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木星のティベル
古井洋
- ティベル・ヒューストンが目覚めて最初に見たのは、眼前に浮
- かぶ小さな水の球だった。
- それが自分の涙だと気付くのには、眠い頭で数秒の時間を要し
- た。彼女は枕元の鏡に手を伸ばし、自分の顔を見る。青い瞳は潤
- んでいて、瞬きをすると少し長めのまつげの先から、さらに数粒
- の涙滴が細かく宙に散った。
- 悲しいのは、夢に置いて行かれたせいだ。
- 彼女はぼんやりと考えた。記憶はおぼろげだったが、夢は感動
- 的なもので、ティベルは充実した幸せにひたっていたはずだっ
- た。しかし、具体的な内容は、何ひとつ思い出せなかった。
- そのまま、気怠さと心地よさの入り交じった寝覚めの数分を
- ベッドの中で過ごしていると、枕元のアラームが起床時間を告
- げ、同時に部屋の電灯が点いた。
- 彼女は、不条理な悲しみを振り払うように素早くアラームを止
- め、ベッドの固定具を外して寝具から這い出た。
- 細い身体が宙に浮き、伸ばした赤毛が無重力の空間に広がる。
- ティベルはウェットタオルで顔を拭い、髪をゴムでとめてスプ
- レーをかけた。髪の毛がまとまって自然なポニーテールになる。
- ロッカーまで飛んで赤と白のつなぎを取り出し、それに着替え
- て寝間着をハンガーに挟む。壁のフックに固定した携帯用ノート
- 端末を肩に掛けて用意を終えると、彼女は部屋を出た。
- コロニーの居住地区の廊下で移動用グリップをつかみ、エレ
- ベーターへ向かう。到着するとちょうど扉が開き、一日の作業を
- 終えた近所の青年達が出てきた。
- 「おはよう、ティル。今日は学習日かい?」
- 先頭の若者がティベルに話しかける。
- 「いえ、先週十三になったから、学習班はもう卒業。今日から倉
- 庫管理室に配属なの」
- 「そうか、おめでとう。これで君も共同体に貢献する一人前の市
- 民だな」
- 「ありがとう、エド。頑張るわ」
- 「気をつけてね、ティル」
- 隣の若い女性が、ティベルの肩を軽くたたく。
- 「ええ。おやすみ、キャシー」
- ティベルは個室へ帰って行く彼らに手を振ってエレベーターに
- 乗り込み、ボタンを押した。エレベーターが重力ブロックの回転
- に同期し、下降を始める。
- 床方向へ足を付けて、徐々に強くなっていくGに逆うように大
- きく伸びをしていると、壁のメーターが〇・九七Gを示し、扉が
- 開いた。最下層であるこのブロックは、かつての慣習のまま一G
- ブロックと呼ばれている。
- 時計は地球標準時で十一時を示していた。ティベルの生活時間
- からすれば、朝だ。食堂へ向かう途中、学習班での友人達と出会
- い、あいさつを交わす。授業に向かう彼らの姿が、妙に他人めい
- て見えた。
- 食堂は広く清潔で、簡素だが落ちついた雰囲気の空間である。
- 数少ないプライベートの時間を大切にするために、テーブルの間
- 隔は広い。
- 彼女は、栄養を慎重に考慮しながら朝食を選んでトレーに乗
- せ、片手で壁の端末を操作し、両親のIDを入力して検索する。
- 二人はティベルより四時間早い一日を送っているので、この時
- 間は昼食を食べているはずだ。
- 端末のモニターに表示されたマーカーのうち二つが反転し、両
- 親の位置を示す。振り向くと、父親のジノが遠くで手を振ってい
- た。ティベルは小走りにそちらへ近づく。
- 「おはよう、父さん、母さん」
- 「おはよう、ティル」
- 「おはよう。寝癖のままスプレーしたわね」
- ティベルはあわてて髪の毛に手をやった。母親のミリエルは
- ティベルを座らせ、細くしなやかな指で自分と同じ色質の髪をほ
- ぐす。
- 「ティル、いよいよ今日からだな」
- ジノは、髪の毛を母親の手に委ねておとなしく座るティベルに
- 声をかけた。
- 「うん……。少し、緊張ぎみ」
- ティベルは答える。その間にも、ミリエルは櫛を出してティベ
- ルの髪を撫でつけていた。
- 「それでいいんだ。一人一人が責任を背負って仕事をしなけれ
- ば、我々共同体の人間は生きていけないんだからな」
- 「そうね」
- ティベルは後ろを気にしながら軽くうなずく。
- 「まあ、ほどほどに頑張れよ」
- 「はい」
- 元気に答えるティベルの髪に、ミリエルは軽くスプレーをかけ
- る。
- 「これで完了。早く食べないとオムレツが冷めてしまうわよ」
- ティベルは朝食を食べ始めた。ジノとミリエルは、ティーンエ
- イジャーになったばかりの娘をしみじみと見つめて微笑みあう。
- 食事を終え、両親との会話でひとときを過ごすと、ティベルは
- 時計を見て言った。
- 「じゃあ、そろそろ時間だから」
- 「行っておいで、気をつけるんだぞ」
- 「トレーはいいわ、片づけておくから」
- 「はい、ありがとう」
- 席を立ってノート端末を肩から下げる。
- 「行ってきます」
- ティベルは笑顔を作って両親の頬にキスをし、手を振って食堂
- を後にした。
- 倉庫管理室の北宇宙港オフィスへ着くと、ちょうど出勤時間の
- 十二時だった。深呼吸をしてドアを開けると、両親の友人である
- ジョセフ・エリクソンが彼女を出迎えた。
- 「ようこそ」
- 背が高く穏やかな容貌の彼は、このオフィスの責任者である。
- 「ティベル・ヒューストンです。今日から、よろしくお願いしま
- す」
- 「よろしく」
- 差し出された手を、ティベルは軽く握る。
- 「とりあえず、一通り説明しよう」
- ジョセフが端末のキーを叩くと、モニターに一日の計画表が表
- 示された。
- 「学習は済んでいると思うが、倉庫管理室では資材や薬品、食料
- など、このコロニーで必要なものを管理、配送するのが仕事だ。
- きつい仕事はないが、重要な部署なのでしっかり働くように」
- 「はい」
- ティベルは、はっきりと返事をする。
- 「君は新人だから、調査にまわってもらう。地味で退屈な仕事か
- もしれんが……君の適性は確かAだったな。頑張ってくれたま
- え」
- 「はい」
- 「君の作業区域は、C―一七コロニーだ。B―〇三コロニーの事
- 故の時に運び出された資材などが、コンピューターに登録されな
- いまま大量に保管されている」
- ジョセフがさらに操作すると、画面が貯蔵リストに変わった。
- C―一七コロニーの部分はそっくり空白になっている。
- 「今後のことを考えると、そちらの様子も知っておくに越した事
- はない。君はそれを一つずつ記録して、管理データを更新するん
- だ。大型コロニーでないとはいえ、一人で作業をするには貯蔵量
- は多い。一年がかりの仕事になる」
- 「はい」
- 気負って答えるティベルを見て、ジョセフの口調は優しく変
- わった。
- 「我々には人員の余裕がない。C―一七コロニーでの作業は君一
- 人で行うことになる。最初から孤独な仕事を回して悪いな。辛い
- と思ったら遠慮なく言うんだ」
- 「はい、大丈夫だと思います」
- ジョセフの言葉に、ティベルの緊張もほぐれてくる。笑顔で答
- える余裕ができた。
- 「では、私は仕事があるのでしばらくここを離れる。詳細は君の
- ノート端末に送ってあるので、移動時間を利用して読むように」
- そう言って、ジョセフは自分の端末のメモに目を通す。
- 「それと、C―一七コロニーはしばらく人が入っていない。君自
- 身で安全基準項目のチェックを終わらせるまで、万が一に備えて
- 宇宙服の着用が義務づけられている。忘れるな。最後に、君の
- IDカードを」
- 「これです」
- ジョセフは受け取ったカードを端末のスロットに差し込み、い
- くつかの手続きを済ませた。
- 「これで、ボートの利用が可能になる。では、失礼するよ」
- ジョセフは、そう言って準備室から出て行った。ティベルは再
- びモニターに作業計画表を出して自分の作業時間と項目を再確認
- し、ロッカールームへ入る。
- 用意された宇宙服を着こみ、ヘルメットとノート端末を手に
- ボート発着所へ行って、発着カウンターの係官に自分のIDカー
- ドを渡した。
- 係官がカードを差し込むと、モニターに映し出された運行表の
- 十四番が点滅する。係官は黙って港の奥を指した。
- 発着所には大きな窓があり、全長五メートルほどの小型宇宙
- ボートが並ぶ様子を見ることができる。窓の外は宇宙空間だが、
- ゲートがボートと港を直接つないでいるので、乗り込む人間は真
- 空にさらされずに済む。
- ティベルはボートに乗り込むと、ヘルメットを壁のフックに固
- 定してシートに座った。
- シートベルトを締め、コンソールを操作して発進の手続きをす
- る。ゲートに取りつけられた二重のシャッターと入口のハッチが
- 閉まり、ボートは鈍い振動と共に切り離された。
- 軌道はIDカードに記録された行き先に従って自動的に計算さ
- れているので、ティベルは何もする必要がない。
- 彼女は、ボートの加速を感じながらノート端末を開き、時間を
- かけて作業の手順を確認する。それでも時間が余ったのでぼんや
- り外を眺めた。
- 視界の上方には木星が広がっている。後方ではティベルの住む
- Bコロニー群のうち、通称「ハイウェールズ」と呼ばれるB―〇
- 九コロニーが遠ざかっていく。
- コロニー群という言葉から想像するほどそれらは密集しておら
- ず、広大な空間に浮かぶ様子は不安げですらある。
- なんてちっぽけな島なんだろう。ティベルは宇宙に出る度にそ
- う思う。
- 数十のコロニーのうち、人が住んでいるのはハイウェールズだ
- けだ。それも、定員六万人を遥かに下回る八千五百人に過ぎな
- い。
- 木星圏にはエネルギー産業などに携わる約三百万人の人間が住
- む予定だった。だが、コロニーのほとんどが完成し、人が移住す
- る段階になって、地球で大規模な戦争が起こった。地球からの連
- 絡船が途絶え、コロニー建設スタッフとその家族、合わせて四万
- 人が木星圏に取り残された。
- やがて、地球からの通信が途絶えた。地球へ送った船も途中で
- 連絡を絶ち、戻らなかった。
- 不安は混乱を招いた。無理に連絡船を発進させて事故を起こし
- た人間もいた。全面戦争によって地球人類は滅亡したという悲観
- 的な見方が流行し、自殺者も出た。だが、多くの人々は長く生き
- ていくことを考えた。
- なにしろ、当初は大規模コロニー群として建設された施設であ
- る。備蓄されている資材の総量は計り知れない。人々は、それぞ
- れ専用施設として建造された幾つかのコロニーの施設を一つにま
- とめ、そこに集まって暮らした。
- 十年が経過し、大きな決断をして送られた最後の連絡船が帰っ
- てこなかったとき、彼等は地球へ帰ることをあきらめた。
- やがて、世代の交代が起こる。それは数回繰り返され、ティベ
- ルはコロニー建設スタッフから数えて六世代目。実に百二十年が
- 経過していた。
- 様々な障害を乗り越え、地球から平均八億キロ離れた空間で
- 人々は生きてきたのだ。
- 全ての人々が全ての人々のために働く社会がそこにはあった。
- それは、共同体と呼ばれるようになっていた。
- もはや、地球は故郷ではなかった。
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