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剣光

 


 

古井洋

 



 
 初夏の日差しが青々と繁る木々の葉を通し、うっすらと山中の細道を照らしていた。
 高処(たかみ)の宿場より二里ほど奥に入った辺りは、瀬羽(せわ)峠越えで一番の難所と言われる。この季節でも早朝にそこを通過しなくては日の入りまでに次の宿場にたどりつくことはできない。
 旅人の姿も絶えてしばらく、鳥の声と木々のざわめきだけが聞こえる山道を、ひとりの男が登っていた。歳の頃は四十すぎ、旅装束に菅笠、眼光は鋭く、腰に大小の刀。急な登りを力強く歩いてゆくその姿は、道行く者を圧倒するであろう迫力を備えていた。
 男の歩く速さがいかほどのものであろうと、日が暮れる前にたどり着くのはせいぜい峠までである。田舎ゆえ峠には茶屋すらもない、野宿覚悟でないことには登れぬ時刻だ。
 男の名は橋本千蔵という。奥州某藩に仕えていた。
 五日前までは。

 橋本千蔵の父、橋本功蔵は馬廻組百五十石取りの武士であった。千蔵は三十で家督を相続して自身も馬廻組に役を負った。それからまもなく、少年の頃から通いつめた坂島一刀流道場で免許皆伝となり、師範代を務めるようになる。妻の未代との間に生まれた息子、千馬もすくすくと育ち、千蔵の人生は幸福であった。
 千馬もやがて、坂島一刀流と共に藩内最強と並び称される式軍流の道場に通うようになり、父の才能を継いでかめきめきと腕を上げた。だが、それをおもしろからずと思うものがいた。名を大山市太郎といった。
 大山市太郎は千蔵と歳近く、式軍流道場に通っていた。剣では滅法強かったが素行が悪く、ごろつきどもと徒党を組んでは悪さをしていた。
 二十年ほど前、すでに剣士として評判だった千蔵が気に食わず、難癖をつけては喧嘩をふっかけようとしていた市太郎は、千蔵にあしらわれてかっとなり、手にした木刀で殴りかかった。千蔵は難なくそれをかわし、市太郎は逆に地面に蹴倒されて笑い者になった。
 市太郎はその後しばらく酒に溺れた。市太郎の子分のごろつき連中も離れてゆき、市太郎はやがて、どこへ行ったものか行方知れずになった。大山家は次男の宗次郎が継いだ。
 一年前、市太郎はふらりと戻ってきた。しばらくは大山家から生活費をもらいつつ何もせずに暮らしていたが、ある日、かつて通った式軍流道場に顔を出した。そこで十五になる千蔵の息子、千馬に目をつけたというわけである。
 市太郎は師範代の目の届かぬところで稽古と称して千馬を苛んでいたが、負けん気の強い千馬は父に何も言わず、千蔵は毎日、青痣をつけるほど激しい稽古をして帰ってくる千馬を誇りに思うだけであった。
 そんなある日、千馬は大怪我をして医者に運ばれた。胸の骨が折れて肺臓に突きささり、命にかかわるというほどの怪我であった。千馬は十日間床に伏していたが回復するどころかますます悪くなり、とうとう死んでしまった。見舞客から、それが市太郎の仕業と聞いた千蔵はにわかに屋敷を飛び出していった。
 その頃、市太郎は酒場に入りびたっていた。加減を違えて大怪我をさせてしまったのは気分悪く、千蔵がやってくると思うと恐ろしかった。明日にも旅に出ようと考えつつ勘定を払って酒場を出ると、そこには鬼の形相の千蔵がいた。市太郎はとっさに刀を抜いた。が、素面でもかなわないものが酔っているときに相手になろうはずもない。市太郎は千蔵の一撃を受けることもかなわず斬られ、即死した。
 千蔵はすぐさま屋敷にとってかえすと未代に離縁状を書き、旅じたくを整えて泣き伏す妻を後に城下を出た。息子を殺されたとはいえ人ひとり斬って許されるはずもない。罪が妻に及ぶのを恐れての三行半(みくだりはん)であった。城下を出てしばらくして、千蔵の両手がわなわなと震えた。免許皆伝の腕とはいえ、人を斬ったのはこれが初めてであった。千蔵は腰の刀に触れた。飛島吉右衛門の銘が入った名刀が左手とともに震え、かたかたと音をたてた。

 高処の宿場に入る頃、千蔵は追っ手がかかっているのに気がついた。覚悟はしていた。放蕩者とはいえ敵を討たなければ大山家の面目はつぶれる。追っ手は大山家三男の善三郎であろうか。善三郎は長兄の市太郎とは違い、いたって真面目な人物で二十五にして介派一刀流免許皆伝となった天才である。剣を交えればどちらかが死ぬだろう。
 千蔵は死にたくはなかったが殺したくもなかった。ならば逃げるしかない。逃げ続ければ善三郎も報われぬ努力とあきらめてもくれよう。
 だが、報われぬのは千蔵であった。千蔵が難所にさしかかってしばらく、ふと足を止めて細道左の斜面を見下ろすとはるか下に人影が見えるではないか。
 だいぶ遠いもののそれが旅装束の武士であることは見てとれた。登りはじめの頃、後ろに人がいなかったのは確かである。この時刻に登っていては次の宿場にたどりつけるはずもないし、ただ旅をしているものが善三郎の健脚に追い付けるはずもない。
 と、すれば、後ろの人影は善三郎に違いない。
 人影が千蔵を見上げたような気がした。千蔵はまた歩きだした。

 大山善三郎は市太郎の歳の離れた弟である。歳をとってからの子であったからか両親は善三郎を可愛がり、温厚な兄の宗次郎も弟に優しかった。善次郎が剣術を習いたいと言うと両親は始め渋い顔をしたが、あまりに熱心に頼むので結局介派一刀流道場に通わせることにした。もともと素質があったのか善三郎は同年代では抜きん出て強く、天才と言われたが、その言葉に甘えずにまわりよりもはるかに多く稽古をしてだれも寄せつけぬほど強くなった。やがて二十五になり介派一刀流免許皆伝となると父、市蔵は無理をして菊島の銘入りの刀を買い与えた。善三郎は自慢の息子であった。
 善三郎は長兄のことをよく知らなかった。市太郎は善三郎が幼い頃に家を出てしまっていたし、両親も次男の宗次郎もそのことに触れようとはしなかった。一年ほど前から、やって来て金をせびるようになった胡散臭い男が兄だと知っても善三郎はなつかしいとは思わなかった。
 善三郎は勉学に優れた宗次郎を尊敬し、剣術の他に学問にも励んでいた。剣ができても学が無く、物乞い同然に金をせびり、ごろつき同然にうろつき回って暴れる市太郎は軽蔑の対象でしかなかった。善三郎は実の兄である市太郎と口もきかなかった。
 市太郎はが斬られたと知ったときはさすがに善三郎も驚いたが、聞けば斬られて当然の事をしたという。善三郎はむしろ斬った者が気の毒になった。つまらぬ男のために人生を台無しにされてしまうとは。
 そうは思いつつも両親の悲しい顔を見ると口には出せず、黙っていたが、兄の宗次郎までも困惑顔でいるではないか。宗次郎はその人柄と実直な務めで出世していた。それを妬む者も多く、そういう連中は宗次郎を剣もできぬ腰抜けと陰口をたたいていた。
 市太郎が斬られた件で、そうした者たちの一部が大山の家は敵討ちもせぬのかと揶揄し、宗次郎を悩ませていた。兄がそう語ったときに善三郎の心は決まった。
 善三郎は速急に仇討ち願いを出し、それが受理されるとすぐに市太郎の敵である橋本千蔵を追ったのである。
 千蔵が坂島一刀流免許皆伝の腕である事は聞いていたが、善三郎も天才とうたわれる剣士という自負があった。負けはしない。
 両親に仇討ちの意志を告げると両親はいっそう悲しげな顔をしたが、無駄と知ってか止めはしなかった。兄は善三郎が負けるとは露ほども考えないようで善三郎にかなり多めの路銀を渡し、仇討ちが長くなる場合の仕送りについて等を言い含めて善三郎送り出した。
 善三郎は急いだ。瀬羽峠を越えて次の宿場である香内にたどり着くとそこから道は三方に別れてしまう。なんとしてもそこへ着く前に追いつかねばならぬ。そして四日目、高処にたどり着くと少し前に千蔵らしき人相風体の男が峠へ向かったという。善三郎はほとんど休みもとらずに高処を後にした。難所といわれる峠越えでも善三郎にとっては大した苦にならなかった。
 善三郎はふと上を見上げた。はるか先の道を動く人影があった。善三郎はすぐにそれが千蔵だと確信した。

 峠といってもそこにあるのは瀬羽峠と印された石標だけである。橋本千蔵は石標の横の石に腰をおろし、持っていた水で口を湿らせた。少ない荷物を地面に下ろし、刀を抜いて目の前にかざしてから鞘に収めた。
 おもむろに立ち上がり、刀を抜いて二度三度と空を斬ってみる。それから大きく息を吐き出し、次いでゆっくりと吸いこみつつ青眼に構えた。坂島一刀流の型を二、三本演じてふたたび鞘に収め、自分の登ってきた道を見た。
 日は沈みつつあった。
 その夕日のなかを近づいて来る影があった。影は、千蔵から少し離れて立ち止まった。介派一刀流の天才、大山善三郎に間違いなかった。
 千蔵は善三郎がなにか言おうと口を開いたのを手で制し、黙ってうなずいて見せた。善三郎は黙って荷物と菅笠を捨てた。
 名刀、飛島吉祥と菊島が同時に鞘から抜かれた。二人は青眼に構え、睨みあった。
 善三郎が先をとって烈泊の気合いと共に鋭く斬りこむ。千蔵はその強烈な一撃を刀で受けずに巧みに受け流した。善三郎の刀があらぬ方向へと泳ぐ。千蔵は手首を翻して善三郎の首筋を狙ったが、善三郎は体をひねってかわす。
 二人がすれ違って向きあうと同時に今度は八双に構えた千蔵が打って出る。善三郎はその一撃を下から跳ね上げてがらあきの胴に斬りつけた。千蔵は見事な足さばきでそれをのがれ、踏み込みつつ下から上へと切り上げると善三郎は半歩下がって千蔵に宙を斬らせ、反撃の突きを入れる。が、しかし、千蔵は後ろに跳び、互いの間合いを離した。
 それから斬り合っては離れること十数度、互いの刃が全く相手に触れる事無く繰り返された。初夏とはいえ高山の肌寒い空気のなか、汗が浮かんでは流れ落ちてゆく。
 夕日を背にした善三郎は、千蔵の汗の滴の中に沈みゆく夕日が光るのを見た。そして、滴のひとつがつつと千蔵の額を伝い左眼へ落ちてゆく。千蔵は思わず目をつむった、善三郎はそこに渾身の気力を一撃に込めてあびせかけた。が、その斬撃が千蔵に届くよりも早く、名刀飛島吉祥が神速の弧を描く。
 ……千蔵はつむっていた目を開いた。
 肩口から胸をななめに切り裂かれた善三郎の剣が、力なく千蔵の肩に当たった。
 それは、衣一枚切り裂くこともかなわなかった。
 善三郎はそのまま横ざまにどうと倒れ、動かなくなった。手に持った名刀菊島が夕日を映して千蔵の眼を射った。
 千蔵は懐紙を取り出して刀を拭った。拭った紙から千蔵の手に善三郎の血が伝い落ち、千蔵は血のついた手を袴にこすりつけた。
 日はほとんど沈んでしまった。千蔵は穴を掘ると善三郎の亡骸に名刀菊島を抱かせて中に入れ、元どおりに埋めてその上に石を積んだ。
 しばらく休んでから千蔵は歩きだした。
 いつのまにか夜になっていた。ふと辺りが明るくなり、千蔵は夜空を見上げた。雲
に隠れていた月が姿を現したところだった。
 三日月であった。


 

 


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