぶタカ派と戦力過剰を懸念する穏健派の対立が激しくなっています。面白いのは最前線に出るGUTSの面々が穏健派である事です。
アメリカンコミックなどでもアメリカ軍が戦力としてヒーローを組織に組み込みたがったりする話が多いですが、現代社会では強大な力というのが必ず軍事力と比較されるのを避けて通る事はできないのでしょうね。
物語中でも、闇の力に対して光の力でぶつかった結果、曹芳全滅という顛末になっています。結局のところ、強大な力そのものを否定する内容です。主人公、ダイゴの葛藤も光の力によって人類の後始末をする、というところにありました。
ウルトラマンはヒーローですが、人類の生みだした影の部分に対しての光。本来、存在してはならない存在として描かれているのが深いです。
7月24日
書感です。
「陰陽師 5、6巻」
作者:岡野玲子
原作:夢枕獏
出版:白泉社
定価:790円
初版:平成11年9月1日
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コミック版「陰陽師」ですけっこうなペースで2冊ずつ買ってしまっています。原作ものながら、コミック版にしかない要素が数多く盛り込まれ、原作にはなかった話の大きな流れが感じられます。
5巻の冒頭はかつて晴明が鬼を封じた楽器、玄象が博雅の背から離れなくなるという話。原作版には絶対にあり得ないコミカルなタッチが良いです。コミック版では博雅が様々な事に巻き込まれる不幸な男として描かれています。
もう一編の「露と答へて」は原作でもかなり印象深い話で、博雅の「いい漢」ぶりが存分に発揮されていましたが、コミック版では藤原の兼家と兼通の権力争いや晴明と敵対する法師など多くの要素を絡めて大きな話に発展しています。
ここでよくわかるのが、晴明が宮廷に取り立てられているのは陰陽師としての実力だけでなく、宮中の様子に通じ、人の情を理解し、機転を効かせて物事を丸く収めるだけの能力を持っているからなのだという事です。そもそも、鬼を鎮めるのに必要なのは力でなく理解、と晴明は語っています。世捨て人のような生活をしていながら、誰よりも人を理解しているというのが晴明の魅力です。そして、人間の暗黒面を知り尽くした晴明が心を許せる博雅こそ本当に「よい漢」というわけですね。
コミック版は晴明の独白も多く、小説版では伺い知ることのできない彼の内心が語られます。晴明も決して余裕があるわけではなく様々な局面を綱渡りのようにしのいでいるようです。
6巻は2編収録ですが、どちらも怪異を晴明が解決するという物語構成。しかし前者の話は原作では不気味な事件から祝い事に繋がるというものだったのに対し、コミック版では貴族社会の利害関係がからんでもう一転します。また、晴明にも完全に理解できない要素が入り込み、彼自身が何か大きな流れに巻き込まれていくのを漠然と感じる、という後に続きそうな話になっています。これは後のオリジナルな展開につながりそうです。
もう一編は博雅が主役となる話。彼の笛は人の心にだけではなく、鬼や物精にまで響きます。佑姫が恐れ、晴明が誉める博雅の人柄は下手をすると本人の身を危なくする諸刃の剣でもありますが、宮中においても欲のない博雅はやはり誰からも愛される存在であるようです。
原作から離れた感の強いこの5、6感ですがむしろ作者の味が発揮されているようで満足。コミック版を元にしたドラマを作って欲しいところです。
7月25日
書感です。
「ナイン」
著者:井上ひさし
出版:講談社文庫
定価:380円
初版:1990年6月15日
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井上ひさしの短編集ですが、もしかしたらエッセイに近いものなのかも知れません。東京の下町を舞台に、作者本人かも知れない「私」が見聞した物語を綴ります。
表題作の「ナイン」はかつて地区大会で活躍した地元少年野球チームのその後を描いた作品です。少年だった彼らも結婚したり就職したりで30を過ぎていたりします。たとえ環境が変わっても決勝戦で芽生えた友情と信頼は変わらない……。大人になって変わってしまったと思っても、彼らの根底には少年時代の経験があるのです。
そんな話をはじめとして、劇場が舞台のちょっといい話や近所の老人同士の友情、飲むと喧嘩するお隣さんなど、すべてちょっとしたエピソードとして語られ、本当にありそうな気がする話ばかりです。
最後には井上ひさしが書いた年譜が載っているので、これkらの話はその課程のどこかで本当にあったものを脚色したと見るのが妥当かも知れません。その年譜の中に「日本亭主図鑑」の連載中に婦人団体から抗議を受けたという話がわざわざ載っていて、本人はよほど面白かったのだろうと思いました。
東京の下町、という舞台は身近なようでいてドラマでしか味わった事のない世界。井上ひさし自身がそこから遠くに離れているわけではないのに、日常でバスの窓から目にする風景や雑踏の中にノスタルジィを感じているようです。故郷とは遠くにありて思うもの、というだけではないんですね。いや、少年時代などというのはもはや遠くに過ぎ去ってしまったものなので遠くにあるとも言えるのでしょうか?
僕自身はそんなにじ〜んとくるような少年時代がないのでうらやましくも思います。もしかしたらと何十年もしたらなつかしくなるのかも知れませんが。
7月26日
書感です。
書感です。
「第二誕生日」
著者:北方謙三
出版:集英社文庫
定価:400円
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「ブラディ・ドール」シリーズなどのハードボイルド小説を手がける北方謙三のエッセイです。はっきりと触れられているわけではありませんが、このタイトルは著者が純文学からハードボイルドに転向した日の事を指しているのではないかと思います。僕はあまり作家の経歴など気にしない方なので北方謙三が純文学出身とはまったく知りませんでした。どうもこの作家は根っからハードボイルドというイメージがあるので驚きでした。大沢在昌のエッセイを読んだとき、氏は北方謙三と比較して自分の事をハードボイルド風ではないという事を書いていましたが、確かにこの比較は厳しいかと思います。北方謙三という人が本当に作中人物のように格好いいかどうかはともかく、自分のスタイルを持っていてそれを貫き通そうとしている事は確かです。それは単なる意地っ張りであったり、かっこつけであったりするのかも知れませんが、それを最後まで保つ事がハードボイルドなのだと著者は主張します。
ハードボイルドの主人公というのはスーパーヒーローではなく痛みも恐れも感じながらやせがまんをしてそれを乗り切ってしまう。乗り切れなくても意地を通したまま倒れてしまう、そんな人間達です。
自分が照れ屋だから目立ったりする事が楽しい、という北方謙三はなかなか万能らしく、何をやっても人並み以上にできるようです。そこから生まれた自信が文章には満ちあふれていますが、才能と言うよりはできるまでやり通す根性なのかも知れません。そして努力したという事を主張するのではなくて、自分は出来るという主張をします。どうやってできるようになったかはさらりと語る。それがハードボイルドなんだな、と思います。必死に考えたり、努力したりするのはもはや当たり前なのです。何をしようとしたか、それができたかどうか。心理描写をしないというハードボイルドの手法ですね。
なにも全てが本人の主張通りとは限りませんが、疑ってかかるのはもったいない。かっこいいと思って騙されてるのが一番面白いですね。こうやって人を雰囲気で呑んでしまうところが北方謙三の才能なのかも知れません。
7月27日
書感です。
「陰陽師 7巻」
作者:岡野玲子
出版:白泉社
定価:771円
初版:平成11年10月4日
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コミック版陰陽師も残り4冊となってしまったので読むペースを落として1冊ずつにしました。7巻は長編で、怨霊となった菅原の道真が宮中で行われる歌合わせを妨害します。しかし道真はその当日、安倍の晴明の屋敷に住む見鬼の少女、真葛と囲碁をすることに。たくらみを捨てていない道真は碁盤を京に見立てて様々な影響を及ぼそうとしますが、対する真葛にもそれはお見通し。晴明も宮中で碁を打ち、道真の影響を押さえようとします。
菅原の道真は原作で未登場ですが、歌合わせの方は短編として収録されています。歌合わせで歌を詠む講師に選ばれたのは源博雅。この時、負けてしまった壬生忠見は悔しさのあまり死んで鬼となって徘徊するようになるのですが、コミック版の方ではそれも道真がらみの話となっています。
太宰府に左遷され、中央を呪って死んでいったという道真は天神として祀られながらも京に様々な怪異を呼んでいます。
その様子は、怨念の固まりと言うよりもどこか理屈っぽく直情で、そのために晴明に予測されてしまうようなところがありますが、その人間的なところが魅力かも知れません。
今回は囲碁が重要なポイントとなっているため、その解説も様々なものが入っています。碁盤を利用すれば様々な模様を描くことができ、呪詛の道具にもなるという事を始め、碁盤の白黒が陰陽を表しているなど、形にこめられた呪の身近な例がここにあります。
原作でもコミックでも博雅は晴明の職務とほとんどかかわりませんが、コミック版では晴明はあちこちで活躍しており、博雅はそれを知らずに過ごしているという様な描かれ方をしています。動くことで自分の役割を果たす晴明、いるだけで様々な影響を及ぼす博雅。特別な能力を持たないように見える博雅ですが、晴明と対称的に描かれる事によって博雅もまたヒーローとして認識することができます。
さて、陰陽師も完結まであと5冊。現在出ているものがあと3冊となってしまいました。取っておきたいような、早く読んでしまいたいような微妙なところです。
7月28日
書感です。
「孔子」
著者:井上靖
出版:新潮文庫
定価:560円
初版:平成7年12月1日
井上靖、最後の長編となったら歴史小説です。
孔子は中学の漢文の授業が一年間論語だったため、よく憶えています。小説という事ではありますが、これは孔子の障害を追うものではなく、孔子の死後30年経って生き残った弟子の一人が孔子を研究する人々を前にして師を語る、という内容。
一回ごとに新しいことを思い出したり人が増えたり、また傍聴者から様々な質問が飛んだりとなかなか活気のある様子で描写されています。
論語は元々、孔子周辺のエピソードを集めたもので、普通に小説を書くとそれをつなぎ合わせたものになるでしょう。きっとかなり長いものになりますね。しかし、こちらは思い出話と言った形になっているためエピソードの順番もばらばらですし時には同じ内容を何度も説明したりします。
齢を経て孔子の没年に近づいてしまった語り手、鳶薑(えんきょう)にとって師はなおも心の中に生き生きと残っており、その様子は聞き手にも伝染していきます。
聞き手は皆、熱心な孔子研究家達で、自分たちの孔子観や弟子の中で誰を尊敬しているか、などを熱心に語るのですがその様子が中学の時の論語の授業を思い出させました。先生もおそらく熱心な孔子ファンだったんじゃないかと思います。
孔子は常に弟子達とのやりとりを通して語られます。様々な言葉も、どんなとき誰に対して発したのかがわからないとその真意は汲み取れません。真面目で努力家の顔回には父親のように優しく、熱血漢で正義感の子路には時に諭すように、世の中に通じ物静かな子貢は遠くから見守るようにとそれぞれに対して深い愛情を注ぎます。
常に冷静で動じず、行動を以て弟子に物事を理解させようとする孔子が言葉を発するとき、弟子達は雷に打たれたような深い感動を得るのです。
乱世に政治や戦略ではなく、人が人と関わる形、人が世の中と関わる形を説く事によって少しずつ世の中を改善しようとした孔子はそれを天命と悟って生きていきました。
天命とは何か、仁とは何か、物語の中でもそれは議論に終わり結論は当然出ていません。そういう問いかけは千年単位で行われてきたのですから当然ですね。
古くから伝わる論語ですが、その中から井上靖が思い描いた孔子像はこれまで自分が抱いていたものとそう違うわけではありません。しかし、より深い魅力を持ってこれからも記憶されると思います。
7月29日
今度、自動車教習所に通う事になりました。
僕は割と車などが好きなので免許を持っていないと言うと知人などに驚かれます。みんな学生のうちにとってしまっているらしいですが、なかなかまとまったお金がなかったんです。
しかし、通おうとすれば入学金くらいなんとかなりますよね。これまで無精だった、という事です。
絶対に免許が欲しいと思ったのは5月にドライブへ行ってからです。普段の移動はほとんど電車ですし、都心だと車はあまり使わないのでなかなか免許の便利さを実感する事ってないですが、ドライブという楽しみによって目覚めた、というところでしょうか。
いろいろ検討したのですが、結局近いところがいいと思い川口の教習所に決めて昨日学手続きに行ってきました。
両親もそこの教習所で取っていたので、その紹介だと入学金が5000割引というのもちょっとしたポイントですね。もっとも、両親とも同じ教習所なのであまり他所との比較にはなりませんでした。大学のときはサークルのメンバーが山形で合宿をして取っていたのでなかなかリアルタイムで話を聞く事ってありませんでしたが、最近は年下の友人達が一斉に免許を取り始め、話を聞くとなかなかおもしろそうでした。
教習所までは自転車で約15分。近いのですが、教習所の方向ってほとんど行ったことがないです。駅が西側だからか、家より東へ行く事は皆無です。駅との往復バスも出ていますが、行きはともかく帰りが遠回りなので少し不便なようです。
さて、始めて足を踏み入れた教習所ですが、あまりに古い感じなのでちょっと驚きです。建物もプレハブですが、まあ車とコースさえしっかりしていればいいのでしょうね。
入学手続きと説明のみ聞いて帰ってきましたが、建物は古くても事務や教習の予約、料金の払い込みなどは機械を使って行えるようです。家からインターネットで教習予約を行えるのも便利。建物にお金をかけない分、そういったところに予算を割いているのでしょうか(笑)
とりあえず入学金約12万を払い込み、あとは一教習で4700なので少しずつやっていこうと思います。最初はまとめて一気にと思ったのですが、1日2教習で毎週土日通うと一月でで7万5千円もかかってしまうのできついですね。
さて、9月くらいには仮免取得の報告をしたいものです。
7月30日
宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」を見てきました。
この作品で宮崎監督も長編は引退という事で、かなり残念。
しかし、これまでに培ってきたものはこれから先も受け継がれていくのだろうと思います。
かなりの混雑が予想されたので1時間前に行ったら案の定行列で、ぎりぎりで座れました。
引っ越しの途中、両親と共に不思議な街へと迷い込んでしまった千尋。仕事のない者は消えてしまうか動物に変えられてしまう、というその街で千尋は少年ハクに助けられ、神々が湯治にやってくる湯屋で働く事になる。千尋という名前を奪われ、千と呼ばれながらも、千尋は豚になってしまった両親と共に帰るという希望を捨てずに毎日を過ごす。周辺で起こる様々な出来事に千尋は段々と強い自分を発揮していく……。
さて、広告やCMなどを見た人はみんな思うかも知れませんが、この主人公の千尋はこれまでのようにかわいいという顔をしていません。丸顔で鼻は低く、ヒロイン顔とはかけはなれています。
何にでも興味を持ったり楽しんだりするがらでもなくて最初は引っ越しが不満でずっとむくれているし、不思議な街に迷い込んでからも助けてくれた人に対してなかなか謝ったりお礼を言ったりができずにいます。
ですが、湯屋で働くようになってからはずいぶんと様子が変わってきます。特に生き生きと働いている、というわけではないんですが何事にも一生懸命なんですね。そして自分の思った事ははっきりと言います。人間社会で普通に暮らしてきた時には一人っ子で両親に甘やかされていたか逆に放っておかれたのか、あまり必要にせまられて何かをしたという経験はなかったのだと思います。
千尋は10歳という年齢を差し引いても痩せていて力もないし器用ではなさそうです。しかし、宮崎映画のヒロインだけあって体力は十分。重い物でもなんとか運ぶし、転んだり落ちたりしてもダウンはしません。人間ではない異形の者たちに囲まれて最初は恐れていたものの、他のみんなが敬遠するような半妖怪のような存在には逆に毅然として接したりします。
その様子は見ていて危なっかしくもすがすがしいです。
しかし、この映画は、そういうヒロインの存在によって周囲の人間関係が暖かくなったり、何かを変えたりといったものではありません。ただ千尋はどんな時でも自分をしっかり持っているというだけなのです。そして、大事なものを守るためには自分の危険を顧みず無鉄砲な行動に出ることもあります。
特別な力や大きな人間愛を持っているわけではない普通の少女の冒険物語。それが「千と千尋の神隠し」です。
なかなかこの映画の感想を率直に伝えるのは難しいのですが、一番簡単に、何より先に出てくるのはいい映画だった、面白かった、という事ですね。
7月31日
昨日に引き続き「千と千尋の神隠し」について書こうと思います。主人公、千尋は現代社会に生きる女の子。豪快、悪く言えば無神経な父親と現実的でクールな母親がいます。一人っ子で兄弟姉妹がおらず、甘やかされたという程ではないけど多少はわがままに育った感じです。いざというときに言いたい事をはっきり言うのは母親譲りか、クールな母親にはっきりと意見を言わされているからではないかと思いました。
さて、そんな千尋が迷い込むのは神様たちが住む異世界。そこは現実世界とリンクしているらしく、時折人が迷いこむ事があるようです。湯屋にやってくる神様たちも現実世界ではそれぞれご神体であったり河だったりします。開発が進み、山が削られたり河が汚れたり、神様達も大変なのか、疲れを癒す湯屋は大変な混雑です。
湯屋はただの癒しの場ではありません。支配人の湯婆婆はただ快適なサービスを提供しているのではなく、そこからしっかりと利益を得ています。強欲、と言ってしまえはそうなのかも知れませんが、部下たちの様子などからは現実世界の会社などを思わせ、経営などの苦労が伺えます。
まして、客は神様なのです。日本の神様は古来、ただ人々を見守ってくれる暖かい存在ではありませんよね。恵みを与えてくれる存在でありながらも怒らせれば恐ろしい。人々が崇拝するのは同時に恐ろしいからでもあります。
神様たちは異形ではあってもユーモラス。知的な存在だとは思うのですが、何を考えているのかなどさっぱりわかりません。おそらくトラブルなどは日常茶飯事なのでしょう。
そういった神様をなだめすかしてお金を得ている湯婆婆だって湯屋では権力者であっても外には弱いのです。
この映画の面白さの一つは、世界のわからなさです。
そこに住んでいる人たちは、おそらく世界がどうなっているのか、どうしてそうなのかといった疑問は持ちません。神様に対しても湯婆婆に対しても、そういうものなんだ、という空気があります。いろいろと疑問が渦巻いているのは観客だけでしょう。千尋もあまり色々と質問したりはしません。自分の置かれている環境に対して、疑問を持つよりは適応しようとするタイプのようです。
「となりのトトロ」や「もののけ姫」も日本や和風の世界を舞台にした話です。トトロはユーモラスで無害な存在ですが、下手をするとうっかり人間くらい踏みつぶしてしまうのではないかというような鈍感さがあります。もののけ姫の方は、消えつつある自然に対して森の神が逆襲するというような内容になっています。
宮崎駿の描く自然というのは常に人間とは違う異質なものです。宮崎映画と言えば昔は環境問題に訴えかけたものという見方が強かったのですが、最近の映画だとそういう見方はできないですよね。
ただの破壊でもなく、保護するのでもなく、異質なものだから常に手探りでつきあい方を探していくしかないのでしょうね。時には失敗して相手を傷つたり、思わぬ逆襲をくらったりしながら長くやっていくのではないかと思います。
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